歌川国貞の妻は鬼嫁?

江戸後期に活躍した歌川国貞(後の三代歌川豊国)。画業についてはその絵によって語られてきたが、その人となりについてはあまり語られることがなかった。妻となった2人の女性を中心に国貞という人物について浮き彫りにしてみた。

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国貞の独身時代

江戸本所五ツ目の渡船場の株を持つ裕福な家庭に生まれた歌川国貞。ライバルである同時代の浮世絵師、歌川国芳に比べて真面目な印象がある国貞だが、ずいぶん遊んでいたという。芝居好きで人が演じているのを見ると我慢できずに宴の場で狂言や素人芝居を演じて見せたり、太鼓持ちや歌舞伎俳優たちと交遊したりしていたようだ。この遊びっぷりは結婚してからも続き、遊び仲間の間では「役者の殿様」という愛称があったという。

このような交遊には当然お金もかかるはずだが、渡船場の株で遊ぶのに十分な財力はあった。しかも女性や酒におぼれるところまではいかず、自分の名前を売り出すためにも使っていた。文化八年(1811)3月には当時の売れっ子作家、式亭三馬が向両国中村屋で催した席画(客の依頼に応じて即興で絵を描く)会で世話役を務めた際に、絵の具一式を国貞が揃えたという。

国貞最初の妻

国貞の最初の妻について『浮世絵師歌川列伝』のなかで「茅場町の茶亭某の娘」であり、国貞の左腕にはこの妻の名前の入れ墨が彫られていたと書かれている。

腕に入れ墨で相手の名前を入れるのは男女問わず、この頃の流行だったため決して珍しいことではない。むしろ国貞が流行りに乗る性格を持ち合わせていたということだろう。客商売の女性のあいだでは想い人の入れ墨を隠すための「腕守り」という道具があり、浮世絵のなかでもしばしば描かれている(画像参照)。

『浮世絵師歌川列伝』では国貞の最初の妻の名前は明らかにされていない。国貞の菩提寺である亀戸の光明寺にあった過去帳は安政の大地震で焼けてしまったため、生前の名前はわかっていないからだ。

『江戸名所百人美女 第六天神』

『江戸名所百人美女 第六天神』

しかし、震災から元通りに作り直した位牌の中に文政七年(1824)6月3日に亡くなった「眞光院受貞性信女」という法名があり、国貞の妻のものと思われる。これに従えば、国貞は41歳で最初の妻を喪ったことになる。

先妻の死後すぐに嫁いできた後妻

国貞は最初の妻の死からまもなく、吉原門外の紙洗橋に住む左官の娘、お粂(おくめ)を後妻に迎えた。この女性は山谷堀(さんやぼり)で名を鳴らした24歳の芸妓だった。薩摩藩御用達の須原屋弥兵衛に身請けされるところを断り、国貞に入れ込んでいたという。そして先妻の死をきっかけに所帯を持つことになったのである。

「豊国」襲名前から国貞の弟子であった歌川貞秀(橋本貞秀、五雲亭貞秀)は、国貞が後妻を迎えることになっても、決して敬称である「お内儀さん」とは言わず、名前のまま「お粂さん」と呼んで師匠の妻として接することはなかった。晩年には師弟の間も親しく交わることはなかったと言われている。

現在の紙洗橋

現在の紙洗橋

国貞の後妻「お粂さん」が弟子たちから不満に思われていた要因のひとつに、弟子たちから慕われていた先妻の死から日が浅いうちに結婚したということがあるようだ。もしかしたら先妻が生前中にも国貞がお粂さんと関係していることを、弟子たちは気付いていたのかもしれない。

コラム:芳幾、おまえもか!

