歌川国芳顕彰碑(一勇斎歌川先生墓表)のある三囲神社に行ってみた

江戸後期を代表する浮世絵師、歌川国芳。その十三回忌法要を行った明治六年(1873)に国芳の弟子たちによって建てられた顕彰碑(一勇斎歌川先生墓表)があるという三囲(みめぐり)神社に行ってみた!

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石碑の設置場所

国芳を顕彰する石碑は三囲神社の敷地内にあるが、場所がちょっとわかりにくい。ただでさえ60以上の石碑が建つ神社のため、事前情報ないまま捜し出すには時間がかかる・・・。

三囲神社 本殿

三囲神社 本殿

三囲神社 石碑設置場所

三囲神社 石碑設置場所

参道を真っすぐ進んだ先にある本殿をお参りしたら左に曲がって奥に進み、隅田川七福神の大國神・恵比寿神を祀る社殿もお参りしてさらに奥へ。突きあたりを左に突き進んで一番奥にあるのが、今回のお目当ての石碑、一勇斎歌川先生墓表だ。

石碑(表)

石碑の表には歌川国芳の足跡が漢文で書かれている。石碑のそばに立っている説明札には次のように書かれていた。

一勇斎歌川先生墓表 表面

一勇斎歌川先生墓表 表面

一勇斎歌川先生墓表 石碑説明

一勇斎歌川先生墓表 石碑説明

一勇斎歌川先生墓表(歌川国芳顕彰碑)

所在地 墨田区向島二丁目五番十七号 三囲神社

一勇斎歌川先生とは、幕末を代表する浮世絵師歌川国芳のことです。
国芳は、寛政九年(1797)に日本橋で生まれました。十五歳で初代歌川豊国の門人となり、文政十年(1828)頃「通俗水滸伝豪傑百八人一個」の連作を契機に人気を博し、浮世絵のあらゆる分野で高い水準の作品を残しました。

この碑は、文久元年(1861)に没した国芳の十三回忌にあたる明治六年(1873)に建立されました。撰文は学者の東條琴台、篆額と書は萩原秋巌、碑刻は宮亀年が受け持ちました。碑文には国芳の出自や経歴、建碑の経緯などが刻まれています。裏面には、建立者である弟子たちの名が刻まれており、その中には明治時代の浮世絵を代表する月岡芳年や新聞錦絵の落合芳幾、おもちゃ絵の歌川芳藤などがみられます。芳年の画系は水野年方から鏑木清方、伊藤深水、岩田専太郎と近代日本画の流れとして続きました。

国芳は向島に居住した時期もあり、この碑は墨田区の浮世絵に関わる豊かな歴史を示す貴重な文化財といえます。

平成二十四年一月
墨田区教育委員会

石碑に刻まれた碑文については、『浮世絵師歌川列伝』のなかで飯島虚心が符号付の漢文で記したものを元に書き下し文にしてみた。すると国芳が7、8歳で北尾重政、北尾政美の描いた絵本から人物画をよく描くようになったこと、12歳で初代歌川豊国に才能を見出されたこと、武者絵で名を馳せたこと、国芳の若い頃から交流のあった狂歌師、梅の屋鶴寿がサポートしていたこと、石碑建立には娘婿の井草其英と国芳の弟子たちが関わったことがわかる。

一勇斎歌川先生墓表

先生諱は国芳、一勇斎と号す。又朝桜楼主人と号す。井草氏、孫三郎と称す。江戸の人、寛政丁巳十一月十五日を以て、於銀座第一坊に生る。文久辛酉三月五日、於新和泉街に歿す。享歳六十五、於浅草八軒街大僊寺に葬る。

先考柳屋吉右衛門、妣柏谷氏、先生幼に而して聡慧、僅七八歳、好んで絵本を見る。北尾重政画く所の武者鞋二巻、同じく政美諸職画鑑二巻を愛玩す。頓に人物を画くを悟る。十二歳の時、鍾馗剣を提ぐる図を画く。其の状貌猛壮、行筆秀勁、老成者の如し。

