月岡芳年の右腕、二代歌川芳宗のやりすぎエピソード

二代歌川芳宗

明治期を代表する浮世絵師、月岡芳年。芳年と家族ぐるみで付き合いのあった二代歌川芳宗(新井芳宗)は、芳年の貧乏時代を支えた右腕的存在だった。一方で破天荒な父・初代芳宗ゆずりのやりすぎエピソードが残されている。二代芳宗の経歴とともに現在に伝わる逸話をいくつかご紹介。

二代歌川芳宗の生涯

浮世絵師の息子

父・初代歌川芳宗(二代芳宗による肖像画)

二代歌川芳宗こと新井芳宗は、文久3年2月5日(1863年3月23日)銀座三丁目の観世新道にて、浮世絵師・初代歌川芳宗の11人目の子どもとして生まれる。名は周次郎。11人のうち達者で残ったのは若菜屋島次こと姉の「しま」と末っ子の周次郎だけだった。親は鹿島姓だったが、後に姉の嫁ぎ先の新井姓を名乗るようになる。これは徴兵逃れのためと思われる。父親の初代歌川芳宗は貧乏時代も経験していたが、娘のしまを芸者にして若菜屋という芸者屋を始めたところ、これがあたり家族は不自由ない生活になったようだ。

周次郎は11、12歳頃には小遣い稼ぎに町内に配るビラを父に代わって描いていた。ビラ1枚50銭という小遣いを銀貨で受取ると1銭銅貨に両替し、新橋から日本橋界隈を歩きながら宿無し者に1人1銭を渡していたという。あるとき町内の葬儀に出かけて余っていた寿司折を宿無し者に配ろうと大量に持ち帰ったが、雨が降る中で配る相手が見当たらず家まで持ち帰って母親に怒られたという逸話も残っている。

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月岡芳年に弟子入り

周次郎は浮世絵師・月岡芳年のもとへ弟子入りを志願するが「バカをいえ。絵かきになっても容易なことで名を挙げるわけにはゆかぬ。まず100人のなかやっと2、3人だ。初めっからの修行を考えると、とてもダメだ」と父親に反対され一度は新富町に丁稚奉公に出た。ところが絵草子屋に入り浸るなどして2ヵ月ほどで追い出されたのをみて、父親から「それほど好きなら芳年のところへ行くがいい」と許しを得たという。周次郎13歳の暮れのことだった。

周次郎は芳年から「年雪」の雅号をもらうが、師匠や兄弟子たちからは「周坊」と呼ばれていた。師の芳年は明治10年(1877)の西南戦争での「戦争画ブーム」が終わると貧乏時代に逆戻りとなり困窮を極めた。そんな芳年貧乏時代の逸話に年雪時代の「周坊」がよく登場する。

酒屋の使い

「周坊」こと年雪は芳年から酒屋の使いを頼まれた。それは美少年だった年雪が行くと、酒屋のお爺さんがいつもオマケを足してくれたからだった。芳年は年雪からガラス徳利を受け取ると、透かして「ムム、量りがいいなぁ」と微笑するのであった。後に年雪は師に渡す前の酒を少しばかり拝借することがあったが、そんな時は芳年から「妙に泡だっている」と図星をつかれたそうだ。

質屋の使い

米代にも事欠いたある日のこと。芳年から「オイ周坊、すまねぇが角の伊勢屋(質屋)まで行ってきてくんねぇ。この浴衣を持って行って借りられるだけ借りてくるんだ」と仰せつかった年雪。質屋の扉を開けて「こんちわ旦那、これで出来るだけ貸してくださいな」と威勢よく声をかけた。

すると、店の主人と話し込んでいたお爺さんが振り向いた。「おまえ周公じゃねぇか。金がいるならワシが立て替えてやる。こんな使いは二度とするんじゃねぇぞ馬鹿め」そこにいたのは父・初代芳宗だったのだ。バツの悪い思いをした「周坊」は金をもらうと、師匠の垢だらけの浴衣をひったくって逃げ帰った。話を聞いた芳年も「そうか、(父)ちゃんがおったのか。あいにくだった。芳宗のヤツにみつかったのは俺の百年目だったな」と話したという。

