北野恒富 -悪魔派と呼ばれた大阪画壇の巨匠-

東京国立近代美術館、大阪歴史博物館で開催の「あやしい絵展」で出展された以下の3作品。画風はそれぞれ違うが、いずれも同じ画家が描いている。

朝のクラブ歯磨
朝のクラブ歯磨ポスター(大正二年)
道行(朝露)
道行(朝露)※部分(大正二年)
淀君
淀君(大正九年)
その名は北野恒富。大坂画壇を代表する日本画家である。今回は「悪魔派」とも呼ばれた北野恒富と画風の変遷について時代を追ってご紹介。

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生い立ち

明治十三年(1880)の5月5日、北野恒富は石川県金沢市に加賀藩士族の三男として生まれる。本名は富太郎。小学校卒業後、版下業者の西田助太郎に入門。板刻の技術を学びながら、下宿先の住職から漢学や南画を学んだという。以後、職場を転々と変えながら余暇に琳派を学び、人物画を独学した。

版下絵の彫刻師として仕事をしていた恒富最初の転機は17歳で大阪に出てから。北国新聞で新聞挿絵の板刻をしながら挿絵の研究をしていた恒富に彫刻師の中山駒太郎が「画家ハ都会ニアラネバ面白カラズ」と勧めたのがきっかけだった。大阪に移住した翌年、ついに月岡芳年四天王の一人、稲野年恒の門下となった。恒富自身は師・年恒について後に以下のようにそっけなく語っている。

殆ど師匠について習つたことは一年半か二年位で、後は自分が第二の師匠で独り勉強をやつたやうなことです(中略)年恒といふ人も絵の話はやらないで、政治が好きで政治の話ばかしやつてゐました。明治の一番苦しい時の画家ですからね。友達に軍人の偉い人が居りまして、日曜日なんかよく大尉とか、少佐とかと言つた連中と、いろんな話をして遊んで居りましたので、私もよく話を聞かされました。絵はあまり習つたことはありません。そのうち胃癌かでなくなりました。―『美術と趣味』創刊号より

しかし、大師匠である月岡芳年がよくマネていたことでも知られる、菊池容斎の『前賢故実』を恒富も所有していた。芳年の弟子である水野年方は弟子の指導に『前賢故実』を使用していたとの鏑木清方の証言もあり、芳年-年恒-恒富の画系をうかがい知る資料となっている。

北野恒富関連画系図
北野恒富関連画系図

明治三十一年(1898)、恒富の兄弟子にあたる槇岡恒房が神戸新聞の挿絵画家となると、恒富は助手として共に神戸へ。神戸でも板刻の仕事を続けていたが、翌年19歳で「奮然意ヲ決シ彫刻用道具を橋上ヨリナゲ捨」版下絵を描く画業に専念したという。

美術展入賞、人気画家へ

明治三十四年(1901)、恒富は21歳で藤村歌と結婚。次の年に長男顕雄(後の日本画家・北野以悦)が誕生する。また「大阪新報」に入社して新聞挿絵画家の仕事に就いた。この頃には洋画や着彩の研究を始めており、後(明治四十四年(1911))にアール・ヌーヴォーの旗手であるアルフォンス・ミュシャに影響を受けたポスターの仕事を残している(下図参照)。

神戸湊川貿易製産品共進会ポスター(印刷博物館蔵)
四芸術のうち「ダンス」(アルフォンス・ミュシャ)
類似が指摘されるミュシャの『ダンス』(堺市蔵ドイコレクション)

恒富は師匠・稲野年恒の死後(明治四十年(1907))、本格的に日本画家への転向を決意したと考えられている。新聞挿絵、ポスターなど「商業美術」と呼ばれる一段低く見られていた仕事をこなすかたわら、日本画制作を行い展覧会への出品を試み受賞を重ねていった。

出品年 出品展覧会 出品作
明治三七年(1904)? 大阪天王寺博覧会 『揚雲雀(あげひばり)』(三等一席)
明治四三年(1910) 第四回文展 『すだく虫』(文展初入選)
明治四四年(1911) 第十一回巽画会 『賃仕事』(三等銅賞)
明治四四年(1911) 全国百家絵画展覧会 『浴衣の女』
明治四四年(1911) 第五回文展 『日照雨(そばえ)』(三等賞)

なかでも第五回文部省美術展覧会(文展)で三等賞を受賞した『日照雨』は、浮世絵に通じる画題、洋画研究で培われた肉感伝わる体の描線、当時まだ新しい素材で作られた粒子の荒い岩絵具が話題となり、一躍人気画家となった。