此の時に当り、一陽斎豊国、所謂浮世絵師之巨擘に而して於時に名あり。嘗て此の図を見て、窃に嘆賞を以て得易からざる之才と為す。称揚持て厚く、先生遂に之が弟子と為す。研究年有り、是より先、豊国之門に、国政、国長、国満、国安、国丸、国次、国直等数子有り。皆絵事に於て、歌川氏と称するを許す、受るに偏名国の字を以てす。是に於て歌川の画技、都鄙に伝播す。豊国既に歿し、数子前後相継ぐ、凋落殆ど尽く。先生国貞を、美を済し、名を斉す、魯の霊光巍然長く存するが若く、其の業雁行、国貞於閏房美人、仕女婉淑之像に巧なり。先生於軍陣名将勇士奮勇之図に長じ、嬰孩と雖も其の声価を知らざる無し。

先生齋藤氏を娶り、二女を生む。長名は鳥、早世、次女名は吉、田口其英に配す。以て嗣と為る。先生、梅屋鶴寿を情交尤も密にす、恰も兄弟の如し。鶴寿其の業賛成し、四十年亦一日の如し、良友と謂う可し矣、今茲癸酉、正に十三年忌辰に当す。其の門人及び其英相謀りて追薦会を為す。先生余与旧有るを以て、碣文を製らんことを請う。而して墓石に限り有り、嬭縷するを得ず、余之識る所を以て、其の責を塞ぐと云う。

明治六年癸酉十月。友人東條信耕撰。萩原翬并篆額。

石碑(裏)

石碑の裏には歌川国芳の弟子たちの名前がズラリと並ぶ。国芳の十三回忌法要を執り行った国芳の次女よしの婿養子、田口其英、そして石碑裏面の文字を書いた梅素玄魚(本名:宮城喜三郎)を含めれば、刻まれた名前は総勢80名。師の亡き後、13年経ってもこれだけの数の弟子たちが名前を石碑に残すというのは、国芳がいかに弟子たちに慕われていたかがうかがえる。

一勇斎歌川先生墓表 裏面

一勇斎歌川先生墓表 裏面

「〇〇社中」と、独立した国芳の弟子とその門下生の名前も刻まれている。芳年社中(月岡芳年一門)には芳年の肖像画で知られる金木年景、芳柳社中(五姓田芳柳一門)には洋画家の山本芳翠の名が見える。写真で見づらいため、以下に文字起こし(一部、常用漢字への変換あり)。

一勇齋門人

故人
芳政、芳勝、芳艶、芳鶴、芳玉、芳丸、芳綱、芳員、芳雪、芳基、芳豊、芳信、芳房、芳鶴、芳重、芳形

現存
芳宗、芳藤、芳貞、芳兼、芳満、芳幾、芳春、芳廣、芳年、芳彦、芳景、芳洲、芳延、芳仙、芳桐、芳邨、芳豐、芳艶、芳谷、芳中、芳盛

浪花 芳梅
横濱 芳柳

芳柳男 義松、一豊

芳宗社中
宗政、宗成、宗久

芳幾社中
幾丸、幾英、幾藤

芳春社中
春富、春忠

芳年社中
年晴、年麿、年景、年次、年秀、年豊、年明、年延、年廣、年種

芳景社中
景久、景虎

芳洲社中
永洲、洲勢

芳延社中
文延

芳谷社中
谷郷

永洲社中
永千代、永多代

芳柳社中
羽山芳翠、山本芳翠、月柳、柳禅、柳静、芳齋、柳秀、柳雪、柳義

芳梅社中
梅雪、芳峰、梅英

浪花
芳瀧

井草其英
芳子
同社中
建之

梅素玄魚書

破門を十数回も繰り返したと言われる国芳の右腕、歌川芳宗の名前がある一方、安政五年(1858)に国芳から破門された歌川芳虎の名前は石碑に刻まれていない。

これは芳宗は都度、和解して国芳のもとに出戻っていたのに対して、芳虎は国芳の生前に和解できないまま、十三回忌まで行われてしまったから。国芳の門人、歌川芳兼(別名:田蝶梅月、一好斎芳兼)を父に持つ彫刻家、竹内久一(東京美術学校教授)はその経緯を以下のように語っている。

