浮世絵師の自画像6選

画家の自画像といって、まず頭に浮かぶのは『ひまわり』のゴッホあたりだろうか。日本の場合、中世以前は肖像画はあっても自画像は割合珍しい。ただ江戸時代に入ると、浮世絵師が自画像を描くケースが増えた。今回はそんな浮世絵師が描いた自画像についてまとめてみた。

葛飾北斎

略歴

江戸後期の浮世絵師。1760年10月31日、現在の東京都墨田区に生まれる。勝川春章に弟子入りした後もあらゆる流派の画法を学んだ。代表作、富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」はあまりにも有名。各分野に数多の傑作を残す。画号を改めること30回、引っ越しすること93回と奇行でも知られる。台東区誓教寺にある北斎の墓に刻まれた画号は「画狂老人卍」。

画狂老人卍な自画像

葛飾北斎の自画像と呼ばれるものはいくつか現在まで伝わっている。オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵する、小さな紙片に手彩色で描かれた肖像画もそのひとつ。北斎88歳の時に描かれた「雷神図」(フーリア・サックラー美術館蔵)の顔と表情の描き方が似ていることから、北斎の自画像ではないかといわれている。※別人説もあり。画狂老人卍と自ら名乗ったとおり、狂人のような表情をしている。

伝葛飾北斎自画像
伝葛飾北斎自画像

小林清親

略歴

小林清親
小林清親

弘化4年(1847)本所御蔵屋敷頭取の子として江戸に生まれ、父の死により15歳で家督を相続。幕臣として維新の動乱期を過ごし、明治7年(1874)から絵の道へ。英国人ワーグマンや河鍋暁斎、柴田是真などから絵を学ぶ。翌々年、従来の浮世絵に光と陰影を取り入れた「光線画」と称される風景版画を発表し人気を得る。「清親ポンチ」と呼ばれる戯画・風刺画を新聞に描いた。

写真とは雰囲気が異なる自画像

幕末から明治期に活躍した絵師とあって写真が残っているが、描かれた自画像は写真の印象とは異なる。『百面相』で描かれた「画工の身振」の絵は特徴的な眉上のホクロから清親の自画像と呼ばれている。発行年から清親36歳頃の自画像と考えられる。その他の人物画も身近な知人をモデルにしたものもあり、遠慮なく悪い癖まで描いたためにモデルになった当人から責められることもあったという。

もうひとつの自画像は老年になってからの肉筆画。こちらも眉上のホクロがしっかり描かれている。老年になってからも人物画の技巧が確かなものであることが一目瞭然だ。

小林清親(百面相より)
小林清親(百面相より)
小林清親筆 自画像
小林清親筆 自画像

司馬江漢

略歴

江戸時代後期の洋風画家・蘭学者。生年は諸説あり。狩野派に弟子入りするもあきたらず、鈴木春信を模範に浮世絵を学ぶ。一時は春重と名乗って春信風の絵を描き、浮世絵師として人気を得るが自分の道はこれではないとして辞めてしまった。他にも宋紫石から中国画、平賀源内から西洋画を学んだとも言われる。油絵の研究でも知られ、長崎旅行を経て初期油絵「蝋画」を完成させた。また、西洋画を軽視した世評に反論する『西洋画談』を著している。

「ニセの死亡通知」の自画像

図は何の変哲もない横から見た姿の自画像のように見える。しかし、これは司馬江漢が生前に出した「ニセの死亡通知書」である。

文化九年(1317)、江漢は終の棲家として江戸から京都に移り住んだが、親族の金銭トラブルの後始末のため、1年足らずで江戸に戻るハメになった。そして文化十年(1318)8月に知人に配布されたのが、この「ニセの死亡通知」である。文面は以下の通り。

『司馬無言辞世之語』
『司馬無言辞世之語』

江漢先生老衰して画を需(もとむ)る者ありと雖(いえども)不描。諸侯召ども不仕。蘭学天文或は奇器を巧む事も倦み、啻(ただ)老荘の如きを楽しむ。去年は吉野の花を見、夫よりして京に滞る事一年、今春東都に帰り、頃日上方さして出られしに、相州鎌倉円覚寺誠摂禅師の弟子となり、遂に大悟して後病て死にけり。