変装して観劇

五代目尾上菊五郎は武田信玄の家臣・山本勘助を初めて演じることになり、勘助の衣装について月岡芳年に相談に来た。芳年は鎧のことから不動尊絵皮の陣羽織など事細かに菊五郎に伝授。新富座で菊五郎が演じた勘助は大評判となり、どうか一日来てくださいとたびたび芳年を迎えにきた。

しかし、いくら招待とはいえ何も渡さずに見るわけにもいかない。浮世絵師の矜持として俳優陣への心付けや菊五郎を呼んで一杯ぐらいおごらなければならないが、当時の芳年はそんなお金もなかった。それでも自分の教えた勘助をどうしても観たい芳年は、年雪にどうしたらよいか尋ねた。

芳年「どうだ、見る工夫はないか」
年雪「先生、私も初めてですが追い込み(注:客を出来るだけ入れるため仕切りのない席)はどうでしょう?1人10銭ですし、少し遠すぎるかもしれませんがいかがです?」
芳年「ムム、それでも誰かに見られたら困る」
年雪「なぁに私は頬かむりで行きますから、先生は頭巾をかぶったら良いでしょう」

頭巾と頬被り

6月初めで頭巾をかぶるには暑い時期だったが、芳年は菊五郎の勘助を観たい欲には勝てず年雪の提案にのった。頭巾をかぶって追い込み席に入ったものの客は大入り、押し合い圧し合いで座れない。頭をあげると「こんな暑いのに何をかぶってやがる!邪魔だから被り物をとれ!」と怒鳴られるため、中腰で見ざるをえなかった。

年雪が10銭弁当を2つ買って1つを芳年に渡すと、汗でびしょ濡れの芳年はせめて食べるときだけでもと頭巾をとって弁当を食べ始めた。すると劇場の若い衆が2人の顔を見て「オヤオヤ先生、なんだってこんなところにおいでなさるんです!ただいま親方に話して場所をこしらえますから少々お待ちください」と舞台の方へ降りて行ってしまった。

芳年「とうとう見つかってしまった、どうしたらよかろう?」
年雪「先生、すぐ帰りましょう」

そのまま劇場を飛び出し、いくばかりか走ってやっと息をついた。後に芳年は「あんな暑い思いをしたことは今までにない」とよく話していたそうだ。

獅子舞の小遣い

ある年の正月、新年のあいさつに来た弟子たちと自宅で酒を飲んでいた月岡芳年は外で獅子舞のお囃子を耳にした。「うめぇもんだな、あんな上手は通り一遍の獅子舞には少ねぇぜ」としきりに感心している。お囃子の音が家の前まで来ると、芳年が「あの獅子舞を誰か呼んでやれ」と声をかけた。すると、獅子舞連が5人ほど芳年の自宅にやってきた。

初春だけに酒と肴はもらい物が相当あったが、芳年の無一文生活はこれまで通りだった。芳年は獅子舞に見惚れ聞き惚れながら「うめぇなぁ」と感慨深げ。舞の合間にもらい物の酒とミカンを勧めていた。獅子舞連も得意になって、勧められた酒やミカンを口にしながらありったけの舞を演じる。しかし、3時間あまり舞って日も傾いてきたが、ご祝儀もお駄賃も出る様子がない。しびれを切らした獅子舞がとうとう催促におよんだ。

芳年「銭金はねぇのだ」
獅子舞連「それでは困る」

押し問答になったのを見た年雪は、慌てて近所に暮らす父親の初代歌川芳宗のもとへ駆けつけた。芳宗は「しょうがねぇ馬鹿だなぁ、獅子舞に二分はやるんだぞ。あとは師匠(芳年)に渡すんだ」と言って若干の銭を年雪に渡して、獅子舞連との押し問答は無事決着がついた。

