浮世絵師の生活は昼型?夜型?証言で迫る浮世絵師の一日:河鍋暁斎編

浮世絵師は普段どんな生活を送っていたのだろうか。幕末・明治期に活躍した浮世絵師たちには、暮らしぶりがうかがえる証言が多く残されている。3回連続シリーズとして、浮世絵師の一日を関係者の証言から迫ってみることにした。今回は河鍋暁斎について取り上げる。

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前回の記事はこちら。

河鍋暁斎とは

河鍋暁斎は、江戸末期から明治にかけて活躍した絵師。天保2年4月7日(1831年5月18日)、現在の茨城県古河市に生まれる。幼少期には一時、歌川国芳に絵を学んだ。その後は狩野派の絵師を師事し、18歳で独立後は狩野派を脱した浮世絵・戯画・風刺画で人気を博す。カラスの絵(枯木寒鴉図)に当時としては法外な値段をつけて売り出し、購入されたことで話題となった。

応需暁斎楽画 第九号 地獄太夫 がいこつの遊戯ヲゆめに見る図
応需暁斎楽画 第九号 地獄太夫 がいこつの遊戯ヲゆめに見る図
元禄日本錦 の 吉田沢右エ門兼定 よ 奥田孫太夫重盛
元禄日本錦 の 吉田沢右エ門兼定 よ 奥田孫太夫重盛
枯木寒鴉図
枯木寒鴉図

河鍋暁斎の一日

家族も寝た姿を見たことない超夜型人間

河鍋暁斎の一日の過ごし方は娘の河鍋暁翠の他、多数の人が証言を残している。

暁斎、如何に爛酔して深夜に帰家しても、毎日必ず夜中の二時か三時に起き、朝の七八時ころまでには、依頼の画又は日課の画を画き終わること常なりし、故に、家人も、其何時就蓐し、何時起床せしやを、絶て知るものなし、暁翠女史いふ、父の眠れる顔は、終一度も見ずに仕舞へりと。
―『絵画叢誌』「画癖 河鍋暁斎」より

皆が寝静まった頃に起き出して、仕事の絵や日課の観音図や菅公(菅原道真)図を描いていた暁斎。娘の暁翠も父親の眠った顔を一度も見たことないと言うからには、よほど短時間睡眠体質だったのだろう。朝食を取った後は、三通りの過ごし方が証言からくみ取れた。

在宅の場合

暁斎が在宅時には来客が絶えなかったことが複数の証言から裏付けられる。来客の顔ぶれもさまざまだったようだ。まずは娘の河鍋暁翠の証言から(太字は引用者)。

石川光明さんや高村光雲さんはまだ象牙彫時代で、下絵の事でよくお出になり、父は中々忙しいのと飲むのとで、宅にお客がしょっちゅう絶えませんでした。どんなにお客が多かったかと申しますのに、仕出屋の亀長から、ノベツ仕出しが入りますので、ちょいちょい銅の鍋を忘れて参るのが溜り溜って、煤払いの時に、揚げ板の下から、五ッ六ッも出て来て、まるで料理屋みたいだと笑ったことがある位なんです。―『明治開化綺談』「父暁斎を語る」

石川光明も高村光雲も当時から著名な彫刻家。証言から彫る前の下絵を描いていたことがわかる。訪ねて来たのは彫刻家や仕事相手だけではない。暁斎の来客が多種多様だったことは日本画家の結城素明が証言している(太字は引用者)。

交際の範囲も広かつた。外国の画師なども訪問するし、吉原青楼の主人なども沢山来て居る。僧侶、俳優、文士から料理屋の女将職人までも交際した。前記のコンデエル(引用者注:建築家のジョサイア・コンドルのこと)を弟子に有つた関係からであらうと思ふが来朝の外国画家で暁斎を訪はぬものはなかつた位、此れの事なども当時の画家として珍しい生活であつた。
―『中央美術』「暁斎の絵日記」より

こうしたさまざまな訪問客のなかから絵の注文も殺到した。優先して描いてもらうには美味しいお酒が必要だったようだ(太字は引用者)。

先生(引用者注:暁斎のこと)は御酒好きですから、絵を描きながら、御燗酒をギューつと一気に喁飲ぐいのなすつてゞした。お肴はトント要りません、御酒の美いのを持て来る方には、忽ち絵をお描きになつて紙幣さつを並べても中々お描きにならないので奥さんの方は歯痒いんでした。
―『明治開化綺談』「父暁斎を語る」

お金よりお酒を優先したという話は、暁斎に関する資料で散見されるエピソードだ。

書画会の場合

河鍋暁斎が活躍した明治初期は、会費を払って絵師に即興画を依頼する書画会が盛んだった。書画会に参加した際の暁斎の様子について、洋画家の小山正太郎が次のように書き残している(太字は引用者)。

