鈴木春信と笠森お仙の記念碑建立の理由とは?

粋な俳諧人が贅を尽くした多色刷り木版画、錦絵の開祖として知られる鈴木春信。そんな彼をたたえる記念碑が台東区大円寺(大圓寺)に建っているが、どんな経緯で建てられたのか調べてみた。

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記念碑が出来た経緯

大円寺に記念碑が出来た経緯は雑誌『錦絵』第30号で、記念碑設立の中心人物である文学者、笹川臨風によって詳しく書かれている。もともとは大正八年(1919)に鈴木春信没後150年の法要を有志で行おうとしたところから話は始まったという。しかし肝心の墓の場所がわからなかったため、鈴木春信に縁の深い場所に記念碑を建てるという話に発展。記念碑建立場所として、当初は以下の候補地が挙がっていた。

・鈴木春信が住んでいたとされる両国米沢町(現在の東日本橋)に近かった両国公園
→自治体の土地であり役所手続きが面倒、敷地が狭い、露店に占拠されていてふさわしくないことから見送られた。

・江戸の名所であった待乳山(まつちやま、現在の本龍院がある台東区浅草7丁目)
→石材の運搬が不便な地であること、土地の買入れが難しそうということで見送られた。

・深川公園
→笹川臨風自身が提案したが却下された。

最終的には、現在の大円寺に決まった。鈴木春信没後150年の法要を行える場所、そして鈴木春信は笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘の阿仙を「笠森お仙」として数多く描いていたことから、笠森稲荷を祀っていた大円寺に白羽の矢が立ったのだ。

大円寺(台東区)

大円寺(台東区)

笠森お仙

笠森お仙

コラム:大円寺は笠森お仙とは関係ない!?
笠森お仙がいた頃の笠森稲荷は、もともと大阪府高槻市にある笠森稲荷を分祀した感応寺(後に福泉院)だったが、幕末の上野戦争で焼失後に廃寺となった。

現在の大円寺は感応寺より前に大阪の笠森稲荷を分祀したもので、笠森お仙の笠森稲荷とはいわば兄弟のような関係だが直接は関係ない。しかし、記念碑建立当時「谷中の笠森」と言えば、大円寺境内にある笠森稲荷というのが一般的だったため、大円寺に設立となった。笹川臨風は笠森お仙と大円寺は直接関係ないことは承知の上で、碑文に「今と古と其所を異にすとも」の一文を加えた。

現在この谷根千エリアには笠森稲荷が3つ存在しており、大円寺の他に福泉院があった場所に近い功徳林寺、福泉院から直接笠森稲荷を移転させた養壽院がある。

笠森稲荷(功徳林寺)

笠森稲荷(功徳林寺)

笠森稲荷(養壽院)

笠森稲荷(養壽院)

鈴木春信記念碑の除幕式

除幕式開催のお知らせ

鈴木春信の没後150年の命日となる大正八年(1919)6月15日に大円寺境内にて記念碑の除幕式が行われ、同年6月17日から3日間、京橋(当時の京橋区南伝馬町)にあった高島屋で鈴木春信展が開催された。画像は雑誌『錦絵』第27号に掲載された開催のお知らせ。

記念碑建設委員には、日本画家の池田輝方(池田蕉園の夫)や鏑木清方、小説家の永井荷風、日活の前進となった映画会社、吉沢商店の店主である河浦謙一、協賛者に作家の坪内逍遥の名が見える。

春信会開催のお知らせ

春信会開催のお知らせ

除幕式当日の様子

梅雨晴れとなった除幕式当日、記念碑建設委員の他、300数十人の名士たちが集まった。式の前から見物客が殺到したため、谷中警察署から巡査2名が配置されたとのこと。以下は参加者で名前がわかっている名士たち。

正宗白鳥(小説家)
石橋思案(小説家)
池上秀畝(日本画家)
坪谷水哉(雑誌『太陽』の創刊者)
小山内薫(劇作家)
小絲源太郞(洋画家)
佐川春水(英語学者)
沼波瓊音(国文学者)
島崎柳塢(日本画家)