新聞挿絵の世界へ

16歳で母を、18歳で父を亡くした年雪は姉の島次のもとにいた。姉から「男子と生まれたからには一か所にグズグズしているようでは役に立たぬ」と言われて腹を立て、家を出ることを決意。父の代から知り合いだった仮名垣魯文に相談すると「そんならちょうど信州松本から記者と画工を抱えに来ているから行ってみるか」と勧められる。さっそく長野県松本市に向かい、「信陽日日新聞」で社用をこなすかたわら挿絵を描いた。この新聞はわずか半年で新聞社が官吏侮辱で発行禁止になったため、東京に戻ることになる。

二代芳宗を襲名

東京に戻った年雪は知人の勧めにより、二代芳宗を襲名する。明治14年(1881)11月1日、名びろめの書画会を谷中の天王寺で行い、夜には鶯谷の料亭・伊香保で宴を開催。師の月岡芳年の他、落合芳幾、松本芳延、仮名垣魯文、五代目尾上菊五郎、市川右団次、三遊亭円朝といった著名人の他、姉の若菜屋島次ら芸妓連など総勢240人ほどが来会した。

料亭・伊香保では滝開きがあり、浮世絵師の松本芳延と島次の情夫であり新場の親分だった子安が滝に打たれた。芳延の背中には歌川国芳が描いた刺青、新場の子安には小林永濯が描いた水滸伝の魯智深の刺青があり、いずれも劣らぬ見事な刺青に来会者は拍手喝采だったという。

絵入自由新聞に入社

明治15年(1882)自由党の後援者にして豪商の吉田健蔵が「絵入自由新聞」の創立に動いた。吉田のもとには「信陽日日新聞」で同僚だった渡邊文京という新聞記者がいた。文京はこの新聞の挿絵担当に芳宗を推薦。月給は文京20円、芳宗18円と決まった。

芳宗はさらに師の月岡芳年の招聘が急務であると幹部を説得。協議の結果、芳年を月給40円、専用の人力車で日々の送迎のため、車夫を雇い置くこと、前借り2ヶ月分の即金80円を勝ち取り、貧苦にあえぐ師匠を助けた。芳宗はその後「国会準備新聞」「絵入朝野新聞」「仮名読新聞」「いろは新聞」「今日新聞」「改進新聞」「都新聞」を転々としながら新聞挿絵を描いていくこととなる。

『絵入自由新聞』為百号祝御礼 芳年戯画

『絵入自由新聞』為百号祝御礼 芳年戯画

上の絵は「絵入自由新聞」の第100号を記念して師の月岡芳年が描いた戯画。左から今回の主役の芳宗、月岡芳年、渡邊文京、宮崎夢柳(新聞記者、後に政治小説家)が描かれている。

代表作「撰雪六々談」の出版

明治25年(1892)6月9日、月岡芳年が亡くなった。同年から翌年にかけて、芳年が「月百姿」を出した秋山滑稽堂から芳宗は「撰雪六々談」を出版。事実上「月百姿」の続編である。当初は六々の名の通り6×6=36枚の予定だったが、24枚の制作に終わっている。

撰雪六々談 蝦夷の信仰

撰雪六々談 勇者仁阿李

画博堂立ち上げ

画業だけに飽き足らず、明治26年(1893)には画博堂という書画専門店の営業を開始する。画博堂の新聞広告の文言を読むと、どうやら自らの創作や販売促進というよりも偽物を売っている浮世絵商撲滅の目的の方が大きかったようだ。

画博堂の広告

画博堂の広告

挿絵稼業をやめて諸国漫遊へ

明治29年(1896)33歳の芳宗に転機が訪れる。柳橋の亀勢楼で行われた宴会に呼ばれ、便所で小用を足していると芳宗が相当力を入れて描いた新聞付録の「歌読の美女」という絵が、チリ紙代わりに使われて打ち捨てられているのをみつけてしまった。

