亀戸で歌川国貞(三世歌川豊国)のお墓と石碑を訪ねてみた

三代目歌川豊国を襲名した歌川国貞にゆかりのある亀戸。菩提寺である光明寺や追善碑が建てられた亀戸天神を訪ねてみた。

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歌川国貞とは

江戸本所五ツ目の渡船場の株を持つ裕福な家庭に育つ。10代なかばで歌川豊国に弟子入り。20代前半には美人画、役者絵、挿絵で人気絵師の仲間入りを果たす。後に師匠の名を継ぎ、三世豊国となった。晩年には柳島に移住して隠居した後、亀戸にあった家を長女・鈴の婿となった二世歌川国政に譲り、「国貞」の名を継がせた。

コラム:「豊国」襲名でひと悶着
師の「豊国」の名を継いだ歌川国貞は「二世豊国」を名乗ったが、本当は「三世豊国」だった。初代豊国の養子であり、国貞とは兄弟弟子の関係だった歌川豊重がすでに「二世豊国」を継いでいたからだ。「二世豊国」のうち、本郷に住んでいた豊重の方を「本郷豊国」、亀戸に住んでいた国貞の方を「亀戸豊国」と呼んで区別していた。

『名人忌辰録』等、いくつかの史料で【豊重が初代豊国の未亡人を妻として「二世豊国」を名乗ったため、一門から不満が出た】という、国貞が「二世豊国」を名乗った要因となりそうな説が載っている。しかし、この説は歌川豊重の落款(サイン)によって否定されるものだ。下の画像は、豊重の落款の変遷だが、右から左の順に「一龍斎」、「豊国倅(とよくにせがれ)」、「二代目豊国」、最終的には「豊国」となっている。この“せがれ”の落款があることで、豊重が師の未亡人をたぶらかして「豊国」を名乗ったのではなく、初代豊国の養子となった後「二世豊国」を継いだことが明らかだからだ。

歌川豊重(落款)
歌川豊重(落款)

ただし、豊重の絵の腕前は、初代豊国門下トップクラスというわけではなかったようだ。早くから初代豊国に才能を認められていた国貞は、少なくとも豊重の「豊国」襲名に不満をもっていたのだろう。

「豊重は師の名を汚した」と豊重の「豊国」襲名をなかったことにして、天保十五年(1844)正月に自ら「二世豊国」を名乗った。当時の国貞の錦絵には「国貞改め二代目豊国」と記したものが多く存在しており、国貞の「二世豊国」であることへの執着を感じさせる。

ところが、国貞の「豊国」襲名もみんなに歓迎されたものではなかった。ライバルである弟弟子の歌川国芳ばかりか、国貞の弟子で人格者と評されていた歌川貞秀さえも国貞の「豊国」襲名に憤慨していたと言われている。

この状況は「歌川を うたがはしくも 名のりえて 二世の豊国 偽の豊国」と狂歌に詠まれることとなった。

国貞改二代目豊国
国貞改二代目豊国

歌川豊国翁之碑

明治二十六年(1893)11月、歌川国貞(三世歌川豊国)の弟子である豊斎国貞(三世歌川国貞)や、豊原国周などにより、追善碑が亀戸天神に建てられた。

追善されているのは、歌川国貞(三世歌川豊国)とその婿養子となった二世歌川国政(後に四世歌川豊国)である。

亀戸天神
亀戸天神

しかし前述した通り、歌川国貞は「二世豊国」を名乗っていたため、二世歌川国政も豊国の名を受け継いだ際には「三世豊国」を名乗っており、石碑の記載もこれに従っている。

石碑(表)

歌川豊国翁之碑(表)
歌川豊国翁之碑(表)

石碑が建立された明治二十六年(1893)は、二世歌川国政(四世歌川豊国)の十三回忌にあたり、これが石碑建立のきっかけと考えられる。

石碑の表には、自称するところの「二世豊国」と「三世豊国」の肖像と、豊斎国貞が詠んだ追善の和歌「幹はみな 老を忘れて 梅の花 楳堂」(楳堂は梅堂国政、つまり豊斎国貞が国貞を継ぐ前の名前)が刻まれている。また石碑の右下には、石碑建立の主幹事であり、肖像の下絵を描いた豊斎国貞(三世歌川国貞)と豊原国周、石碑を篆刻した田鶴年の名前がみえる。

豊斎国貞による追善歌
「二世豊国」肖像
「三世豊国」肖像
主幹事と田鶴年の名

石碑(裏)

石碑の裏には、石碑建立に関わった人物の名前が刻まれている。歌舞伎役者から錦絵問屋、そして弟子をはじめとする絵師たちと生前から交流のあった人の名前が並んでいる。

石碑の裏側は欠損している箇所がかなり多く、崩し字で判読できないものもあるが、できる限り文字起こししてみた。

カッコ内は欠損しているが『東京美術家墓所考』に記されていたため、判明した文字として記載。

歌川豊国翁之碑(裏)

