歌川国芳の右腕、歌川芳宗の破天荒エピソードをまとめてみた

江戸後期を代表する浮世絵師、歌川国芳の古参弟子だった歌川芳宗。残された作品数は多くなく、それほど有名な絵師ではない。だが、国芳の右腕的存在として活躍した一方、国芳から破門されること十数度、破天荒ぶりを示す逸話が残されている。歌川芳宗の略歴とともに現在に伝わる逸話をいくつかご紹介。※背中に「芳宗」の文字が入った自画像は「天王御祭礼之図」より抜粋

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歌川芳宗とは

歌川芳宗(息子、二代芳宗による肖像画)

歌川国芳の弟子。本名は鹿島松五郎、画号は一松斎。文化十四年(1817)、銀座二丁目に住む大工、林忠蔵の子として生まれる(鹿島という苗字がどこから来たのかは不明)。国芳からは「松公」などと呼ばれていたようだ。

彩色が得意で師匠である国芳作とされる版画の色差し、国芳の肉筆画の代表作である『一ツ家の老婆』(浅草寺蔵)の彩色も行ったと言われる。十数度も破門されながら国芳の元に戻ってこれたのは、この彩色の才能によるものなのかもしれない。

 

一ツ家の老婆

国芳の弟子となったのは、天保六年(1835)で19歳の時(芳宗の息子、新井芳宗によると14、15歳の頃とも)。この頃の国芳は『通俗水滸伝豪傑百八人』が評判となり、売れなかった時代からようやく「武者絵の国芳」として芽が出かけていた。ライバルである歌川国貞に追いつこうとしていた時期である。その後に河鍋暁斎や落合芳幾、月岡芳年が国芳の弟子となるため、芳宗は国芳門下のなかでも大兄弟子と言っていい。国芳十三回忌に建立された「歌川国芳顕彰碑(一勇斎先生墓表)」では、当時生存している国芳門下生の筆頭として名前が刻まれている。

この兄弟子っぷりは河鍋暁斎の『暁斎画談』のなかでも挿絵として描かれている。

暁斎画談「暁斎幼時周三郎国芳へ入塾ノ図」
解説
猫と戯れながら幼い暁斎に絵を教えている国芳。国芳の奥にいる女性は弟子の芳玉女(または芳玉)。そして暁斎の後ろで乱暴者と言われていた芳虎に組み伏されている芳員(よしかず)。両者が争う様子をひじをつきながら見ているのが、今回の主役である芳宗だ。

芳宗の息子、周次郎(新井年雪、後に二代目芳宗を継ぎ新井芳宗となる)は月岡芳年の弟子になっており、親子二代に渡って芳年との交流は深い。芳宗が経済面で芳年を支援することもあれば、火事で焼け出された芳宗一家を芳年の家に迎え入れることもあったとのこと。

二代歌川芳宗

歌川芳宗の破天荒エピソード

国芳の愛猫の亡骸を川に捨てる

猫が大好きな国芳師匠から猫の亡骸を回向院(えこういん)まで運んで供養してもらうよう言われたが・・・続きは国芳の猫好きエピソードをまとめた関連記事をご覧あれ。

国芳の自慢のふんどしを勝手に締める

祭りとあれば、粋な格好で先頭切って出かけていた師匠の歌川国芳。ふんどしもシャレていて五色のちりめんを使ったものを締めこんで祭りに繰り出していた。

そんな師匠の姿に常々あこがれていた歌川芳宗。師匠や弟子たちがいない留守中に、こっそりと五色のふんどしを締めてみた。しかし誰も見ていないところで締めても、ほめる人も無しでつまらない。そこで数日かけて湯屋巡りをして大いにふんどしを見せびらかした。一方、国芳の家では自慢のふんどしがなくなったと大騒ぎに。

何も知らない芳宗が国芳の家に帰ってくると、芳宗が丹念に描き上げて大切にしまっていた割り付けの模様を、弟弟子の芳幾(落合芳幾)が写して描いていた。「何だって俺のものを写していやがる!」「つい御拝借した」「誰に断って俺のものを使う!」などとやり合った末、側にいた弟弟子の芳虎に向かって「てめえも側にいながらなぜ黙ってみてやがる!てめえ達のような風の悪い奴には屁でも吹っ掛けてやるぞ!」と怒りにまかせて裾をまくった途端、あの五色のふんどしが露見。

文字通り“人のふんどしで相撲を取った”芳宗は破門になったという。

挨拶に来ない芝居小屋にいたずら

江戸時代、上方(関西)から江戸にやってきた役者は浮世絵師の棟梁格のところにあいさつに行くのが通例だった。そして芝居小屋が開くと木戸札(入場券)が数枚配られて、師匠はもちろん弟子たちも無料で観劇ができた。

