義娘が語る月岡芳年の意外なエピソード

大正時代に発行された浮世絵雑誌『錦絵』第35号、『浮世絵界』第5巻7号のなかで、月岡芳年の泰夫人の連れ子、小林きんさんが亡き養父の思い出を語っている。「血みどろ芳年」という異名や精神病を患ったと言われることから、あまり明るいイメージのない月岡芳年。しかし、娘が語るエピソードを知ればきっと印象が変わるはず!

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お酒好き

酒と来ましては大の好物で、酒のために脳を病み、二ヶ年の長患いで生命をとられたくらいでしたから、朝からお膳にお銚子がのっている始末でした。そうして少し気の合うお友だちが見えますと、モウ仕事どころではなく、飲みつぶれるのが常でした。

お客がなくても気の向かぬ時は決して絵筆をとりませんでしたが、どちらかと申しますと、仕事をしている日よりも遊んだ日の方が多かったようです。それかと思いますと、少し気が進みますと、夜が夜半、人の寝静まった後までもセッセと勉強しました。

-『錦絵』第35号より

酒がすきで、朝から飲んでいるし、毎日のように新橋あたりから迎えには来るし、母も骨が折れたと思います。
迎えに来ると、ふっと出かけてしまう。いつ帰ってくるかわからないという始末で、なかなか絵は出来なかったようです。
(中略)
その代わり、画室に這入ると、一心不乱にかいていましたよ、そこは職業意識と申しますか、何と申しますか、きちんとしていました。画室にこもって出てこないことがありました。

-『浮世絵界』第5巻7号より

箱庭造りにドハマリ

箱庭道楽と申す道楽がありまして、各名勝の模型を造って庭一面踏むところのないまでにしたことがありました。それが巧妙であったと見えまして評判になり、方々の方が見物に見えましたが、箱庭を造ると言っては門人の方々に「ヤレかの土を掘って来い」の「ヤレこの土はいけない」のとコキ使うものですから、門人の方々は陰で「箱庭道楽はいい加減にしてもらいたいものだ」などとこぼしていたのをよく覚えています。

-『錦絵』第35号より

須賀町(浅草須賀町、現在の浅草橋)にいました頃は、庭つくりに夢中でしたっけ。弟子たちに苔をはこばせたり、砂利をはこばせたりして庭をつくりました。弟子たちのこぼしているのをよくききました。

-『浮世絵界』第5巻7号より

涙もろい性格

誠に涙もろい質で、人様のお気の毒な話を聞くと我が身を忘れて騒ぎまわる有様でしたから、食客の様な人の絶え間のないくらいでした。したがって門人の方々の面倒もよく見てあげたようです。

-『錦絵』第35号より

養父としての芳年

私などは母の連れ子ですが、それはそれは可愛がってくれまして、他人様は全く実子だと思ってくださったようでした。

-『錦絵』第35号より

金銭感覚

華美なことが好きで、金銭の観念なんぞはテンでなように見受けられました。

-『錦絵』第35号より

女遊び

ずいぶん道楽もし尽くしたようですが、私の母が嫁して来ました時分には、女の関係も余りなかったようでした。しかし根津に松葉楼と申す女郎屋がありまして、その家の主人とは眤懇(じっこん)でもあり、お抱えの幻太夫に通いまして私も時々連れられて行ったことをおぼろげに覚えています。

