月岡芳年vs落合芳幾のライバル史

幕末期から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年と落合芳幾。ともに歌川国芳の弟子であり、同時代に競い合った両者のライバル史についてまとめてみた。

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月岡芳年伝 幕末明治のはざまに

出自

落合芳幾

天保四年(1833)4月、吉原日本堤下の編笠茶屋(遊郭に入る客に、顔を隠すための編笠を貸した茶屋)の子として生まれる。本名は落合幾次郎。幼少期を国芳門下の歌川芳兼(竹内田蝶)の息子・竹内久一(後に帝室技芸員となる木彫作家)と遊んで過ごし、芳兼の仕事を見ていたという。父親によって質屋への奉公に行かされたが、絵師への夢を捨てきれず家に戻った。その後、歌川国芳に弟子入りする。

月岡芳年

天保十年(1839)3月17日、新橋の商家に生まれる。本名は吉岡米次郎。向島百花園内の石碑には父の名は吉岡兵部と伝えられるが、明治十六年(1883)頃の戸籍によると、米次郎はその後、父のいとこの吉岡織三郎の養子になったものと考えられる。月岡姓はこの養父の父親の弟にあたる絵師、月岡雪斎の名を継いだもので、慶応元年(1865)頃から名乗っている。松月という四条派の絵師の弟子となるが、これでは売れないと見限って歌川国芳の弟子となったという話がある。

歌川国芳に弟子入り

落合芳幾は、嘉永二年(1849)頃、17歳で兄弟子である歌川芳兼の紹介で歌川国芳に弟子入りした。そのわずか1年後、嘉永三年(1850)頃、当時12歳で国芳に弟子入りしたのが月岡芳年だった。年齢こそ6歳違いだが、入門は1年違いとあって、この頃からすでにライバル関係というのは成立していたのかもしれない。

師匠の国芳の目にはこの2人の弟子はどう映っていたのか。国芳のこんな言葉が残っている。

「芳幾は器用に任せて筆を走らせば、画に覇気なく熱血なし、芳年は覇気に富めども不器用なり、芳幾にして芳年の半分覇気あらんか、今の浮世絵師中その右に出る者なからんと」

つまり、芳幾は技術的には器用だが絵に迫力がない一方で、芳年は絵に迫力があるが技術はまだ足りない。芳幾の絵に芳年の半分の迫力があれば、当代一の絵師になれるだろうというのである。チャキチャキの江戸っ子気質だった芳年に比べて、「温和にして人とさからふことをせず」と評された芳幾。画風もそんな性格的な面が現れているようだ。

落合芳幾、安政の大地震の惨状を描いた錦絵が大ヒット

安政二年(1855)、安政の大地震によって新婚で妊娠中だった妻を亡くした芳幾。家業の編笠茶屋を手伝い、お客を吉原に送った際に地震で倒れた吉原廊内で亡くなったという。

そんな悲劇の中でも、芳幾は吉原の惨状を現地で写生し、版元を動かして直ちに三枚続きの錦絵として出版。世間の注目を浴びた。続々と殺到する注文をこなして、こうした錦絵を何種類も描き、未曾有の売上げを記録したという。歌川国芳門下の数ある弟子のなかでも芳幾が世間から認められたのはこれがきっかけだったとされている。

残念ながら一連の作品は現存が確認されていないが、大地震という非常時にお上の許可を得ずに出版したことが想定され、無落款・無署名の可能性が高い。東京大学地震研究所が所蔵する「安政二稔十月二日 夜亥朱刻大地震焼失市中騒動図」のような作品であっただろうと推測される。

安政二稔十月二日 夜亥朱刻大地震焼失市中騒動図

安政二稔十月二日 夜亥朱刻大地震焼失市中騒動図

落合芳幾、月岡芳年を足蹴にする

文久元年(1861)、2人の師匠である歌川国芳が亡くなった。この時、芳幾29歳、芳年23歳。その葬儀の席の場で、芳幾が芳年のことを足蹴にした、つまり蹴飛ばしていた。一門のなかで認められた者でなければ描けない師匠の死に絵(死去を伝えると同時に生前の業績を称えるための絵)を描いた芳幾から蹴られたというのは穏やかではない話だ。