午前11時から鈴木春信150回忌法要が行われ、その後、大太鼓による合図によって記念碑の除幕式が行われた。幕の中から現れたのは、記念碑と笠森お仙に扮した新橋森川家の芸妓、当時18歳の花若。来賓たちは思わぬサプライズに拍手喝采だったそうだ。

鈴木春信記念碑と芸妓花若

鈴木春信記念碑と芸妓花若

除幕式を終えると、下谷芸妓お八重以下10名と花若がビールやサイダーをふるまい食事会が行われた。当日は記念に春信の錦絵をあしらった団扇(うちわ)が来賓たちに配られたという。

記念碑

鈴木春信の碑

碑文にある通り、碑の上部の「錦絵開祖鈴木春信」は東京美術学校長の正木直彦、文章は笹川臨風、書は中村春堂、碑刻は田鶴年によるもの。碑文は以下の通り(句読点は適宜加えた)。

錦絵開祖鈴木春信
鈴木春信碑 東京美術学校長正木直彦題額

明和七年六月十五日、錦絵に一新紀元を開きたる稀代の巨匠鈴木春信はみまかりぬ。享年は四十余り、俗称も詳かならねば、其墓所の在かさへも知られず。しかはあれども其製作は今に残りて、内外鑑賞家の嘆賞措く能はざるものあり。優婉にして典雅賦彩は華やかならずして、上品に画くところ韻致に富み、例へば朧にかすむ春の夜の夢かとはかり淡きか中に花の香の幽かに響く風情あり。其感化は独り我が芸術の上のみならず、遠く西の国のあなたにまで及びて今に尽きす。今茲に同志の者ども其百五十回忌辰を営まんとするに際し、よし今と古と其所を異にすとも、此大芸術家が屡々題材としたる江戸の艶女笠森お仙に由縁深き、谷中笠森稲荷を勧請せる大円寺の墓域に碑を建てて、以て我等が渇仰賛美の意を捧ぐ。

大正八年六月
笹川臨風識 中村春堂書
田鶴年刻

鈴木春信の碑

鈴木春信の碑

笠森お仙の碑

碑文にある通り、文章は笠森お仙をモデルにした小説「恋衣花笠森」を書いた永井荷風、書は蔦月山人、碑刻は田鶴年によるもの。碑文は以下の通り。

笠森阿仙の碑

女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。

時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃
荷風小史識 蔦月山人書 田鶴年刻

笠森お仙の碑

笠森お仙の碑

解説
五大州:日本のこと
大正己未:大正八年(1919)のこと

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御朱印

10月には谷中菊まつりが行われる大円寺は日蓮宗寺院。御朱印は法華経をさす「妙法」。印にある「瘡守堂」は、笠森稲荷が訓読みから「瘡守」に転じて、かさぶた・皮膚病・梅毒まで霊験があると信仰されたことによる。

谷根千エリアにある、残りの笠森稲荷のうち、笠森お仙の笠森稲荷の跡地に近い功徳林寺の御朱印は「笠森稲荷」。鈴木春信の美人画の印が脇に添えられている。もう1つの笠森稲荷、養壽院は御朱印を書いていないとのこと。

大円寺御朱印

大円寺御朱印

功徳林寺御朱印

功徳林寺御朱印

アクセス

大円寺を含めた谷根千エリアの3つの笠森稲荷をご紹介。


大円寺:千代田線千駄木駅より徒歩2分、JR日暮里駅より徒歩10分

功徳林寺:JR日暮里駅より徒歩7分

養壽院:JR鶯谷駅より徒歩6分

参考資料

『錦絵』第26号~第28号、第30号
功徳林寺パンフレット「江戸三大美人お仙ゆかりの笠森稲荷」
【谷根千】谷中菊まつり(10月7日・8日)~江戸の三大美人「笠森お仙」の謎

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