その幻太夫と申しますのは頭をお辷(すべ)らしに結び、紫の打ち紐で結び、白に黒絵の野晒(のざらし)つきの着物でつき出すと言うので有名な女郎でした。

-『錦絵』第35号より

全盛四季冬 根津庄やしき大松楼 幻太夫

全盛四季冬 根津庄やしき大松楼 幻太夫

解説
お辷らし:平安貴族女性の髪型、大垂髪(おすべらかし)のことか
野晒:外に放置された頭蓋骨のこと

芳年と弟子の関係

何しろ、にぎやかなことが大好きで、自分が遊びに行くのはもちろん、弟子たちも連れて行くのです。神田の祭だ、やれ山王祭だといえば、逃さず出かけ、多数の弟子にとりまかれて、ワッショイワッショイでにぎやかに遊ぶというたちですよ。そうかと思うと、弟子たちを集めて、陣取りをして遊ぶというような無邪気なところもあるし、なかなか複雑な感情の持ち主で・・・
(中略)
今まで申し上げたことは、にぎやかな遊びの精神でありましたが、他の一面の性格をお話ししましょう。それはやかましい人だったことです。弟子たちを大変かわいがると同時に、気に食わぬことがあれば、六尺棒をふりかざして、どやしつけ、破門すると言っては叱りつけていました。

-『浮世絵界』第5巻7号より

怪談好き

門人を引率して出回るのが好きで、酉の市とか、縁日などにいつも門人の方を連れて出かけました。また門人を連れて上野へ夜桜を見に出かけたりなどしましたが、恐ろしい話をして人をおどかすのが好きな妙な道楽がありまして、上野の山の暗いところで、昔ここから狐が出たの狸が出たのと恐ろしい怪談をして門人方をこわがらせて喜びました。

-『錦絵』第35号より

それから大変話が上手でした。ことに恐い話が上手で、百物語など話してくれました。妾(わらわ:小林きん本人)は、恐ろしくて、床の中にもぐって聞いていました。顔出して面白いところを聞いていますと、そのうち恐ろしい話になってくる。妾はふとんをかぶって、耳にふたして眼をつぶっていたものです。もうすんだかと思って顔を出すと、恐ろしい顔つきをして妾をおどかしたりしていました。面白い人でしたよ。

-『浮世絵界』第5巻7号より

霊感が強い?

根津の家にいた頃、その時は芳宗(二代歌川芳宗)が一緒にいましたが、お化けが出ましたよ。というのは、前になさけをかけたおめかけさんの幽霊にうなされたというのですよ。三晩目にその形相を絵に書き上げましたが、やはり不思議なものですね、しばらくしてから、そのおめかけさんの母が来て、死亡したことを知らせました。うなされた晩がそうだったそうですよ。その絵は清方(鏑木清方)さんがもっておられるとききました。

-『浮世絵界』第5巻7号より

解説
この幽霊の話は『浮世絵志』第15号「芳年と幻太夫(中)」のなかでさらに詳しく記載されている。このおめかけさんの名前はお琴といい、病死間際に「芳年先生のところにお礼に行きたい」と言っていた。幽霊は袖で顔を覆い隠していたが、幽霊として現れた時間や着物の縞柄が一致していたことでお琴の幽霊だろうと思い至ったそうだ。画家の山中古洞の話では、芳年がこの幽霊を描いた絵は小林きん存命時に焼けてしまったという。

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制作風景

画室には自在(いろりの上から下げ、鍋や釜を掛けてつるす道具)がかけてありました。その頃ランプが流行してきて、文明開化の世の中になってまいりましたが、ランプは用いず、百目ローソク(100匁(もんめ)(約375グラム)ある大きなろうそく)をつけていました。ごはんをローソクの光で頂くところは、それはすごい風景でしたよ。

-『浮世絵界』第5巻7号より

ご維新で上野の戦争のあった時は、弟子の年景(金木年景)をつれて見に行ったそうです。五月(旧暦の5月、今の暦では7月)のことですから、裸で行ったそうです。そして空き家の中で弁当を食べたという話です。

-『浮世絵界』第5巻7号より

参考資料

『錦絵』第35号「亡父芳年の思ひ出」小林きん
『浮世絵界』第5巻7号「芳年追憶談(三)-小林きん女史を囲んで-」
『浮世絵志』第15号「芳年と幻太夫(中)」大曲駒村
『浮世絵志』第16号「芳年と幻太夫(下)」大曲駒村
※旧仮名づかいや漢字は現代語に修正(誤植の修正含む)、カタカナは原文ママ

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