しかし、理由はささいなことだった。葬儀の場で座っていた芳年が、人の往来の邪魔になっていたため芳幾から蹴られたという。芳幾からすれば「邪魔だ!どけ!」ぐらいの感覚だったようだが、芳年は後年まで蹴られたことを恨みに思っていた(後述)。

『英名二十八衆句』を競作

慶応二年(1866)、芳幾33歳・芳年27歳の時に2人は『英名二十八衆句』を競作している。全28枚のうち、14枚ずつをそれぞれが担当。講釈や歌舞伎で扱われる刃傷沙汰を題材にしており、ほとんどの図が凄惨な血の描写が見られる「無残絵」「血みどろ絵」の代表作。血のりを表現するためニカワを使って光沢を出したものまである。

2人の師匠である歌川国芳も生前に『鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたいのわざもの)』という「無残絵」のシリーズを描いており、『英名二十八衆句』では表現をより過激にしてその手法を踏襲している。

「鏗鏘手練鍛の名刃 福岡貢」歌川国芳

「鏗鏘手練鍛の名刃 福岡貢」歌川国芳

落合芳幾、「東京日日新聞」を発行

国芳の死後、陰影法を駆使した『俳優写真鏡』、開港した横浜の風景や外国人の風俗を描いた「横浜絵」を制作するなど新しい創作を次々と繰り出した芳幾。

明治五年(1872)には、条野採菊(日本画家、鏑木清方の父)らと「東京日日新聞」の発起人に名を連ねた。明治七年(1874)には記事を錦絵化した「東京日日新聞大錦」を描き、明治八年(1875)には「平仮名絵入新聞」(後の「東京絵入新聞」)を自ら創刊し、挿絵画家として活動している。

新聞が大いに売れて実入りがよくなり、蓄財に励む芳幾に対して、芳年は「江戸っ子の出来損ひが金をため」などと機会あるごとにけなしていたそうだ。

月岡芳年、神経病を病む

明治五年(1872)、芳幾が「東京日日新聞」を手がけた一方で、芳年は同年の年末から重度の神経病を病み、作画活動を中断せざるえなくなっていた。原因はその年に制作した渾身作『一魁随筆』が時代の好みに合わず、売れ行きが良くなかったことが影響したとも言われる。

もともと金遣いの荒い芳年が創作も滞ったため、生活の困窮ぶりは相当なものだった。借家の床板さえも燃料として使ったため、土間が露わになったという。

月岡芳年、「郵便報知新聞」の錦絵を描く

神経病から復帰して「大蘇」と名乗るようになった芳年。復帰を飾ったヒット作として明治七年(1874)に出版された六枚続きの大作「井伊閣老遭難之図」がある。

井伊大老遭難之図

井伊大老遭難之図

さらに明治八年(1875)4月から「郵便報知新聞」の錦絵を描いており、「東京日日新聞」の芳幾と新聞錦絵という媒体で競うこととなった。

「郵便報知新聞」は明治六年(1873)頃に創刊され、大隈重信の派閥にいた政治家、前島密が編集局長をつとめていた。この頃、征韓論で揺れていた政局のなかで「郵便報知新聞」は匿名の投稿の形を取ったスクープを連発して購読者を激増させていた。ここで芳年の錦絵はまさに鬼に金棒という存在だった。

月岡芳年、「絵入自由新聞」に入社

新聞に錦絵を描いていた芳年だったが、新聞挿絵の世界にはまだ抵抗があった。芳年は浮世絵制作への誇りもあってか「おいらァ幾らになったって、新聞なんか書くのは嫌だ」とも言っていたという。そんな芳年への勧誘を成功させたのが「絵入自由新聞」創刊の際に資金援助をしていた吉田健蔵だ。