日本画制作とともに恒富が進めたのが、大阪画壇の組織化だった。明治三十六年(1903)に大阪絵画春秋会、大正元年(1912)には大正美術会に創立の中心メンバーとして参加している。後に大坂画壇のリーダーと目されるようになるのは、こういった組織化の動きと無縁ではないだろう。

「画壇の悪魔派」の台頭

大正二年(1913)、第七回文展に近松門左衛門の「心中天の網島」を題材にした『朝露』(冒頭であげた『道行』と同定される作品)を出品するも落選。心中物を忌避する文展の審査基準に嫌気がさした恒富は、私淑する横山大観らが再興した日本美術院の院展に参加する。翌年の第一回再興院展に『願いの糸』を出品した。

同年には画塾・白耀社を設立。白耀社の門下生の約四割は女性だったと言われ、「雪月花星」と称された星加雪乃・別役月乃・橋本花乃(城田花乃)・四夷星乃をはじめとする多くの女性画家を輩出している。恒富は白耀社設立以前にも島成園と交流を持ち、吉岡千種(木谷千種)に師事されていたように大阪画壇において女性画家の育成に一役買っていた。

また「商業美術」でも才能を開花させていた。大正初年は美人画ポスターが全盛を極め、恒富も冒頭で紹介した『朝のクラブ歯磨』や三越呉服店が行った第二回広告画図案懸賞で一等に選ばれた『サクラビール』などを手がけた。恒富が画壇の悪魔派と呼ばれたのはこの頃と言われる。

コラム:北野恒富を悪魔派と呼んだのは誰か?

恒富が悪魔派と呼ばれた記録は、恒富が自身を取り上げた記事をスクラップした『夜雨草堂』のなかに収録されていた。「小さき魔の子」というペンネームで大正七年(1918)に寄稿された「北野恒富さんに物申さん」という記事の中で、こう語られている。

文壇に悪魔派といふのがありますね、デカダンな生活をつゞけて、人生の奥底から何物かをつかみ来る様な人たちとでも言ひますかね、既に文壇に悪魔派あり、画壇また悪魔派なきを得んやといふたかどうかは知らず、京都画壇のある人たちは、あなたに対して画壇の悪魔派をもつて呼ばうとして居るやうな時代もあつたことです。京都の西山翠嶂(引用者注:日本画家、竹内栖鳳の女婿)君の遊蕩振に、幾分、悪魔派らしい臭味もあるが、大阪の北野恒富君の方が、更に徹底した意味の悪魔派らしいとは、京都画壇の若い人たちの呼声であつたりしました。あなたの描かれる女の絵に、廃頽の気分がほのめいて居たのは事実です

この記事から「悪魔派」と呼んでいたのは京都画壇だったことがうかがえる。寄稿者自身は「悪魔派」と呼ばれていた頃の恒富を高く評価していた。しかし、記事の続きで恒富が日本美術院の一員となり、「院派」の「画風に同化」したとの批判で終わっている。そんな批判記事までもスクラップして取ってある恒富の胆力に驚かされる。

「美人画室批判」の矢面に

暖か(滋賀県近代美術館蔵)
暖か(滋賀県近代美術館蔵)

大正四年(1915)に恒富は「赤と黒との印象」を描いた作品として、赤の『暖か』と黒の『鏡の前』で構成される対幅を制作。前者を第九回文展、後者を第二回再興院展に出品した。

第九回文展では画題ごとに分けた展示室が設けられた。この分離展示は第三室が「美人画室」と呼ばれて人気を博す一方、文展を「俗化」させたとの批判を受ける。なかでも恒富の『暖か』は褒状を受賞するも「美人画室」への賛否両論のやり玉に挙がった。

「賛」の評論として、東京美術学校で美術史の教鞭をとり、後に京都大学教授となる沢村専太郎(沢村胡夷)は「熾烈なる色彩を用いて一婦人を図したるものにて、官能的たる一面よりして、美意識を動かし行かんとするもののごとし。殊にこの種の画に於ける色彩と線条との官能的処理は、今日に初まれる事にあらずして、既に徳川期の風俗画に於ける常套の手段たりしもの、北野氏はこれに着眼して、これをいっそう実写的となしたるなり。」と評価。

美術評論家の春山武松は「「暖か」は外形的に肉体描写に成功して居る即ちデツサンが確かであること以外に、内面的に肉感性を芸術化して居る。(中略)何物か新らしいものを着想し得る芸術家であつて、非難の声を以て其試みを阻害すべきではないと思ふ」と批判に対して擁護した。