「あれほど心血を注いだ自分の仕事を一片の、それも、糞ふきに使用されるなぞとは!」と怒りが収まらない。急用が出来たと宴会を後にして、一晩寝ようにも寝られない。翌朝、さしあたっての仕事を間に合わせのものを描いて済ませると、今日限りで挿絵の仕事は断るとの手紙を各社に出したのだった。手紙を見て慌てた社長や編集長が引き留めるのも聞かず、家族にも内緒で箱根に逃げてしまい、他の挿絵画家で支障なくやっていることを確認すると10日目に東京に戻ってきた。

当時の芳宗は4社から挿絵の依頼を受けていたが、全て断ったため食べるあてもない。そこで肉筆画修行を思い立ち、弟子の小松年宗と一緒に揮毫旅行へ出かけることにした。東海道をはじめ、京都、大阪、四国、九州を徒歩で廻って各地の名所を巡っては暇さえあれば揮毫して画料を旅費にあてた。

この旅は3年で終わったが、以後も放浪癖が止まらなかった。関東大震災の時には北海道・旭川で豪遊しており無事だった。大部分の肉筆作品が関東大震災で失われたため、昭和3年(1928)12月には「新井芳宗先生推讃会」が発足し、芳宗を東京に引き留めて揮毫させるべく「禁足運動」が行われたほどだった。

代表作「芳宗随筆」を出版

明治32、33年(1899、1900)頃、芝公園の自宅の浮世絵堂から自費出版したのが、もうひとつの代表作「芳宗随筆」である。もともとは12ヶ月の12枚を予定していたが、完成にはいたらず下記5枚に終わっている。

  1. 七福神(正月)
  2. 鮑取り(七月)
  3. 月の出(柳橋夜景)(八月)
  4. 菊納め(浅草寺東門)(九月)
  5. アイヌ(北海道原住民)(十二月)
芳宗随筆「菊納め(浅草寺東門)」

芳宗随筆 菊納め(浅草寺東門)

二代歌川芳宗のやりすぎエピソード

二代歌川芳宗こと新井芳宗は、絵のためならどんなことでもやる絵師だった。そんな芳宗のやりすぎエピソードをいくつか紹介する。

法廷画を描くために目隠し

明治のはじめの新聞はまだ写真技術が発達していなかったため、写真代わりに挿絵が使われていた。そんななか福島事件(福島県令・三島通庸の圧政に耐えかねた農民や自由党員が蜂起した事件)の裁判で、政治犯として逮捕された河野広中の顔を各新聞社も出せないでいた。

絵入自由新聞から河野広中以下14名の被告をスケッチしてこいと指示された芳宗だったが、法廷では後ろ向きで顔のスケッチができない。控室にいる時を狙ってスケッチするしかないが、時間が足りない。そこで被告の輪郭だけを描いて、その他特徴や細かいところはその目に焼き付けた。それから固く目を閉じて同行者に車へ案内してもらい、家に帰って机に向かうまで一切目を開けなかった。机に向かって静かに目を開くと、先ほど目に焼き付けた14人の被告の姿を紙に描き写したのだった。

河野広中肖像(二代芳宗画)

河野広中肖像(二代芳宗画)

翌日から毎日一人ずつ被告の肖像が新聞に掲載された。上の画像はその時に絵入自由新聞に掲載された河野広中の肖像である。

被告の顔が見られるとあって新聞の売れ行きは大したものだった。ある銀座の写真屋が後に新聞の絵に若干手を加えて、写真と称し絵はがきにして販売した。ところがその「写真」には、「芳宗」の落款が入ったままになっていたという。