一、万物生死を同して無物に復帰る者は、暫く聚(あつま)るの形ちなり。万物と共に尽ずして、卓然として朽ざるものは後世の名なり、然りと雖、名千載を不過、夫天地は無始に起り、無終に至る。人小にして天大なり。万歳を以て一瞬の如し。小慮なる哉、嗚呼

七十六翁 司馬無言辞世ノ語
文化癸酉八月

意味は「江漢先生は老衰し、絵も描かず誰にも仕えず、蘭学や天文も飽きてしまい、あるがままの生活を楽しんでいた。去年は吉野の花を見て京都に1年いたが、江戸に戻って鎌倉の円覚寺の誠摂禅師の弟子となって悟りを開いた後、病で死んだ。」。後半は人の存在よりも大きい天(自然)の存在といった老荘思想の一部を説いている。

これには後日談がある。江漢は「ニセの死亡通知」を配布後、知人に後ろ姿を見つけられてしまう。名前を繰り返し呼ばれた江漢は無視して足早に去ろうとするが、相手はしつこく追ってくる。江漢はたまらず振り返り、相手をにらみつけてこう言った。「死人がしゃべるか!」

歌川国芳

略歴

歌川国芳
歌川国芳

江戸後期の浮世絵師。寛政九年(1797)染物屋を営む柳家吉右衛門の家に生まれる。本名は孫三郎。後に井草家を継ぐ。15歳で豊国に入門、19歳で錦絵デビューを果たす。『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』の武者絵でブレイク。さらに戯画は現代にも通じるユーモアがある。歌川芳宗、落合芳幾、月岡芳年などの絵師を輩出。号は一勇斎、彩芳舎、朝桜楼などがある。画像は弟子の落合芳幾による死絵。

顔出しNGの自画像

国芳の描く自画像は後ろ姿であったり、何がしかで顔が隠れており、その容貌を自画像から知ることはできない。しかし、どの画も自らが使用していた「芳桐紋」や大好きな猫がかたわらに描かれており、すぐにその人物が国芳だとわかる仕掛けになっている。SNSのある世の中だったら、国芳は顔にマスク加工でもしていたのだろうか。

「流行逢都絵希代稀物」歌川国芳(中央が国芳)
「流行逢都絵希代稀物」歌川国芳(中央が国芳)
「勇国芳桐対模様」歌川国芳(一番左が国芳)
「勇国芳桐対模様」歌川国芳(一番左が国芳)

歌川貞秀

略歴

幕末・明治の浮世絵師。姓は橋本、本名は兼次郎。歌川国貞の弟子となり、玉蘭・玉蘭斎・五雲亭と号した。師の影響を早くに脱し、開国したばかりの横浜の様子を描いた横浜絵で知られる。横浜絵には収集した西洋の銅版画・新聞の切り抜きの研究の成果が見受けられる。また「空飛ぶ絵師」と呼ばれるほど、鳥瞰図を描いている。旅好きでも知られ、北は北海道、南は九州まで訪れ、各地の風景画を残す。

“タンコブ”自画像

貞秀の自画像は、「東宰府天満宮境内之図」の「文池堂社中席書之図」という3枚続きの錦絵のなかで描かれている。総勢40人弱の人物のうち、左側で黒羽織の上に「貞秀」とあるのが歌川貞秀本人で、その後ろに立っているのが八代目市川團十郎だ。

「文池堂社中席書之図」玉蘭貞秀筆
「文池堂社中席書之図」玉蘭貞秀筆

貞秀の姿を拡大すると、額に大きなコブが2つあるのがわかる。彫師泣かせと言われる貞秀(後述)のことなので、殴られて出来たコブなのか、彫師にいたずらされてコブを加えられたのかとも思える。

しかし、浮世絵研究家の小島烏水はこの絵を見て「これは確かに瘤(コブ)である。殊に半面像を描いたのは、この瘤の存在を明かにする為で、恐らく彼れの似顔であろう」と語っており、本人の意志でわざわざコブを描いてみせたと結論付けている。実際の姿はどうだったのか気になるところだ。

