豊原国周、海外出品ドタキャン失踪事件と顛末

国周ドタキャン

今年(2025年)生誕190年を迎える浮世絵師・豊原国周。関連の展覧会が続々と開催されている。

川崎浮世絵ギャラリー「豊原国周展」

太田記念美術館「生誕190年記念 豊原国周」

静嘉堂文庫美術館「歌舞伎を描く」

青山目黒「ネオ江戸 豊原国周」

今回は太田記念美術館の豊原国周展(前期)で展示されていた豊原国周の肉筆画「墨堤観花図」にまつわるエピソードをご紹介。

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豊原国周とは

豊原国周
豊原国周

天保6年6月5日〈1835年6月30日〉、江戸京橋五郎兵衛町(現在の中央区八重洲2丁目)に次男として生まれる。歌川国貞(三代豊国)に10代なかばで弟子入り。明治になって激変する社会情勢のなかでも、役者大首絵シリーズを刊行するなど国貞から受け継いだ従来のスタイルにこだわり、自身の画風を発展。当時の役者絵を自身の独壇場とした。自称引越し117回という奇行、宵越しの金は持たない江戸っ子エピソード多数。

破格の揮毫依頼

明治25年(1892)、国周と弟子の楊洲周延は帝国博物館館長である九鬼隆一からシカゴ・コロンブス万国博覧会への出品依頼を受けた。当初示された画題は、国周が「墨堤観花図」、周延は「貴人観花図」であった。しかし、似たような画題が避けられたのか、周延は最終的に「江戸婦女」(東京国立博物館蔵)を描いている。

国周の孫の証言によると、当時三枚続の版下絵一組の画料相場が国周のレベルで7円50銭だったのに対して、博覧会への出品依頼の画料は100円。破格の揮毫依頼だった。

破格の依頼に版元と弟子で祝いの席を用意したものの、待てど暮らせど本人が現れない。半日探し回ったところ、吉原の引出茶屋「初子屋」の2階で芸者や太鼓持ちを集めてどんちゃん騒ぎをしていたという(「国周の孫、吉田イトさんからの聞き書き」より)。

描き直しとドタキャン失踪

国を代表した破格の注文は一筋縄ではいかなかった。出品画の図案は「平素の豪気を顕はしたる稀なる出来」だったが、検査役の異議によって二度も描き直しを行うこととなる。

描き直しに応じてようやく図案が認可された国周は、完成図案を懐にしまって日本橋和泉町の知り合いを訪問。図案に見合う額縁その他について相談した。

このとき知人からご馳走された国周は十二分に酔い、夜がふけた帰路で完成図案を紛失してしまう。描き直したとはいえ国周が自分で考えた図案。3、4日も費やせば再び描き上げるのも難しくはなかったが、描き直しに不満を抱いていた国周は警察署に遺失物届を出すと、依頼元の農商務省へは揮毫御免の断りの願書を出してフラリと姿をくらましてしまった(「画工国周翁の奇癖出品の揮毫を辞す」より)。

報じられた失踪の真相

国周が揮毫を断った翌月(10月)続報が届く。国周は東京に戻り、千束村の画室で揮毫を行うことになったという。いったいどういうことだろうか?

そもそも国周は普段から連日の大酒で貧乏暮らし。破格の注文に対しても絹地や額縁を用意するお金もない状態だった。そこへ二十余年身の回りの世話をしていた実の娘(※1)が数カ月間の暇を乞い、国周のそばを離れると言い出した。

年頃を過ぎた年齢まで婿を選ばずにいたことを不承知だったからそんなこと言うのかと国周が尋ねると、娘は涙して訴える。酒癖と老体の国周のそばを離れることは本意ではないが、一世一代ともいうべき揮毫依頼に資金不足で支障があっては悲しいばかり。この身をどこかにおいて金策をするつもりである。婿のことを言い出すのは本当に恨めしいことだと嘆いた。