皮むき獄門を自分の顔で再現

芳宗が27、8歳頃、新聞社から<皮むき獄門>の絵を書けと言われたことがあった。獄門なら話にも聞いたことがあるし、台の上に首をのっければいいことくらいはわかっていたが、「皮むき」というのがわからない。どうにかして「皮むき」の様相を描かなければと思い立った芳宗は主人と顔見知りだった新橋の三茂という牛屋へ行った。そこで腕利きのコックに命じて最上のロース肉をできるだけ薄く広く7枚ばかり切ってもらって持ち帰り、それを自分の顔へベッタリ貼り付けて目と口のところだけ切り抜き、剥がれないようにその上を糸で縛った。「皮むき」とはこんな感じだったのだろうと改めて鏡を見てゾッとしながらも、生臭いのを我慢して筆をとり克明に写し取っていった。

そんなことを知らない弟子の一人が2階の画室にいた芳宗を見るなり、慌てて下へ降りていき、同輩を呼んで「師匠、どうなさいました!?」と飛んだ騒ぎになったという。この時に描いた絵はかなり真に迫っていた。ところが挿絵が世に出てから3日後、裁判所から呼び出し状をもらう。出頭すると判事の前に立たされた。判事との問答を芳宗はこう回想している。

『何月何日の絵入自由新聞の挿画はお前が描いたものか。』
『左様でございます。』
『何ういふ訳で、あんな残酷な絵を書くのだ。実にあゝ云ふ絵は社会を毒するものだ。新聞を見て先づ眼につくのが挿画である。儂はあの日の新聞丈けは見た途端握り潰して家内の者には、今日は新聞は休みだ、と言訳をした。見せ度くないからだ。外国人の眼に触れて日本と云ふ国は何と野蛮な国だらうと云ふ悪い印象を与へるさへ国辱ではないか。今日あんたを呼び出したのはあの挿画にのみ就てゞはない、最近ともすると猥褻、野蛮な画風が多い、が一番筆を多くとつてゐるあんたに注意するのが先づ、妥当ではないかとあんたを呼んだまでの事で、此の事はあんたから他の挿画家にもよろしく注告して貰ひ度い―』

裁判所を出て見ると、已に各社の探訪記者が待ち受けてゐて、翌日の新聞に、何んな理由で、新井芳宗が裁判所に呼び出されたかを、詳しく報道してゐたので、他の挿画家に一々注告する手数は省けたと云ふ訳でした。
―「挿絵の思ひ出話」より

絵のために自分からわざと軟禁される

新聞社から<居残り部屋へ放り込まれた男>を書けと言われた芳宗。居残り部屋とは女郎屋で遊んだ結果、勘定を払えない男が何とかお金を工面しろと最後に入れられる軟禁部屋のこと。芳宗自身は20両や30両持っていたので、居残り部屋は話でしか聞いたことがなかった。人に聞くより自分で居残り部屋に入った方が良いと思い立つと、元彰義隊の幇間・露八に相談した。

ところが「ダメダメ、そんな着物を着て金ピカのクサリ等ぶら下げて何で居残る資格がござんしょう」と露八は相手にしない。芳宗の覚悟のほどを説くと、露八は吉さんという屑屋に言って着物をボロに取り換え、がま口財布も借りて1円70銭ばかり入れて芳宗に渡した。芳宗はさっそく居残り部屋があると言われていた女郎屋・橋本楼に出かけて行った。

研究のためを言い訳にちょっと遊んで勘定してもらうと3円80銭。始めにご祝儀と言って20銭渡していたので、残り1円50銭ではもちろん勘定は払えない。一晩は部屋に独り残されたまま放置され、翌日になると誰かに手紙を書いて何とかしろと言われる。そこで屑屋の吉さんを知人に仕立て、手紙を持って行ってもらうと「奴さんとは焼き場でちょっと会っただけで女郎屋の始末をしてやるほどの間柄ではない」と筋書き通りの返事。女郎屋の若い衆が芳宗の身に着けていたものを調べるが、金目のものは無い。いよいよ居残り部屋に放り込まれることになった。

居残り部屋は手前に便所、奥には行燈(あんどん)だけが並んでいた。物といえばたばこ盆(注:喫煙に必要な火入れ、灰落し、たばこ入れ、キセルなどをひとつにまとめたお盆)しかない。廊下を通る女郎の姿が見え、昨晩のお相手からアッカンベーをされ惨めな思いをさせられた。