一方、「否」の評論としては、画家で美術評論家でもある石井柏亭が「夢二与平趣味とも連絡のある広告絵風(石版刷りの、呉服屋などの)の顔と赤い長襦袢とは甚だ挑発的である。(中略)画品と云ふ方面から見るときは卑俗なものと曰はねばなるまい」と述べている。

また、ポスター原画や絵ハガキで「商業美術」に同じく関わっていた鏑木清方でさえも「恒富君は大阪方の大将で、大阪情調を思ひのまゝに発揮して居ること例の如く、今回の出品も流石に大将の権威を持つて居る」と評価しつつも、「たゞ気になるのは、石版のびら絵に所謂恒富式の多数の作品を作つたことが、普通の制作の上に嬉しからぬ影響を与へて居るやうに思はれることである。(中略)顔の仕上げ、殊に鼻の陰の隈などは自分には嬉しく思はない」と、いずれも石版ポスターで描く美人画からの影響に批判的だった。鑑賞者に視線を向け、しどけない姿を見せる花柳界の女性を描くことが文展という政府主催の展覧会の場では風紀上不適当とされたと思われる。

結局『暖か』は、恒富が文展に出品した最後の作となった。文展側は「美人画室」の批判を恐れたのか、翌年の第十回では「美人画征伐」と呼ばれる美人画大量落選へと発展していく。恒富自身は出品していないものの、恒富に関わりの深い大阪画壇はほぼ落選となった。恒富は第十回文展の入選発表前に腸閉塞を患うも快方に向かっていたが、入選を確信していた島成園の出品作『燈籠流し』が落選したのを聞いて落胆し、二週間ほど寝込んだと伝えられている(『中央美術』)。

参考:島成園『燈籠流し』(Eミュージアム大阪)

報知新聞では「美人画の征伐には京都の審査員が総懸りで行つたものらしく恒富式のものは実際一歩を誤ると広告ビラだから実際今迄が危険な剣の刃渡りをして来たもの」との噂が報じられた。「美人画征伐」は、風紀問題に加えて恒富を「悪魔派」と呼んでいた京都画壇の思惑が大きく作用したのではないかとする節がある。京都画壇の重鎮で審査にもあたった竹内栖鳳は次のような談話を残しており、大阪画壇からの出品画の多くは「恒富の模倣」と捉えられたようだ。

(前略)画風の上にも奇抜なものはあつたが孰(いずれ)も前に他の人が行つたことのあるもので新に独創から出来たものは無く、大阪の出品が非常に多くなつたのと美人画の多いのも目に着いたが美人画のうちには大分落選したものがあつた。女流作家が多く落選したのは畢竟女流作家は皆美人画を描いたのでその落選美人画のうちに含まれてゐたのである又大阪の出品には恒富式の画風を模倣したものが大分あつた -『報知新聞』「辛かつた日本画鑑別」より

美人画の殻をやぶり精神主義へ

北野恒富(大正六年)
北野恒富(大正六年)

恒富は美術院同人に推挙された大正六年(1914)、「内面の充実」を掲げた了々会を結成。さらに翌年には画家・批評家・支援者の三者連合を意図した大阪茶話会を結成する。

この頃の恒富は茶話会や大阪美術展覧会(大展)に実験的な作品を送り出すとともに、古画や浮世絵を積極的に学び、洋画の写実表現を離れて造型的な作風へと一変した。大正九年(1920)には、冒頭で挙げた『淀君』を第七回再興院展に出品。象徴主義とも精神主義ともいえる恒富芸術がひとつの結実を見ることになる。

絵に対する考えを作風とともに変化させてきた恒富だが、美人画についての考えは大正後期以降の変化する作風にも通底するものが感じられるので以下に紹介する。

実際をいふと、今日ではもう所謂美人画が飽かれてしまつた。それが亦当然過ぎるほど当然なわけである。少くとも画でも鑑賞しようといふほどの人は、大丸や高島屋のシヨウウヰンドに飾られた細工人形のやうな美人を美人として見るやうな幼稚さではない事を知らねばならぬ。現代人の有つてゐる美人といふ標準は、決して色で仕上げた有平糖のやうな美しい女ではなくて、健やかな肉体から、生き生きとした精神のいきりが沁み出してゐるやうな女性である。随つて目鼻立ちが少々何うあらうと、髪の生際が如何であらうと、そんな事に殆ど頓着がないと云つてよい。故に現代人の欣求してゐる美人画—女の画は、もウ所謂美人画といふ型を認めてゐない画そのものゝ持つ内容、内部生命にある事は云ふまでもない。
-「『美人画』といふ呼称」より ※大正十三年(1924)