ところが、ある一座が国芳の家に木戸札を1枚も届けない不始末があった。どうやら故意ではなく、何か取り違いがあったようで国芳は何も言わなかったが、弟子たちが黙っていなかった。とりわけ大兄弟子たる芳宗は「生意気だ」と怒り出す。そこで腹立ちまぎれに何かいたずらをしてやろうということになった。

芳宗は他の弟子たち2、3人と赤い紙をたくさん買ってきて細かく三角に刻み、風呂敷に包んで、木戸札を届けなかった芝居小屋にやってきた。一番安い札で入場し、頃合いをみて舞台裏に紛れ込み、大道具係に交じってまんまと舞台の天井に忍び込む。そして、天井に用意されたかごに、風呂敷に包んでいた赤い紙を混ぜ込んだ。

次の幕は「奥州安達原」の「袖荻」。帝の弟が誘拐されてしまった責任を取って切腹に臨む警護担当の父親、そして朝敵である誘拐犯と駆け落ちした盲目の娘、袖荻が雪の中で再会するという場面。白紙の「雪」が入ったかごに結んである紐を舞台袖から引っ張ると、かごが傾いて雪が舞い落ちるという仕掛けだった。

何食わぬ顔で見物席に戻った芳宗たち。舞台の上では、袖荻が枝折戸の外で倒れて、いよいよ雪が降ってくる場面。しかし降ってきたものは、めでたい紅白の雪。見物客は笑い出し、せっかくの泣きの場面がメチャクチャになった。犯人は誰だと大騒ぎ。国芳の弟子たちが舞台に見えて少し怪しいとなるが、なにぶん証拠がない。結局、いたずらされ損で決着が着いた。

それ以降、国芳のところへ木戸札を届け忘れることはなくなったという。

三角関係のもつれがきっかけで死去

妻を亡くした晩年の芳宗には2人の愛人がいた。しかし互いの存在を知られてしまい、両者の間でモメにモメて芳宗は2人のあいだに立って困っていた。

ある日のこと、片方の愛人が嫉妬心から芳宗の家へ泣いてやって来て「これでお暇を取らせていただきます」などと別れを告げて帰ってしまった。すでに深酒をしていた芳宗が走って追いかけるも、その愛人は振り切って逃げる。

山城河岸(現在の東京都中央区銀座6、7丁目にあった、山城町の外堀沿いの河岸通り)まで追いかけていった芳宗は、酔いも手伝ってか誤って井戸に落ちて、そのまま息を引き取ったという。状況が少し異なるが、当時の読売新聞には以下の訃報記事が載った。

南金六町の芸者若菜屋島次の親父鹿島宗則(六十六年)ハ底測りの無い飲み抜けにて去る十七日日比谷の太神宮から芝の東照宮へ参詣した帰り何処で飲んだか泥の様になッて夜の十時ごろ八宮町を通るとき同所の往来に在る井戸へノメリ込み酔ざめと末期の水を飲み飽きて終に死んでしまひました

良感寺(西巣鴨)

歌川芳宗の墓は、都営地下鉄西巣鴨駅A4出口から徒歩5分の良感寺にある。

同寺は浄土宗のお寺で、芳宗が葬られた頃は台東区下谷にあった。大正時代に現在の地に移転してきたとのこと。

良感寺(西巣鴨)
良感寺(西巣鴨)

墓石

本堂裏手にある歌川芳宗の墓石。正面には「鹿島家累代墓」、その右側に芳宗の法名「雲上院興与芳宗居士」と命日「明治十三年四月十七日」が刻まれている。

歌川芳宗墓

左側に刻まれた法名「妙覚院心月知栄大姉」と命日「明治十一年七月二日」は芳宗の妻「やす」のこと。理由は不明だが妻だけは当初、深川の蔵林寺(現在の江東区増林寺のことか?)に葬られており、夫婦別々の墓だったとのこと。

夫婦別々の墓が一緒になった経緯もハッキリしないが、墓石向かって右の側面に刻まれた「鹿島氏祠堂金拾五円」「施主 加藤志満」の文字で推測はできる。この加藤志満は芸者「若菜屋島次」として名を馳せた、芳宗の娘しま女とみてまず間違いない。娘が別々だった両親の墓を一緒にして弔ったのだろう。

歌川芳宗墓(正面)
歌川芳宗墓(右側面)
歌川芳宗墓(左側面)

墓石の場所

歌川芳宗墓石場所

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参考資料

『浮世絵志』第18号「芳年伝備考(第三稿)」山中古洞
『浮世絵志』第24号「一松斎芳宗父子(上)」大曲駒村
『浮世絵志』第25号「一松斎芳宗父子(中)」大曲駒村
『錦絵』第36号「父を通して見た国芳先生」新井芳宗
『暁斎画談』瓜生政和、河鍋暁斎
『都新聞』明治36年8月21日(第5613号)「浮世絵昔ばなし」新井芳宗
『都新聞』明治36年8月23日(第5615号)「浮世絵昔ばなし」新井芳宗
『読売新聞』明治13年4月20日

二代歌川芳宗