居残り部屋の様子がひとしきりわかったところで、露八に手紙を書くと「露八師匠のことを知っているのか?」と使いの者が怪訝な顔をして出て行った。やがて露八が大声で「こんちは!何ですって!新井先生?どこにいる、早く案内してくれ。えっ!居残り部屋だぁ?いやぁ先生なんちゅーこってす、とんでもない!」と芝居を打って首尾よく居残り部屋研究は終わったのであった。

生前葬

芳宗が30代の頃、上野の伊予紋という料亭で画家仲間が多く集まった会があった。芳宗も出席したものの、その時は函館あたりを放浪したあげく、第4回内国博覧会に出かけて大阪に三か月も遊女に入れあげて帰ったばかりだったため、病人のような姿だった。

これを見た兄弟分の間柄だった鈴木華邨あたりから「芳宗のヤツも見たところ、余命いくばくもないらしい。元気もなさすぎるから、ひとつアイツに元気を吹き込んでやろうじゃないか」と提案される。つまり死んでから立派な葬式をやってもしょうがない、生きているうちになぐさめてやろうというわけだ。画家仲間たちが提案に同調して、同じ伊予紋を会場にして後日『芳宗慰労会』が行われた。

この会には鈴木華邨の他、水野年方、右田年英、尾形月耕、梶田半古、富岡永洗といった当時の浮世美人画壇のそうそうたる顔ぶれが出席。招待された芳宗は「生きてるうちに葬式代わりの慰労会とは面白い。それならこっちも招かれて行き様がある」と言って、かねてより知り合いの港区瑠璃光寺から墨染めの衣を数着借りて弟子に着させ、納所坊主(下級僧)に仕立てた。

晩年の二代歌川芳宗

晩年の二代歌川芳宗

慰労会当日、宴席のすぐ隣の部屋に仏壇を築いてお香と花を手向け、芳宗の弟子が扮した坊主にデタラメのお経を上げさせた。四斗樽を運んできて仏壇の奥に飾ると、芳宗本人は白装束を着て樽のなかに入る。

出席者が酒を数回飲みかわし、読経半ばというところで、木魚のポクポクという音に合わせて四斗樽の鏡を割って芳宗が姿を現した。額に三角の白い布をつけ、やせ細ったその姿は亡者そのもので、出席者一同アッと驚いて開いた口がふさがらなかったという。

鈴木華邨をはじめ慰労会に出席した画家仲間が先に亡くなっていくなか、死者を演じた芳宗は皮肉にも80歳近くまで長生きするのであった。

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参考文献

『浮世絵志』第18号「芳年伝備考(第三稿)」山中古洞
『浮世絵志』第23号「芳年伝備考(第六稿)」山中古洞
『浮世絵志』第28号「芳年伝備考(第十稿)」山中古洞
『浮世絵志』第32号「芳年伝備考(第十四稿)」山中古洞
『浮世絵志』第24号「一松斎芳宗父子(上)」大曲駒村
『浮世絵志』第26号「一松斎芳宗父子(下)」大曲駒村
『名作挿画全集 別巻 附録「さしゑ」解説・目次・索引』第九号「挿絵の思ひ出話」新井芳宗
『都新聞』明治36年8月15日(第5608号)「浮世絵昔ばなし」新井芳宗
『都新聞』明治36年8月21日(第5613号)「浮世絵昔ばなし」新井芳宗
『都新聞』明治36年9月26日(第5617号)「浮世絵昔ばなし」新井芳宗
『東京日日新聞』明治27年8月5日(画博堂広告)
『週刊朝日』昭和12年4月1日春季特別号「明治時代の風俗を語る-古老挿絵画家座談会」
『ラスト・ウキヨエ 浮世絵を継ぐ者たち - 悳俊彦コレクション』太田記念美術館編
国立国会図書館デジタルコレクション
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