吉田健蔵は板垣退助を支援していた横浜の商人。板垣退助率いる自由党の機関紙「自由新聞」の売上げが悪かったため、テコ入れ策として明治十五年(1882)に創刊されたのが「絵入自由新聞」だった。発行部数を増やすためにも人気絵師獲得は急務であり、吉田は「芳年のことは私が請け負う」と意欲を見せていた。

吉田がどのような手で芳年を説得したかは不明だが、芳年は月給40円(明治三十年当時の公務員の初任給が8~9円)、前借り2か月分の80円、人力車での送り迎えありという高条件で弟子の新井芳宗とともに「絵入自由新聞」に入社している。その頃「東京絵入新聞」を手がけていた芳幾の存在は間違いなく意識されていたであろう。

コラム:人気絵師争奪戦に巻き込まれた芳年師弟

月給40円という当時としては破格の条件からも想像がつくように、新聞が人気絵師を抱えるのは売上を左右する重要な条件だった。そんな絵師争奪戦に巻き込まれたのが月岡芳年と弟子の新井芳宗だ。

明治十七年(1884)に同じ自由党系ながら「絵入自由新聞」のライバル紙となる「自由燈」の創刊パーティーに呼ばれた芳年。その席上で大きな紙に逆さ筆で福禄寿を描き、落款も逆さのままスラスラと描いて喝采を浴びた。

しかし「自由燈」は発行前に各新聞へ「芳年が挿絵を描く」と広告を載せて発表したため、芳年が所属しているはずの「絵入自由新聞」は激怒。「芳年は他社の絵は描かない」と社告を出していた。

芳年福禄寿揮毫の図(作者不詳)

芳年福禄寿揮毫の図(作者不詳)

ところが「自由燈」第1号に刷られていたのは、落款がないものの明らかに芳年の絵。「絵入自由新聞」側は大騒ぎとなった。芳年が責任を取って「絵入自由新聞」を退社してからも、連日のように紙上に芳年を責める記事が載った。後日、改めて「自由燈」に入社した芳年だったが、「絵入自由新聞」への義理からか「自由燈」時代の挿絵には一部の例外を除き落款を使用しなかったという。

「絵入自由新聞」に1人残され、師匠をけなす新聞に所属する形になってしまった新井芳宗。しばらくのあいだ芳年の弟子たちと気まずい状態となり、芳年とも一時期疎遠になってしまった。明治十八年(1885)の晩春、芳宗は兄弟弟子である稲野年恒の仲介で芳年の家を訪問。疎遠を詫びる挨拶をすると、芳年は目に涙をためてこれに応えたという。

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月岡芳年の評価逆転

人気絵師ランキングというのは江戸時代、明治時代にも存在しており、芳幾と芳年も常に比較される存在だった。安政六年(1859)頃、慶応元年(1865)、明治元年(1868)、明治十八年(1885)に出版された絵師人気番付の史料をもとに芳幾と芳年の評価の推移を見てみよう。

『十目視所/十指々所 花王競十種咲分』安政六年(1859)頃

十目視所/十指々所 花王競十種咲分

浮世絵師十傑の名前が掲載されている史料。芳幾は「真写」つまりリアルな描写が上手い浮世絵師として選ばれている。芳年の名前はまだ載っていない。「芳」の字がついている歌川国芳門下の絵師たち、つまり芳幾・芳年にとっての兄弟子の名前が幅をきかせていることがわかる。ちなみに一立斎重宣は後の二代目歌川広重である。

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『江戸歳盛記』慶応元年(1865)

江戸歳盛記

人気浮世絵師トップ27人の名前が掲載されている史料。芳幾は第7位、芳年は第10位に選ばれており、この頃には芳年も世間に名前が売れるようになった証と言える。さらに芳幾の弟子として26位に武田幾丸、27位に木村幾年がランクインしている。