国芳の十三回忌に向島に碑を建てたとき、芳虎は師匠の名をダシにして自分計り旨い汁を吸ふケシカラン奴だというので、到底除名して石には名を載せなかったくらい、死んでからも皆ンナ師匠を大事にして居た。

『日本書誌学大系28』若樹漫筆「一勇斎国芳の話」より

御朱印

三囲神社 御朱印

三囲神社 御朱印

前述した通り、隅田川七福神の一つでもある三囲神社。御朱印でも左下に七福神の恵比寿と大こくの印が捺されている。

隅田川七福神のその他の寺社は、弘福寺(布袋尊)、長命寺(弁財天)、向島百花園(福禄寿)、白髭神社(寿老人)、多聞寺(毘沙門天)。七福神巡りをする場合は、三囲神社から始めるとルート的に廻りやすい。

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その他の見どころ

三越のライオン像

三越池袋店にかつて設置されていたライオン像が、閉店に伴い平成二十一年(2009)に三越から奉納されたもの。三越の商標(丸字に越)が標された台石も脇に設置されている。後述の通り、元々は一対だったようだが現在設置されているライオン像は対ではない。説明札にあった説明文は以下の通り。

三囲のライオン像

三越の旧池袋店から移した、三越のシンボルであるライオン像は、大正3年当時の三越呉服店を率いた日々翁助がライオンを大いに好み、三越本店に一対のライオン像を据えたのにはじまる。戦後、本店の像をもとに各支店に設置されている。ライオン像の原形はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむライオンである。なお「現金安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は、大いに発展し、明治29年三越呉服店につながる。

(右)丸字に越は三越の商標。客に出す茶の湯を沸かす銅壷(どうこ)の台石に彫られ、丸字に越の範形といわれる。明治29年から昭和の初期まで実際に使われていた。

(左)ライオンは東洋的意匠の狛犬に変化したものだが、三越のライオン像も狛犬のように神前を守っている。

三越 ライオン像

三越 ライオン像

三越 旧台石

三越 旧台石

三囲のコンコン様

眼尻の下がった顔が特徴のキツネ様。

三囲神社 狐(向かって左)

三囲神社 狐(左)

三囲神社 狐(向かって右)

三囲神社 狐(右)

三囲神社 狐(台座)

三囲神社 狐(台座)

台座に彫られた「向店」は以下の説明文の通り。

三囲のコンコンさん

眼尻のさがった温和な表情を、ここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである。向店は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向いにあって木綿を主に扱っていた。

享和2年(1802)の奉納

宝井其角の雨乞いの句碑

宝井其角の雨乞いの句碑

宝井其角の雨乞いの句碑

元禄六年(1693)の日照りの際に、俳人の宝井其角が雨ごいの句を奉じたところ、雨が降ったところから、三囲神社が後の文化人たちに愛されるきっかけになったという。

墨田区による説明は以下の通り。

宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)

元禄6年(1693)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうど三囲神社に詣でた俳人室井其角が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞いの故事にならい「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自撰句集の『五元集』にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。

室井其角は寛文元年(1661)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、芭蕉門下第一の高弟として知られ、とくに洒落風の句を得意としました。この碑は安永6年(1777)に建立されたものが摩滅したので、明治6年(1873)に再建されたものです。

平成18年(2006)12月 墨田区教育委員会

アクセス

所在地:東京都墨田区向島2-5-17

最寄駅:都営地下鉄浅草線 本所吾妻橋駅
東武鉄道伊勢崎線 とうきょうスカイツリー駅

参考資料

東京都神社庁 三囲神社

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