国貞が先妻の死から日が浅いうちに結婚したという論拠は2つある。ひとつは天保十年(1839)3月27日に柳橋の萬八楼で国貞倅(せがれ)として歌川孝貞の名を広めるために行われた書画会。この孝貞は早くに亡くなってしまったが、お粂さんが生んだ長女のお鈴と婚約させるつもりであったようだ。先妻が亡くなった文政七年(1824)からわずか15年のあいだに既に婿を迎える娘がいたとすると、お粂さんの嫁入りした時期はそう間が空いていないと推測できる。

もうひとつの論拠は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、落合芳幾が語ったとされる師匠の歌川国芳から叱られたという逸話から。芳幾は安政の大地震で妊娠中だった新妻を亡くしていたが、百ヶ日を過ぎるとまもなく妻の妹を後妻に迎えた。それを知った国芳に「おまえも豊国の二代目(注:歌川国貞のこと)をやったな、一周忌でも済ましてからにすればいいのに」と苦り切って言われてしまい、芳幾はしばらく国芳の家に行きづらくなったという。国芳からしたら先妻の死後すぐに後妻を迎えたと噂になっていた国貞の二の舞を踏ませたくないとの思いから出た言葉だったのだろう。

落合芳幾

落合芳幾

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後妻はドケチか名マネージャーか

お粂さんが国貞の弟子たちに不満に思われていたのには、先妻の死から日が浅かった嫁入りの他にも理由があるようだ。お粂さんの「ドケチ」エピソードがいくつも残っている。

弟子に小遣いは与えない

国貞の内弟子が下町の問屋に使いに出される時、国貞の住む亀戸からだと一日かけて歩くことになるため、昼食を途中で取らなければならない。先妻の頃は小遣いをもらえたのでニ八蕎麦や団子で空腹をしのげた。ところが後妻の頃になると握り飯を2つだけ持たされて、小遣いは一切与えられなかったそうだ。

食費は徹底的に削る

さらに先妻の頃はお三日(さんじつ)と呼ばれる毎月1日・15日・28日の祝日に、師匠や内働きの者まで分け隔てなく御馳走を用意していたため、内弟子などはこの日を待ち望んでいた。これが後妻の頃になると、日々の食事は貧相なものでお三日にようやくメザシの串が出れば良い方という具合に変わった。内弟子たちも「これでは骨と肉が離れる」と毎日のように不平を漏らしていたという。

マネージャー的役割

しかし、そう悪いことばかりでもない。芸妓時代から男の扱いには慣れていたのか、国貞の財布のひもを握り、問屋から殺到する注文を盾に国貞の机の横にへばりついて遊び仲間からの誘い出しを防ぎ、よく気の利く取扱いで丸め込み、「師匠、師匠」と国貞を祭り上げていい気にさせて、締め切りに間に合うように絵を描かせる。さながらマネージャーのような役割をしていた。

作画料革命

問屋が一方的に画料を決めていた時代、国貞もこの慣例に従いお金にも無頓着だった。しかし財布を預かる身にとってはそうはいかない。包んだお金の厚みによってお粂さんの機嫌が変わる。一刻を争う新しい芝居物の絵などは、このお粂さんの機嫌しだいで早くも遅くもなった。こうなると自然と画料は吊り上がることに。

後には下絵に画料を書いたメモを添えて、問屋から引き換えに画料を受け取るようになったという。このメモ方式は国貞のライバル、国芳が始めたことだったが、お粂さんの場合は国貞が書いた画料を時々書き換えていたと伝えられるほどで、かなりのやり手であったことがうかがえる。

まとめ

歌川国貞を含めて「歌川派の三羽烏」と呼ばれた同時代の浮世絵師、歌川国芳、歌川広重は絵のみでは食べていけず、国芳には梅の屋鶴寿、広重には岸本久七というパトロンがいた。

一方、国貞は生まれながらにして持っていた渡し場の株に加えて、住んでいた亀戸近辺の地主代、さらには弟子たちとの共同作業によって大量の絵の注文をこなし財を築いた。そして、義理の息子である二代目国貞に亀戸の邸宅を譲り、柳島(現在の東京都墨田区から江東区にかけた地域)に建てた新宅に引っ越して何不自由ない晩年を過ごすことができた。

国貞がこんな裕福な生活ができた背景には、弟子たちの心の拠り所となっていた先妻や「緊縮財政」により蓄財できた後妻のお粂さんの働きがあったと言えるのではないだろうか。

参考資料

『錦絵』第24号「側面から観た亀戸豊国(上)」樋口二葉
『錦絵』第25号「側面から観た亀戸豊国(下)」樋口二葉

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