歌川貞秀(拡大図)
歌川貞秀(拡大図)
コラム:彫刻師・版元泣かせの貞秀
歌川貞秀は、描く絵の細密さにこだわったために、注文主が困ったという逸話が残っている。

貞秀、性来密画を好み、其武者絵の如きは、紙面一杯に豆人寸馬を書き満たさなければ承知しない。故に、貞秀の画を版に起すとなれば、彫刻料のかゝる事多く、其刻に錦絵が多く出るといふのでも無いので、錦絵屋では、『貞秀さん、どうぞもつと筆を抜いて、あつさりやつて貰ひます』と注文し、貞秀亦承知して『さうしませう』と受け合つておくが、やがて出来上つたものを見ると、相変らず更紗地のやうに、紙面処として人物ならざる無しといふ出来、出版店の大鼻つまみであつた、つまり、一種の密画病であつたのである。―「五雲亭貞秀の密画」より

こだわりが過ぎて「密画病」とまで言われた貞秀だが、その技量はたしかなもので、席画会で披露された腕前は浮世絵師の中でも異彩を放っていたとする史料も残っている。

月岡芳年

略歴

月岡芳年
月岡芳年

幕末・明治の浮世絵師。天保十年(1839)3月17日、新橋の商家に生まれる。本名は吉岡米次郎。12歳で歌川国芳の弟子となる。『英名二十八衆句』に代表される「血みどろ絵」で知られる。いっとき神経を病むも、回復してからは「大蘇」と号し、新聞錦絵や新聞挿絵など画域を広げていった。水野年方をはじめ多くの門人を輩出。晩年は『月百姿』『新形三十六怪撰』と錦絵の傑作を残している。

漫画風?自虐的自画像

下の画は、月岡芳年が『絵入自由新聞』の第100号まで出すことができた御礼として描いたもの。右から政治小説家の宮崎夢柳(むりゅう)、劇作家の二代目花笠文京(渡辺義方)、月岡芳年、芳年の弟子の二代目歌川芳宗(歌川年雪、新井芳宗)の像。渦を巻いた目や分厚い唇に無精ヒゲ。戯画も得意とした芳年らしい自画像である。

『絵入自由新聞』為百号祝御礼 芳年戯画
『絵入自由新聞』為百号祝御礼 芳年戯画

実際のところ、この自画像は特徴を捉えたものだったらしい。写真とずいぶん印象が異なるが、孫弟子にあたる鏑木清方が語る月岡芳年の容貌と一致するところが多い。

今でいふオールバツクといつたやうな髪の刈りかた、つぶらな眼、それにふさはしい大きな眼鏡、厚い唇、脊は高い方ではなかつたがやゝ太り肉のゆつたりしたものいひ、落ちついたものごし、いかにも芸ごとの一流を極めた人と、その頃の子供心にも一目にそれと見てとれる。大蘇芳年といふ名が自づから體(体)を現はす、それが今でも私の印象に残る芳年先生の俤(おもかげ)である。―「俤に残る芳年先生」より

まとめ

司馬江漢は、厳密にいえば浮世絵師ではないかもしれないが、一時は浮世絵師として活動していたのでこうして取り上げることをご容赦いただきたい。絵師に関するエピソードは奇行が後世に伝わりがちだが(おもしろいのでつい・・・)、歌川貞秀のように比較的真面目と伝えられる人物にとって、自画像はその存在を知らしめる一助になるかもしれない。

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参考資料

『北斎-富士を超えて』あべのハルカス美術館・NHK・朝日新聞社編
『浮世絵志』第4号「浮世絵師の自画像」大曲駒村
『浮世絵志』第10号「生きて居る江漢」乾易平
『浮世絵志』第27号「小林清親」大曲駒村
『浮世絵志』第28号「芳年伝備考(第十稿)」山中古洞
『錦絵』第19号「五雲亭貞秀の密画」筑山浪人
『錦絵』第34号「明治の浮世絵師 五雲亭貞秀」樋口二葉
『浮世絵界』第7号「俤に残る芳年先生」鏑木清方
『本朝画人伝』巻二「司馬江漢」村松梢風
国会図書館デジタルコレクション