まさにショーウィンドーに飾るポスターの原画など「商業美術」で日々社会の需要と関わっていた恒富は、美人画への需要の変化にいち早く気付いていたのかもしれない。恒富の美人画ポスターの仕事は昭和初期まで確認されているが、明治末から大正前期のくっきりした線・陰影から、淡い色調を施した情緒のある美人画へと変化していることがうかがえる。

浪花情緒への到達

戯れ ※部分(東京国立近代美術館にて撮影)
戯れ ※部分(東京国立近代美術館にて撮影)

昭和に入ってからの恒富はさらに作風を変化させる。現代風俗を題材にとることが増えていった。昭和四年(1929)の第十六回再興院展には清新な緑が印象深い『戯れ』を出品。カメラのファインダーをのぞきこむ舞妓が描かれた作は好評を得た。帯に描かれた平安期の王朝人物柄は、1930年代に台頭する小林古径・安田靫彦・松岡映丘らが当時取り組んでいた新古典主義を思わせる。

昭和十年代になると、恒富はより大阪に根差した現代風俗を描くようになる。特に大阪・船場の旧家の風情を題材にとることが多く、その代表作と言われるのが、昭和十一年(1936)に改組第一回帝展に出品された『いとさんこいさん』である。「いとさん」は良家の子女、「こいさん」は末娘を指す船場の言葉。姉妹とおぼしき着物姿の女性二人が描かれた本作は、大阪女性の生き生きとした姿をよく捉えている。

参考:北野恒富『いとさんこいさん』(京都市京セラ美術館)

まとめ

鏑木清方が卑俗とみられていた美人画の品格を高め、地位向上をはかったと言われる一方、恒富は画風の変遷を通じて、美人画自体の枠を解体し、再定義したと指摘されている。

これには大阪という商業都市で、恒富が人々の注目を向けさせるポスター原画を多く手がけるなか、肌で人々が希求するものに触れていたこと、参加した各絵画団体で画壇の潮流に触れていたこと、この両面で多くのことを吸収できる立場にあったのが大きいだろう。

さらに第九回文展の「美人画室」批判の声は、洋画研究で写実表現に傾倒していた恒富に対して「美人画とは何か」あるいは「描きたい女性とは何か」という課題を自らに問い続ける契機になったのではないだろうか。

北野恒富は昭和二十二年(1947)心臓麻痺により67歳で急逝する。恒富なら戦後の女性をどう描いただろうか。夢想するしかないのが残念でならない。

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参考資料

『近代画説:明治美術学会誌』27「美人画室再考 : 美人画家の評価と表現 (特集 「奉祝」から「報国」の時代)」中野慎之(2018年)
『没後70年 北野恒富展』図録(2017年)あべのハルカス美術館
「北野恒富ルネッサンス―”浪花情緒”の”美人画家”という伝説」橋爪節也
「北野恒富と岩絵具の新表現」荒井経
「ポスター画家恒富と大阪印刷界」田島奈都子
「「美人画」からの脱出-北野恒富の言葉と筆あと」川西由里
『美人のつくりかた 石版から始まる広告ポスター』図録(2007年)印刷博物館
『北野恒富展』図録(2003年)東京ステーションギャラリー
『芸術学研究』第7号「中間評価論文梗概 第九回文展の第三室(美人画室)についての考察」伊藤たまき(2003年)
『文展・帝展・新文展・日展 全出品目録 明治四十年-昭和三十二年』日展史編纂委員会編(1990年)
『大正ニュース事典』第2巻[大正4年-大正5年](1986年)
『現代日本美人画全集 第3巻 北野恒富/中村大三郎』「北野恒富」馬場京子(1979年)
『美術と趣味』創刊号 福田平八郎・中村大三郎・北野恒富・矢野橋村・中村貞以・白川朋吉・高山辰三「日本画家ばかりの座談会 趣味その他を語る」(1936年)
『大毎美術』第十六号「『美人画』といふ呼称」北野恒富(1924年)
『絵画清談』第五巻十月号「北野恒富画伯小伝」(1917年)
『美術新報』第十六巻第一号「土田麦僊『三人の舞妓』附北野恒富「暖か」の事」春山武松(1916年)
『中央美術』第二巻第十一号「文展ゴシップ」(1916年)
『報知新聞』大正五年十月十二日「辛かつた日本画鑑別」(1916年)
『報知新聞』大正五年十月十三日「美人画征伐=噂の聞書」(1916年)
『浪華摘英』浪華摘英編纂事務所編(1915年)
『太陽』21-13「文展の日本画」石井柏亭(1915年)
『鏑木清方文集』七巻154-155頁(1915年)