歌川派系図でおさえておきたい浮世絵師たち

浮世絵界最大派閥である歌川派。そんな歌川派の絵師たちがまとめられた系図が「浮世絵師歌川列伝」という本のなかで紹介されていました。そのなかでも最低限おさえておきたい絵師たちをご紹介。

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歌川派とは?

浮世絵界の最大派閥。西洋の銅版画から遠近法を取り入れた江戸中期の浮世絵師、歌川豊春を祖とする。江戸後期には、対抗しうる絵師が葛飾北斎など数えるほどしかいないほど、歌川派が浮世絵界を席巻。多くの絵師を輩出している。

歌川派系図

飯島虚心が著した「浮世絵師歌川列伝三巻」と「浮世絵師歌川雑記一巻」を、玉林晴朗が校訂し、昭和十六年(1941)にまとめた「浮世絵師歌川列伝」のなかで歌川派系図が掲載されている。

これでもなお省略されている絵師はたくさん。そんな大勢いる歌川派のなかでも最低限おさえるべき浮世絵師たちを以下でご紹介。

歌川派の浮世絵師(初期)

歌川派が浮世絵界を席巻するにいたる基盤を築き上げた江戸中期に活躍した浮世絵師3人。

歌川豊春

歌川派の祖。数え年で80歳という長寿の生涯で、西洋の銅版画で遠近法を学び、作画活動後半には優れた肉筆画を数多く残した。役者絵を得意とする歌川豊国、風景画や美人画に長けた歌川豊広など歌川派を発展させる個性豊かな弟子を輩出している。号は一龍斎、潜龍斎、松爾楼。

歌川豊国

14、5歳で豊春の元に弟子入り。『役者舞台之姿絵』に代表されるように役者絵を得意とし、初代国貞や国芳など「国」の一字を与えた、すぐれた門人を多く輩出している。死後に描かれる「死絵」として、国貞が描いた豊国の肖像画が残っている(画像は『戯作六家撰』の写し)。号は一陽斎。

歌川豊広

歌川豊国と並ぶ豊春門下の代表的な絵師。豊国とは『両画十二候』で合作を果たしている。たおやかな美人画、的確な背景描写に定評があり、その才は弟子の広重に引き継がれていく事になる。号は一柳斎。辞世の句は「死んでゆく 地獄の沙汰はともかくも あとの始末は金次第なり」。

歌川派の浮世絵師(中期)

嘉永六年(1853)に『江戸寿那古細撰記』において「豊国にかほ(似顔絵)、国芳むしや(武者絵)、広重めいしよ(名所絵)」と記された江戸時代後期に活躍した浮世絵師の三羽烏。

歌川広重

『東海道五十三次(東海道五拾三次)』に代表される「名所絵」を得意とした浮世絵師。17歳で師匠の歌川豊広から「広」の一字を受けて広重の名を与えられる。豊国門下の国貞とも交流があり『双筆五十三次』では共作をしている(画像も国貞が描いた広重の「死絵」)。号は一遊斎、一幽斎の後、絵師を専業としてからは一立斎とした。辞世の句「東路へ 筆をのこして 旅の空 にしのみくにの 名どころを見ん」。

歌川国貞

江戸本所五ツ目の渡船場の株を持つ裕福な家庭に育つ。10代なかばで歌川豊国に弟子入り。20代前半には美人画、役者絵、挿絵で人気絵師の仲間入りを果たす。後に師匠の名を継ぎ、三代豊国となる。五雲亭貞秀、豊原国周といったすぐれた門人たちを輩出。辞世の歌は「一向に 弥陀へまかせし 気の安さ 只何事も 南無阿弥陀仏」「命毛の切れて ことしの別れかな」。号は、五渡亭、香蝶楼、一雄斎の他、大津絵を初めて描いた伝説上の人物、浮世又平の名前をもじった不器用又平、婦喜用又平などがある。画像は義理の息子、国政(二世国貞)による死絵。

歌川国芳

15歳で豊国に入門、19歳で錦絵デビューを果たす。兄弟子の国貞と違い、長く売れない時期を過ごしたが『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』で武者絵の絵師としてブレイク。多くのジャンルを手がけており、特に戯画は現代にも通じるユーモアがある。江戸っ子気質の人柄もあってか数多くの門人をかかえ、落合芳幾、月岡芳年などの絵師を輩出。兄弟子の国貞とは相容れない好敵手の関係だった。号は一勇斎、彩芳舎、朝桜楼などがある。無類の猫好き。画像は弟子の落合芳幾が描いた死絵。