朝から一杯食こし召して、啣へ楊子か何かてブラリブラリと遣つて来る(中略)随分駄洒落など云つて居たが、眼中権門も無く、富豪も無く時に大杯を挙げて万丈の気焔を吐く所、実に傍若無人のものであつた。屏風でも、襖でも、何でも持つて来い。一本熱い奴をつけて来れば、何でも描いて遣る。と、大胡坐をかきながら座敷の真中に陣取つた所などは、実に威風辺りを掃ふの概があつた。併し酒気の漸く醒めた時は、極めて細心な所があつて、故人の粉本などの随分細かいものを写したりして居た。
―『多都美』「明治初年の画壇に於ける異彩」より

書画会での暁斎は座敷の真ん中に居座って大酒を飲む。相手が偉い人だろうが金持ちだろうが、お酒を持ってくれば何でも描いてやると威勢のいいことを言っていたようだ。酔いから覚めると先人の絵手本を写していたというのも根はマジメだった暁斎らしい。書画会から帰った後に決まって行うことにも暁斎のマジメさがうかがえる。

書画会より帰り来れば、如何に夜深けなりとも、必ず端然座に就き半折唐紙一枚を画き終わりて己むを常とし、之を果さゞる間は、決して注文画に筆を執らず、この習慣は死に至るまで変わらざりし、其意に曰く、席画は元々慰みに供する余興に過ぎざれば、唯達者に早く画きて、賓客の興に入るを主とし、画道の上よりは嫌ふべきことなり、故に余は、帰家後腕を矯める必要有り、若し之を怠り、席画を画きしまゝに放任しおく時は、余の腕は為めに崩れて悪きに陥る、これ何よりも恐るべきこと也と
―『絵画叢誌』「画癖 河鍋暁斎」より

即興画ばかりを描いて書画会で崩れた自分の腕を正すため、どんなに帰りが遅くなっても絵を一枚描くというのである。明治期の事物に詳しい石井研堂が書き残した、この証言から暁斎が注文の絵と書画会での即興画を明確に別物と捉えていたことがわかる。

仕事に行きづまった場合

何でもスラスラ描いていたかのように見える暁斎も行きづまることがあったようだ。

辻氏曰く、翁、嘗て或人の嘱託に応じ、唐子遊の図を画かんとせしが、意匠至らざる所あるをもて筆を止めたり。翌日早起、一瓢を携へ、余を誘ふて、先づ下谷の万年町に到りたり。万年町は貧民群居の地にして、貧児常に群遊せり。翁、先づ一児を呼び、銭を与へ、謂て曰く、你は你の朋友を呼び来りて遊ぶべし。よく遊ぶ者には銭を与ふべしと。忽ちにして数十の群児、出て来たり、翁の前に集る。翁、即ち群児を導きて路傍の隙地に至り、先ず相撲をとれとて相撲をとらしめ、又角兵衛獅子の学びをなすべしとて、其の真似をなさしめ、さて銭を与へければ、皆々大いに喜び、夫れより駈くらをなし、又目かくしをなし、其の他、種々の遊戯をなしたり。その間、泣くあり、笑ふあり、怒るあり、訴ふるあり、一挙一動、千態万状、真に唐子遊びの一活画なり。翁は傍らにありて、欣然酒を飲みつつ、筆を採りてこの遊戯の状を写し、更に群児を呼び、銭を与へ、去りて本所松葉町に到れり。此の地も又貧民の群居を集め、遊戯をなさしめ、筆を採りて其の状を写し、薄暮、家に帰り、翌日唐子遊の図を画き出せり。―『河鍋暁斎翁伝』より

子どもの遊んでいる様子を描くために、お金を渡して子どもを集めて遊ばせ、その様子を写生したという暁斎。写生したもののなかから抜き出して構図を決めていたのだろう。写生をしながらもお酒を欠かさない暁斎であった。

まとめ

これまでの証言をもとに河鍋暁斎の一日のタイムスケジュールを想像して表にすると以下の通り。

河鍋暁斎のタイムスケジュール(想像)
河鍋暁斎のタイムスケジュール(想像)

どんなケースであっても大酒を飲むことに変わりはない。暁斎にとって、お酒は時代の束縛から解き放たれ、着想を呼び起こすものだったのかもしれない。野口米次郎がお酒と暁斎の関係について語った言葉でこの記事の締めとしたい。

今日、多くの芸術家が酒以外のものに神の息吹を見出している事実を私は目にしている。しかしながら、もし酒が本当に暁斎の多くの作品を世に送り出す媒体だったとするならば、黄金の煌めきをもつこの日本の液体に私は感謝したい。―『太陽』「暁斎」より

次回は月岡芳年について取り上げる。

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参考資料

『画鬼 暁斎読本II』河鍋暁斎記念美術館編(2015)
『絵画叢誌』353号「画癖 河鍋暁斎」(中)石井研堂(1917)
『中央美術』大正5年3月号「暁斎の絵日記」結城素明(1916)
『多都美』第9巻第10号「明治初年の画壇に於ける異彩」小山正太郎(1915)
『太陽』第17巻第13号「暁斎」野口米次郎(1911)※山口静一訳
『河鍋暁斎翁伝』飯島半十郎(2012)※草稿は1901以前

尾形月耕
芳年四天王

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