『東京歳盛記』明治元年(1868)

『東京歳盛記』明治元年

人気浮世絵師トップ29人の名前が掲載されている史料。芳幾は第3位、芳年は第4位に選ばれており、両者の人気は拮抗してきた。芳幾の弟子の幾丸が26位に、芳年の弟子の野坂年晴、中山年次がそれぞれ27位、29位にランクインしている。

『東京流行細見記』明治十八年(1885)

『東京流行細見記』

人気浮世絵師トップ23人の名前が掲載されている史料。ついに芳年が第1位となり、第3位の芳幾を逆転した。芳年の弟子として、新井芳宗(二代目歌川芳宗、新井年雪)、稲野年恒、水野年方、金木年景、小林年参の名前が連なる一方、芳幾の弟子の名前はない。

芳年の弟子である山中古洞によると、新聞錦絵や新聞挿絵で競い合うなか、芳年の描いた絵の焼き直しが目立つようになった芳幾。芳年はそれを見て「昔日の恥辱始めて晴るゝ感が深い」と語っていたことが伝わっている。師匠の葬儀の場で芳幾に蹴られたことを思い浮かべていたのだろうか。

月岡芳年の死後

芳年は、明治二十五年(1892)に脳充血でこの世を去った(享年54歳)。芳年からさんざんディスられてきた芳幾だったが、芳年の死後に髪を剃った姿で芳年の家を訪問し、遺族にお悔やみの言葉を述べたという。芳年の弟子である山中古洞から「お人好し」と評される芳幾の人柄がこのエピソードによく現れている。

まとめ

『英名二十八衆句』を競作した後、浮世絵から新聞錦絵、新聞挿絵と新たな媒体で画才を競い合った落合芳幾と月岡芳年。「浮世絵」の需要が減っていくなかで、芳幾は新聞や雑誌の創刊によって挿絵に活路を見出していった。

一方、芳年もはじめこそ「浮世絵」へのこだわりをみせていたが、芳幾が切り開いた新たな媒体への道へと進んでいくことになった。芳年は多くの優れた弟子たちを輩出してきたが、晩年には弟子たちに洋画家や日本画家など浮世絵とは別の道へと進ませることになる。

これまでみてきたエピソードは、芳年にとって芳幾は最も意識せざるをえない絵師であり、ある意味では国芳没後の恩師であったことを示すものではないだろうか。

年表

練馬区立美術館にて行われた展覧会「芳年-激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」に伴い、2018年8月11日に日野原健司氏(太田記念美術館主席学芸員)による記念講演会が行われた。そこで配付された「月岡芳年VS落合芳幾-宿命のライバル年表」をもとに月岡芳年、落合芳幾の活動を整理した年表を以下に記す。

芳年vs芳幾年表

参考資料

『明治のメディア師たち 錦絵新聞の世界』日本新聞博物館
『浮世絵誌』第17号「芳年伝備考(第二稿)」山中古洞
『浮世絵誌』第27号「芳年伝備考(第九稿)」山中古洞
『浮世絵誌』第28号「芳年伝備考(第十稿)」山中古洞
『浮世絵誌』第29号「芳年伝備考(第十一稿)」山中古洞
『浮世絵誌』第30号「芳年伝備考(第十二稿)」山中古洞
『浮世絵誌』第32号「芳年伝備考(第十四稿)」山中古洞
『錦絵』第24号「側面から観た亀戸豊国(上)」樋口二葉
『錦絵』第29号「芳年常に芳幾を罵倒す」麦斎
『日本及日本人』701号「落合芳幾 《明治の錦絵》」 仲小路靄軒
『京都造形芸術大学紀要[GENESIS]』第20号「浮世絵師・落合芳幾に関する基礎的研究」菅原真弓
「月岡芳年VS落合芳幾-宿命のライバル年表」日野原健司
東京都立図書館アーカイブ
国会図書館デジタルコレクション
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