浮世絵師の生活は昼型?夜型?証言で迫る浮世絵師の一日:尾形月耕編

浮世絵師は普段どんな生活を送っていたのだろうか。幕末・明治期に活躍した浮世絵師たちには、暮らしぶりがうかがえる証言が多く残されている。3回連続シリーズとして、浮世絵師の一日を関係者の証言から迫ってみることにした。今回は尾形月耕について取り上げる。

スポンサードリンク

尾形月耕とは

尾形月耕肖像
尾形月耕

尾形月耕は、安政6年9月15日(1859年10月10日)、江戸京橋弥左衛門町(現在の中央区銀座四丁目2・3番)の名鏡家に生まれる。本名は名鏡正之助。提灯屋を営みながら独学で絵を学び、十代で錦絵を自費出版。その後、ボール表紙本や新聞の挿絵を描き、人気絵師の仲間入りを果たす。錦絵の代表作は『花美人名所合』『美人名所合』『月耕随筆』など。日本画も手掛け、数多くの美術展に出品して受賞を重ねた。「耕」の一字を与えた多くの弟子を輩出する。

尾形月耕
美人名所合 墨田河百花園七草
美人名所合 墨田河百花園七草

尾形月耕の一日

尾形月耕の一日の過ごし方は、篠田鑛造の聞き書き百話シリーズのひとつ『明治百話』で具体的に書かれている。内容は月耕が桶町(現在の中央区八重洲2丁目)に居住していた頃の内弟子が当時を述懐したもの。このときの月耕は人気絵師となり、新聞挿絵や錦絵の版下絵などを手がけ、多くの弟子がいた。少し長いがそのまま抜粋する。

まず朝起出ると、起抜けに朝湯へきます。その間に画室から、すべてを綺麗清洒さっぱりに掃除して置かないといけません。横物よこのものをタテにしてもいけません。そのまま掃て拭いて、キチンとして置かないと叱られます。玄関の格子戸まで、拭掃除をして置かないと気に入りません。アレがいいンです。ああして置くのが本統ですが、なか/\そうはいかない。昔の子弟の間柄は、ソコまで徹底しかくってはいけない。芸妓げいしゃ屋の下地したじッ子のように、内弟子となったら格子戸まで一々拭いて磨きをかけて、先生をキレイサッパリの心持にさせたものです。これも修業の一ヶ条に繰り込まれてあったものです。

かれこれする内、朝湯帰りの師は、綺麗清洒さっぱりした体で、まず神仏へ御灯明御神酒を供え、香花を手向て、礼拝を怠らず、なか/\信仰家であったから、コノ礼拝は一日だって欠かしたことがない。こうしたことは我々を感心させたもので、なか/\真似ようたって真似られないものです。ああした信仰、ああした一心から、月耕師のは、ああした神経を伝えているとしか思われません。日中は絵画に従事し、ソレはまた一生懸命なものでした。傍目わきめも触らないとは、アノことでしょう。ソコで弟子達は魂づけられ、いろ/\教訓を受けたものです。

こうして昼間絵を描いてしまい、夜になると、また銭湯へ一風呂あびに出懸け、帰宅してから御膳につきましたが、御酒と来たら大好物で、三度々々欠かさない。大酒でないが朝膳からで、朝一合、御神酒と一所です。昼の御飯時にもまた一合、晩酌はお極りでした。コレも判で押したようにキチョウメンな方で、欠かしたことなく欠かさない。元来提灯屋から、ああした大家になった画工、一代絵として描かない絵はないと言っていましたが、かの明治の初年の、輸出の人力車は、うしろに極彩色密画が描いてあったもので、人物と花鳥が描いてあったアノ人力車の絵もかいたくらいでした。いわゆる職人上りで、江戸ッ子のチャキ/\だから、交際つきあいに職人仲間も多かったものです。

ソレから夜に入ると、きつと銀座の金沢亭です。コレも定連で、雨が降ろうが、風が吹こうが、欠かさず出懸ける面白い人でした。職人仲間に交際つきあいが多く、絵画の大家になっても、人を見下すことがない、権式振らないから、昔の仲間がよくやって来ます。湯帰りの手拭いを肩にして「しょうさん在宅うちかエ」といってよく遊びに来ていました。江戸ッ子だから気前はとてもよい人でした〟

