昭和7年に初来日を果たした喜劇王チャーリー・チャップリン。親日家で知られるチャップリンだが、浮世絵にも精通していたらしい。初来日当時の報道からチャップリンの浮世絵好きにせまる。
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初来日の狂騒
喜劇王チャーリー・チャップリンは昭和7年(1932)5月14日に初来日を果たした。それまで何度かキャンセルとなっていた来日がついに実現したとあって、チャップリンは神戸港から東京へ向かう先々で熱狂的な出迎えを受けた。
当時の新聞も一面を使って、人々にもみくちゃにされている狂騒ぶりを報じている(画像参照)。
五・一五事件にニアミス
チャップリンは当時の首相、犬養毅と首相官邸で会見をする予定だったという。休養を優先させたいとの希望を持っていたチャップリンだったが、首相との会見のことは本人の知らないところで進められていたらしく、来日前の新聞でも報じられていた(画像参照)。
来日翌日(5月15日)の朝、日本人秘書・高野虎市から会見の予定を知らされたチャップリン。首相の息子、犬養健と会って会見を行うことを了解した。しかし、一緒に来日していた兄のシドニーが鞄を検査されたことに不快感を示すと、気分屋のチャップリンは会見の延期を申し出た。
犬養健は会見延期を了承すると、チャップリンが希望していた相撲のチケットも用意してもてなしたという。もし、会見を行っていたら、海軍青年将校が犬養首相を襲撃する五・一五事件に巻き込まれて命を落としていたはずだった(事件調書によると、日米開戦の契機とするため、計画の途中まではチャップリンも襲撃対象に入っていた。しかし、首相との会見がいつになるかわからなかったためにターゲットから外されたという)。
浮世絵展へ
そんな一大事に巻き込まれそうになっていたチャップリンは五・一五事件を知って、一時は帰国を早めることも考えた。しかし、事件翌日に上野の東京府美術館で行われていた東京浮世絵協会主催の第二回浮世絵綜合大展覧会へ出かけている。兄のシドニー、秘書の高野虎市とともに会場に現れたチャップリン。主催者側の浮世絵研究家・松本喜八郎の案内で説明を受けながら鑑賞したという。
当日のチャップリンの動向を当時の新聞はこう報じている。
チャーリー・チャップリンの滞京第三日は―半日しかなかった、といふのは熱心なファンの来襲を恐れるのと、春眠暁を覚えなかったのとを兼ねて、起きたのが午後三時前そこで食事といふ段になって、急に「テンプラ、テンプラ」といひだしたので、銀座の天金へ車を乗りつけて、海老天に御飯、日頃日本人がそばにゐるせいか、日本料理にも一かどの通だ、口の次には目にも日本趣味と、上野の美術館へ…まづ国画展覧会の入口で先生靴を脱がうとする「純日本画の展覧会だから土足ではないだらう」とは、天金で座敷へ上がった時のお行儀をそのまま、映画ではルンペンだが、本物では教養ある紳士、ここでは弟のチャーリーが先生で兄のシドニーが弟子だ、先生の講義に
日本の美術は固有の物と、フランス伝来の物と二つある、これは純日本式…日本では東西の二つが入乱れてゐる、あたかも東京の外貌のやうだ、一見ごたごたしてゐるがしかしそのために一つ一つよく見ると面白い
てなことをいってゐた、次は世界的日本名物ウーキヨエ(これはチャーリー式の発音)の展覧会、各時代の傑作が一堂に集まってゐる。「ウータマーロ、ヒーロシーゲ」と先生中々の大家だ、ここではことごとく感心して「ツォッ、ツォッ」と猫を呼ぶやうな舌打をする、これは西洋人が感に堪へた時の表現である
シド兄さん、これが「ホクサーイ」の部屋です、これらの画は一人の画家の手になったとは思へない、色々と画風が違ってゐる、―ほほう、これが八十八歳の時の画ですか、力強いぢゃないか、何十年も描き続けて、各時代一々画風や画法を変へてそして一つ一つが皆熱があって最後に至るまで衰へない…