明治二十六年十一月中旬

市川団十郎
尾上栄五郎
市川左団次
中村福助
市川米蔵
(尾)上菊之助
(尾上)栄三郎
(市川)尤(蔵)
(中村)芝(翫)
(三浦)武(明)
(松野米)次郎
(吉岡芳)斎
(片桐熊次)郎
(山本元)吉
(中村盛)信
(梅堂国繁)
(梅堂国鉞)
(竹内つう)

地本錦絵問屋
荒川藤兵衛
辻岡文助
綱嶋亀吉
井上茂兵衛
小森宗次郎
牧金之助
尾関と代
松木平吉
武(川清吉)
長(谷川園吉)
(澤久次郎)
(井上吉次郎)
(松井栄吉)
(片)田(長次郎)
児(玉又七)
村(上泰一)
補助
(堤吉兵衛)
(森)本(順)三郎
(具)足屋(熊)次郎

勝文斎
栗原ヒラ清
葺屋町建市
佐々木転阿弥
羽子板商組合
松亀家中
松屋米吉
鈴木弥兵衛
加藤(伊兵衛)
塩(原孝太郎)
山(口安五郎)
(田村三次)郎
小(山清)兵衛
川喜多忠兵衛
根岸銕太郎
鉱総吉
村松和三郎
補助
川部ヒラ辰
鼠屋萬吉
根岸(安蔵)

飯島光峨
中島亨斎
鬼佛一豊
一笠斎国年
三世五湖亭貞景
二世歌川国鶴
同 国松
同 国光
三世同 国輝
同 国晴
二世同 国麿
守川周重
揚洲周延
梅堂国秀
梅堂国臣
梅堂酔名
幹事
(野口久)敬
歌川うた
同 むめ
同 国峰
梅堂国政
梅翁国利
豊原国周

三世香朝楼国貞建之
董書

石碑の場所

「歌川豊国翁之碑」の石碑は、社務所にほど近い場所にあるため、お参り後に御朱印をもらってから石碑を見ていくルートが最適。

「歌川豊国翁之碑」の場所
「歌川豊国翁之碑」の場所
御朱印(亀戸天神)
御朱印(亀戸天神)

歌川国貞(三世歌川豊国)の墓

光明寺

亀戸天神からほど近い場所にある江東区の光明寺に歌川国貞(三世歌川豊国)の墓がある。光明寺入口左側には「二世歌川豊国の墓」と刻まれた石柱が立っているが、こちらも自称に従った表記で、実際は三世豊国こと歌川国貞のこと。

墓石は2つ並んでいるが、「歌川」の文字が彫られた向かって右の墓石に歌川国貞(三世歌川豊国)の法名が刻まれている(後述)。

光明寺
光明寺
「二世歌川豊国の墓」石柱
「二世歌川豊国の墓」石柱
歌川国貞(三世歌川豊国)墓
歌川国貞(三世歌川豊国)墓
墓に「歌川」の文字
墓に「歌川」の文字

墓石

墓石に刻まれた法名と命日(右から)

三香院豊国寿貞信士 明治十三年七月二十日
円法院野山妙碧信女 明治廿五年廿三日
豊国院貞匠画僊信士 元治二年十二月十五日
誠心院晴霞妙照信女 明治十七年十二月廿三日
久豊院還国寿僊信士 明治廿四年二月五日
春歌院林雪妙浄信女 明治七年一月十六日

墓石に刻まれた法名のうち、「豊国院貞匠画僊信士」が歌川国貞(三世歌川豊国)である。「三香院豊国寿貞信士」は二代目歌川国政。前述した通り、国貞の長女・鈴の婿となり、二世歌川国貞を継いだ後、最後は「四世豊国」となった人物だ。「久豊院還国寿僊信士」は二代目歌川国久。この人物も国貞の娘(次女の勝とも三女のお栄とも言われる)の婿となったため、同じ墓に葬られたようだ。「~信女」とあるのは、いずれも右に刻まれた人物の妻と思われる。

墓石の場所

歌川国貞(三世歌川豊国)の墓は、光明寺入口から本堂を突きあたって右に曲がり、墓地入口から仏像が見える筋を入って左手にある。ちなみに光明寺では、御朱印は書いていないとのこと。

歌川国貞(三世歌川豊国)墓の場所
歌川国貞(三世歌川豊国)墓の場所

アクセス

亀戸天神:JR総武線亀戸駅北口から徒歩15分、または都バス亀戸天神下車すぐ
光明寺:亀戸天神から徒歩5分

亀戸天神は梅や藤の花で知られており、梅は2月下旬から3月中旬、藤は4月中旬から5月中旬が見ごろ。筆者が訪れた時にはちょうど合間の桜の季節だったため、梅も藤も見ることはかなわなかった。また機会があれば再訪したい。

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参考資料

『錦絵』第2号「二代豊国となった豊重」石井研堂
『錦絵』第3号「錦絵版画落款集」
『錦絵』第5号「近世浮世絵夜話その二 歌川国貞論」村上靜人
『錦絵』第12号「初代と二代と三代との豊国に連関する種々の疑問について(二)」坪内逍遥
『錦絵』第37号「歌川派盛時の鼎足戦(下)」山中古洞
『東京美術家墓所考』結城素明
『名人忌辰録 下』関根只誠

茶箱広重