―『明治百話』「江戸ッ子の尾形月耕」より

規則正しい昼型人間

証言をもとに、尾形月耕の一日のタイムスケジュールを想像して表にすると以下の通り。

尾形月耕のタイムスケジュール(想像)
尾形月耕のタイムスケジュール(想像)

食事時間に関する具体的記述はないが、江戸っ子である月耕は「せっかちで早飯」と仮定して、昼休憩をはさむ昼食以外は30分程度としている。

起きぬけに朝湯に出かけ、そのあいだに内弟子は家の掃除を済ませる。「月耕」の名を授かったのは、8年間欠かさず参詣していたという虎ノ門 金刀比羅宮の宮司からであり、朝湯帰りの礼拝は月耕にとって大きな意味を持っていたようだ。

制作の仕事は日中に行っていたようで、規則正しい生活。自分の仕事が片付いたら、弟子の指導も行っていたことだろう。現代から見て一番奇異に見える点は、三度の食事で毎回お酒を飲んでいることだろうか。「キチョウメン」と評される通り、銭湯や礼拝も含めて自分のなかで決まった日課をキッチリとこなす日常が垣間見れる。

銀座金沢亭

月耕が通ったという金沢亭は「大圓朝」こと落語家の初代三遊亭圓朝がよく高座に立っていた銀座の寄席「金沢亭」のこと。下の画像は明治35年(1902)当時の銀座附近の地図から抜粋したもの。

東京京橋区銀座附近戸別一覧図より抜粋
東京京橋区銀座附近戸別一覧図より抜粋

金沢亭の入口左隣は「白湯」という銭湯。この銭湯は圓朝が高座に立っているあいだは閉まっていた。当時の銭湯では客が大きな声で唄うため、音が反響して噺の邪魔になる。そこで金沢亭が午後8時から9時までのあいだの銭湯ごと買い切って、湯の客を入れないようにしたのである。買い切っても元が取れるほど圓朝人気は絶大だった。300人の席が圓朝のときは詰めに詰めて500、600人にも上ったという。

明治から昭和にかけての日本画家、鏑木清方は仲入り(休憩)に入った金沢亭を描いており、銭湯買い切りの逸話とともに当時のにぎわいがうかがえる。

鏑木清方「銀座金沢亭」
鏑木清方「銀座金沢亭」

ちなみに金沢亭の跡地は現在、隣にあった銭湯などを含めた一区画に「コナミクリエイティブセンター銀座」が建っている。この施設は2020年にeスポーツの新たな拠点としてオープンした。同じ場所で時代時代のエンターテイメントの発信基地となっているのは不思議な巡り合わせだ。

コナミクリエイティブセンター銀座
コナミクリエイティブセンター銀座
金沢亭入口跡地
金沢亭入口跡地

まとめ

今回引用した『明治百話』によると「江戸ッ子にもだらしのないのを形気かたぎとしている人と、ヒラキチョウメンの人と両通ふたとおりあったようです」と語られている。月耕より前の世代、江戸後期の浮世絵師である歌川国貞(三代歌川豊国)も『浮世絵師 歌川列伝』のなかで「人となり温順にして、且謹慎なり」と評されており、「ヒラキチョウメン」だった月耕と暮らしぶりは似ていたのではないかと想像するがどうだろうか。

次回は河鍋暁斎について取り上げる。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
よろしければ応援クリックをお願いします!
にほんブログ村 美術ブログ いろいろな美術・アートへ
にほんブログ村

参考資料

『東京京橋區銀座附近戸別一覧図』勇美堂石版印刷所発行(1902)
『錦絵』第36号「亡父尾形月耕(上)」尾形月山(1921)
『Bien 美庵』Vol.34 忘れられた明治の画家を再評価せよ!!(2005)
『Bien 美庵』Vol.45 尾形月耕とその一門(2007)
『尾形月耕展 ―花と美人と歴史浪漫―』那珂川馬頭広重美術館編(2018)

尾形月耕