国周も涙して固辞したが、娘のたっての願いに最後には受け入れた。娘は農家へ手伝いに出て給金を前借りして国周の準備資金を用意したのだった。

ところが前述のように完成図案を紛失してしまい、国周はさすがに自分にあきれて娘に対する面目も立たず、にわかに姿をくらまして生涯絵は描かないと決心する。そのことを聞き及んだ娘は情けなく思い、農家の主人に許しを得て父・国周の居場所を探し当て、主人が持たせた手紙もろとも国周の不心得を諫めた。

国周も心を入れ替えて揮毫を継続することとなり東京に戻る。シカゴ・コロンブス万博の調整役だった山高信離(※2)に面会して経緯を説明すると、山高は国周の思い直しを喜び「是非とも揮毫を急ぐべし」と激励。万博出品画の完成期限は10月31日だったが、経緯を踏まえて国周には20日の猶予が与えられたという(「国周翁ノ消息」より)。

※1:娘の名は「ヒロ子」と参照資料に記載があるが、国周の孫の証言に依れば娘の名は「ハナ」であり、食い違いがある。

※2:ちなみに国周の出品画締め切りを延ばしてくれた山高信離の孫は、編集者で創作版画家でもあった山高登である。

山高登「旧よろひ橋夕映」
山高登「旧よろひ橋夕映」

出展されなかった?国周の「墨堤観花図」

紆余曲折を得て制作された国周の「墨堤観花図」だったが、シカゴ・コロンブス万国博覧会に出展されていたかがどうも怪しい。現地レポートの記事には、他の絵師/画家が描いた寸評が掲載されているが、国周の「墨堤観花図」にまったく触れられていないからである(「閣龍萬國博覧会実見録(第六報)」より)。

「其の他の絵画は評せず」とあるため、出展されていた可能性は充分にあるが、弟子の楊洲周延については「徳川時代美人の図の方錦絵としては可なりに受け取れ可し」と記載があるのに対して、あれだけ細密に描いた国周の江戸風俗画に対して一切の寸評がないのは不自然に思える。

以下はレポート記事で第一絵画の部として(おそらく日本画という分類で)出展され、寸評された作品の一覧である(リンク先は万博出品画、あるいは制作年代、画題と作品形式から出品画と推定される作品)。

作者 寸評に記載された画題 寸評に記載された作品形式
(記載なしは掛軸と思われる)
滝和亭 紅雀図 横額
野口幽谷 鯉図 横額
幸野楳嶺 秋日田家
尾形月耕 江戸山王祭
渡辺省亭 雪中鶏図
岸竹堂 虎図、鳶と烏図
橋本雅邦 山水図 横額
熊谷直彦 雨中山水図 竪額
池田真哉 川中島合戦図
鈴木松年 春景山水図
荒木寛畝 芭蕉に鶏図
菊地芳文 春堤群鷺図
今尾景年 鷲に猿図
田崎草雲 富士図 丸額
川端玉章 玩弄品行商の図 横額
望月玉泉 保津川湍淵游鱗の図
鶴沢探真 王昭君図
楊洲周延 徳川時代美人の図
鈴木華邨 日光山景の図 6枚
久保田米僊 鷲図
森川曾文 額(移送中の船内で水に濡れて色が変わってしまったため陳列されず)

現在、国周の描いた「墨堤観花図」は、その他多くのシカゴ・コロンブス万博の出品画とともに東京国立博物館に所蔵されている。

コラム:豊原国周と海外出品作
国周が海外出品のために描いたのは、シカゴ・コロンブス万国博覧会が初めてではない。

海外出品画として最も知られているのは、慶応3年(1867)江戸幕府が初めて公式参加したパリ万国博覧会への浮世絵画帖の出品である。目録によると、総勢11人の歌川派の浮世絵師が参加した美人画と風景画の浮世絵画帖のうち、国周は美人画を最多の10図描いている(風景画の最多は立祥(二代広重)の12図)。画料は11人で総額400両。前金として100両が支払われた。制作期間はおよそ50日で大金を払うことにより制作を急がせたことがうかがえるが、いずれも現存不明である(「パリ万博の浮世絵画帖」より)。

国周の最初期の海外出品画としては、文久年間(1861~64)に幕府がフランスに持っていく土産物として制作を依頼した浮世絵画帖があるという。歌川派の浮世絵師5人が参加した浮世絵画帖のうち、国周は能狂言の図を描いたとされているが、こちらも現存が確認されていない(「画工国周翁の奇癖出品の揮毫を辞す」より)。