解説
大津絵:滋賀県大津市で江戸時代初期からお土産用に描かれた民族絵画。決まった画題に人間関係や社会に対する教訓を風刺を交えた歌が添えられる。画題は仏画の他、鬼が僧衣をまとった「鬼の寒念仏」や黒い着物に藤の花を持った「藤娘」などがある。
コラム:玄冶店派と亀戸派
玄冶店(げんやだな)は江戸初期の幕府医師、岡本玄冶の屋敷跡があったことから名付けられた地名。現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目あたりで、歌川国芳が住んでいた。つまり玄冶店派とは歌川国芳一門のこと。

玄冶店派同様、亀戸は歌川国貞が住んでいたことから、亀戸派とは歌川国貞一門のことを指す。歌川国貞が三代歌川豊国を襲名した際、自ら豊国の二代目を名乗ったことから本来の二代豊国と区別するために「亀戸豊国」とも呼ばれた(ちなみに本来の二代目は本郷に住んでいたことから「本郷豊国」と呼ばれる)。

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歌川派の浮世絵師(後期)

江戸の世から明治へと変わっていくなかで変化を余儀なくされた浮世絵師。そのなかでもたくましく生き残って活躍した浮世絵師を代表して4人。

落合芳幾

歌川国芳の弟子。身重の妻を失った安政江戸大地震の惨状を描いた錦絵で人気を博す。7歳下の弟弟子である月岡芳年との競作『英名二十八衆句』で描いた「血みどろ絵」でも知られる。役者絵に西洋の陰影表現を加えるなど新たな表現を模索。明治に入ると交遊のあった山々亭有人らと『東京日日新聞』、後に『東京絵入新聞』を創刊し、実際に起きた事件を題材にした「新聞錦絵」の先駆者となった。号は一蕙斎、朝霞楼、晒落斎などがある。

月岡芳年

歌川国芳の弟子。『英名二十八衆句』に代表される「血みどろ絵」、西洋風の写実表現を捉えた『月百姿』で知られる。いっとき神経を病むも、回復してからは「大蘇」と号し、菊池容斎の『前賢故実』を意識した歴史画シリーズや新聞錦絵など画域を広げていった。号は復帰後に用いた大蘇の他、一魁斎、玉桜楼、最晩年には咀華亭、子英がある。性格は江戸っ子気質そのもので、水野年方をはじめ多くの門人を輩出。兄弟子の落合芳幾との長年に渡るライバル関係などは師匠の国芳と国貞の関係を思わせる。

河鍋暁斎

数え年7歳で国芳に入門。その後、父親によって国芳門下から引かされて狩野派の絵師に弟子入り。幕末期には狂斎の名で錦絵や風刺絵で人気を博す。国芳に学んだ実物からの描写、狩野派の構成力を生かして従来の画題から文明開化を遂げた世まであらゆる事物を描いた。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルを弟子にするなど外国人との交流も盛ん。無類の酒好きで酒席の失敗エピソードも多く残されている。絵を描くきっかけにもなった蛙が大好きで、墓石も蛙の形をした自然石が使われている。

豊原国周

歌川国貞(三世豊国)に10代なかばで弟子入り。明治になって激変する社会情勢のなかでも、役者大首絵シリーズを刊行するなど国貞から受け継いだ従来のスタイルにこだわり、自身の画風を発展させた。結婚40数回、酒癖の悪さや金遣いの荒さ、引っ越し117回(自称)など奇行も数多く伝えられる。河鍋暁斎とはケンカするたびに仲直りし、交流を深めた。

昭和・平成へと続く芳年門下

月岡芳年が輩出した多くの弟子のなかで水野年方は、美人画・歴史画を手がける浮世絵師でありながら、岡倉天心、横山大観、菱田春草らと新しい日本画を模索する日本画家でもあった。

年方の弟子には鏑木清方、鏑木清方の弟子には伊藤深水と美人画を得意とする系図が続いていく(ちなみに伊藤深水の娘は女優の朝丘雪路)。伊藤深水が輩出した弟子たちのなかには白鳥映雪など平成まで生きて活躍した画家がいる。

まとめ

これまで紹介してきた浮世絵師たちで系図を作ると以下の通り。こうしてみると、同じ歌川派でもそれぞれに特徴があり、同時代に生きた絵師たちがお互いを意識しながら腕を競った様子が想像される。

参考資料

「浮世絵師・落合芳幾に関する基礎的研究」菅原真弓
『浮世絵芸術』13号「国貞と国芳について」林美一
『明治のメディア師たち -錦絵新聞の世界-』日本新聞博物館

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