この講義も最後に至っては独りごとのやうだったがこれは浦浪の富士だ、シド兄さん、これはチョコレートの箱で知ってるはずです、忘れましたかと今度は試験だ、チャップリンは浮世絵の総てに対して、猫を呼びながら、薄暗くなってからホテルに引揚げ、夕食後多年の宿願たるカブキを見物した(後略)
―「東京朝日新聞」1932年5月17日朝刊「チャーリーの三日目」より
秘書の高野虎市をはじめ、自宅の使用人を全員日本人にしたという日本びいきだけあってか、浮世絵の前知識はかなりあったようだ。他の新聞でも浮世絵鑑賞した際の様子をこう報じられている。
(前略)鼈甲ぶちロイド眼鏡の奥から「この紫はすばらしい!」と浮世絵独特の古代紫をほめて鑑賞眼の鋭いところをみせる(後略)
―「読売新聞」1932年5月17日朝刊「きのふの喜劇王」より
古代紫とは赤みを帯びた紫色。浮世絵に使われる紫色は紅花から取った紅色と青花(または露草)から取った青色を混ぜ合わせたものが主流だった。しかし、錦絵が始まった鈴木春信の頃の青色は色があせやすかった。チャップリンが、どの浮世絵を見て紫を絶賛したかはわからないが、青色が退色しにくくなった寛政期以降の歌川国貞(三代豊国)などの浮世絵と思われる。
また「ね。この線が、なんてセンシブルだらう。ほれごらんよ、西洋の人なら、この茎を真中から書くんだが、横っちょから生やしたのがいゝね」と兄シドニーと話し込むチャップリン様子が当時の新聞挿絵(「東京朝日新聞」1932年5月17日朝刊)で描かれている。ここでチャップリンが眺めているのは、鈴木春信が描いたとされる無款の作品「瓶花図」。
新聞挿絵にも描かれた「瓶花図」は展覧会目録には画像の収録はなかったが、雑誌『浮世絵芸術』のなかで紹介されていた。白菊と撫子がたしかに花瓶の「横っちょ」から茎を伸ばしている。
目録によると、この展覧会は葛飾北斎84回忌を記念して顕彰碑を建てた記念展覧会を兼ねており、北斎の展示エリアは他の出展作とは別にエリアが設けられていたようだ。肉筆の屏風が24点、肉筆の掛物および額物が289点、版画が492点(うち明治大正期のものが57点)、絵本が13点、大津絵が21点、北斎関連作が北斎の肉筆作品を含めて306点、北斎の門人作品が23点。「綜合大展覧会」の名にたがわぬ出展量だった。
まとめ
チャップリンは帰国後、ファシズムと闘ったトーキー映画(映像と音声が同期した映画)『独裁者』を制作することになる。五・一五事件という戦争に向かっていく一大事件に遭遇しかけたことも『独裁者』を制作した契機になったかもしれない。
そんな状況にも関わらず、チャップリンは自伝で来日時を振り返り「日本の思い出が、すべて怪事件と不快ばかりだったわけではない。むしろ全体としては非常に楽しかった」と書いている。チャップリンにとって初めて訪れた日本で過ごした時間は、大好きな天ぷらを味わい、浮世絵や歌舞伎を楽しみ、日本文化に癒しを得たひとときだったのではなかろうか。
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参考資料
『浮世絵界』第1巻第5号「チャップリンと浮世絵」
『浮世絵芸術』第6号(昭和7年7月発行)
「東京朝日新聞」1932年4月24日夕刊「喜劇王と首相 官邸で会見」
「東京朝日新聞」1932年5月17日朝刊「チャーリーの三日目」
「読売新聞」1932年5月17日朝刊「きのふの喜劇王」
「第二回浮世繪綜合大展覽會目録 北齋翁建碑記念展覽會」
「色の博物誌 江戸の色材を視る・読む」図録 目黒区美術館
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