現存が確認されている例としては、ウィーン美術史美術館に伝わる風俗・物語・花鳥図画帖がある。制作されたのは明治2年(1869)。明治天皇がオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に友好のあかしとして贈ったうちの画帖2帖で、各帖50図の計100図からなる。参加した絵師は狩野派の狩野永悳など旧幕府方の絵師から国周や三代広重をはじめとする市井の絵師までの6人。国周は17図を担当しており、ここでも美人風俗画を描いている。類似の画帖が故宮博物院にも所蔵されているという(「ウィーン美術史美術館所蔵画帖」より)。

メトロポリタン美術館には、美人と職人をメインに据えた年中行事や生活風俗を描いた豊原国周の『当世庶民風俗画帖』が収蔵されている。全30図あり、提灯職人の図に描かれた提灯に「明治七年」の文字が見えることから制作年は明治7年(1874)と推測されている。この作品も外国要人への返礼品・土産物の可能性がある。

「当世庶民風俗画帖」花生け
「当世庶民風俗画帖」花生け
「当世庶民風俗画帖」提灯職人
「当世庶民風俗画帖」提灯職人

https://www.metmuseum.org/art/collection/search/854699

【豊原国周が関わった海外出品画】

制作年または出品年 参加絵師(出品形式) 出品先・贈呈先
文久年間(1861~64) 三代歌川豊国、歌川貞秀、二代歌川国輝、月岡芳年、豊原国周(画帖) フランス皇帝
慶応3年(1867) 歌川芳艶、落合芳幾、豊原国周、歌川芳虎、月岡芳年、二代歌川広重、歌川芳員、歌川貞秀、二代歌川国貞、二代歌川国輝、歌川芳宗(画帖、画額説あり) パリ万博
明治2年(1869) 狩野永悳、住吉廣賢、服部雪斎、松本楓湖、三代歌川広重、豊原国周(画帖) オーストリア・ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
明治25年(1892) 豊原国周、楊洲周延(画額)他 シカゴ・コロンブス万博

まとめ

明治初期の役者浮世絵を独壇場とした豊原国周は国を代表する仕事も依頼されていた。残された作品や資料を見るかぎり、江戸風俗画・美人画を多く描いており、海外向けに江戸風俗画や江戸美人のジャンルで評価されていたことがうかがえる。海外出品画は報酬面でも大きな仕事であったがゆえに国周も力が入ったと同時に、描く内容について厳しく制約を受ける神経を使う仕事だったのかもしれない。

平成21年(2009)、国周たちが描いた画帖が発見された。明治2年(1869)にイギリス王子エディンバラ公アルフレッドに贈呈された画帖で、エディンバラ公が父の公位を継いだ先である旧東ドイツのゴータ・フリーデンシュタイン城美術館に所蔵されている。海外出品された作品はいずれも肉筆画であり、現存が確認されていない肉筆作品の新発見を期待したい。

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参考文献

『京都美術協会雑誌』第4号「画工国周翁の奇癖出品の揮毫を辞す」(1892)
『京都美術協会雑誌』第5号「国周翁ノ消息」(1892)
『交詢雑誌』第479号「閣龍萬國博覧会実見録(第六報)」素通生(1893)
『此花』第18枝「仏国博覧会出品浮世絵」(1911)
『美術研究』第379号「ウィーン美術史美術館所蔵画帖」塩谷純(2003)
『THE ハプスブルグ』図録 国立新美術館・京都国立博物館・読売新聞東京本社編(2009)
・「オーストリアに伝わるミカドの贈り物 ―明治新政府の文化外交―」永島明子
『浮世絵細見』「パリ万博の浮世絵画帖」浅野秀剛(2017)
『楊洲周延 明治を描き尽くした浮世絵師』町田市立国際版画美術館(2023)
『生誕190年記念 豊原国周』太田記念美術館編(2025)
・「豊原国周の画業」渡邉晃
・「国周の孫、吉田イトさんからの聞き書き」
メトロポリタン美術館コレクションアーカイヴ

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