月岡芳年と芳年四天王をめぐる逸話

明治期に活躍した浮世絵師・月岡芳年には四天王と呼ばれる高名な弟子がいた。今回は時代を下るにつれて浮世絵が衰微していく端境期に活躍した芳年四天王(水野年方・右田年英・稲野年恒・山崎年信)を逸話を交えてご紹介。

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水野年方(みずのとしかた)

略歴

水野年方
水野年方

慶応二年(1866)左官の棟梁・野中吉五郎の息子として神田に生まれる。14歳で月岡芳年に入門するも、芳年の素行が悪かったため、翌年には父親に引き戻される。その後、山田柳塘(やまだりゅうとう)に陶器画を学ぶが、明治十五、六年(1882、83)頃、再び芳年に入門。歴史画などの錦絵、やまと新聞等の新聞挿絵を手がける。

三十六佳撰 樽人形 延宝頃婦人
三十六佳撰 樽人形 延宝頃婦人

柴田芳洲(しばたほうしゅう)から南画、渡辺省亭(わたなべせいてい)から日本画の手ほどきも受けている。明治十九年(1886)頃、姓を水野姓に改める(徴兵逃れのためとも言われる)。明治二十五年(1892)、師匠・芳年の死後は多くの兄弟子がいたにも関わらず、芳年一門を率いる後継者となる。

日清戦争勃発後は戦争画を多く手がけ、明治三十年(1897)頃以降、肉筆の日本画制作に力を入れるようになり、日本美術協会、日本美術院などのさまざまな展覧会に出品を行うようになる。門人には鏑木清方、池田蕉園(旧姓:榊原)、池田輝方など美人画の名手が並ぶ。明治四十一年(1908)4月7日、過労により43歳の若さで亡くなる。

生真面目で力持ち

年方には特に趣味らしい趣味がなく、唯一の道楽は絵の参考にするための武具集めだった。

歴史画に熱心な先生は、したがって武具、甲冑(かっちゅう)に興味が深く、家名は忘れたが、京橋弥左衛門町か、佐柄木町かの東側に在った武具屋から腹巻だの、籠手(こて)脛当(すねあて)やら買い込まれるのが、参考品とは云え、唯一の道楽でもあったのだろう。

―『こしかたの記』より

また生真面目な性格から絵の依頼を断ることができなかったといい、これが死因となる過労につながったのではと思わせるところがある。しかし早世したイメージと異なり、年方はかなりの腕力の持ち主だったらしく、師の月岡芳年は年方について「火消梯子の両足を左右に執ってぐっとその頭の方を持ち上げ得た」とよく語っていたという。

月岡芳年にしごかれる日々

若い頃の年方は美青年で当時の人気俳優、市川権十郎に似ていたという。同じく月岡芳年門下の新井芳宗(年雪)も美青年として知られていた。師の芳年は、父の代から見知っていた芳宗を本名の周次郎から「周坊」と呼んで寵愛する一方、左官の息子である年方に対しては「左官」呼ばわりしていた。芳年からの度を越えた叱咤もしばしばあったことから「年方はずいぶん芳年に泣かされた」と伝えられている。

「二代芳年」襲名騒動

自分の身体の弱さを心配した月岡芳年は、年方を連れて「私の亡き後は」と”二代目”として知り合いに紹介して廻ったことがあった。ところが、しばらくするうちに芳年の健康は改善。世の常識も推移して、もはや町絵師ではなくなった芳年は弟子たちを前に「画家に二代なし」と言い渡した。

そんな二枚手形を発行したまま芳年が亡くなると、新旧派閥のあいだで年方に「二代芳年」を襲名させるか否かが当事者の年方欠席のなか議論となった。旧派の元老たちは中立の立場だったが、新派の面々は「二代芳年」否定派だった。特に山田敬中、枝年昌が二代目排撃を主導した。旧派のなかにいた絵草子屋や版元は中立と言っても内心は「二代芳年」として売り出したい気持ちもあってか、ある版元は枝年昌に対して「以後、仕事はさせぬ」と捨て台詞を吐いている。

病状の悪化した芳年の世話をした年方の功に報いるためにも芳年の遺言と称して二代目を継がせるとの声もあったが、結局は年方本人が「二代芳年」を受け付けなかったため、襲名騒動は幕引きとなった。

二代歌川芳宗

右田年英(みぎたとしひで)

略歴

右田年英
右田年英

文久三年(1863)豊後国(現在の大分県)の稲葉家に仕えた狩野系の絵師、右田梧堂の息子として生まれる。明治九年(1876)、叔母と弟の寅彦とともに上京。洋画を国沢新九郎、本多錦吉郎に学んだ(弟の寅彦は後に帝国劇場の座付作者を務める劇作家となる)。

明治十七年(1884)11月に月岡芳年に入門。入門する前の4月にはすでに第二回内国絵画共進会に本名の右田豊彦で日本画を出品するなど腕をふるっていた。入門当時から腕前は達者だったらしく、年英の絵を見た芳年は「この絵はいつ俺が描いたか?」と自分が描いた絵と見分けがつかなかったほどだったという。

明治二十年(1887)東京朝日新聞の前身となるめさまし新聞に入社し、新聞挿絵を多数手がけた。錦絵は明治二十、三十年代頃を中心に美人画や武者絵、戦争画を制作。弟子として鰭崎英朋や伊藤英泰、河合英忠など口絵画家として活躍する絵師を輩出している。すたれ気味の錦絵を後世に残すことを志し、大正十年(1921)自ら錦絵を出版するため「年英随筆刊行会」を創設、「年英随筆」を刊行した。4年後の大正十四年(1925)2月4日、脳出血のため63歳で永眠した。

新橋元禄舞
新橋元禄舞

芳年への入門にためらい

右田年英自身が月岡芳年に入門した経緯を雑誌に寄稿していた。その様子がありありと思い浮かぶ描写になっているので、なるべく省略せずに引用する。

時は慥か明治十三年、私は十七歳のいたづら盛りでありました。一体芳年先生は、国芳氏の門下から出られた人でありまして、周延(楊洲周延)などゝ並んで中々高名な画家でありますから、蔭ながら崇拝の念を寄せまして、お尋ね申すやうなことになつたのです。

で、私が、根津に芳年先生を尋ねましたときは、恰度其処は内藤様の屋敷跡で前は紺屋の物干場になつております。私は其紺屋へまゐりまして、「月岡先生のお宅は?」といつて尋ねますと、実に滑稽なことには、私と紺屋の者と話して居る後方に、にやりにやり笑つてゐる肥太つた人が一人居ました。

それから私は、紺屋の者に教へられて、月岡先生のお宅を探し当てゝ行きますと(中略)折悪しく不在でありましたが、這入って、先生の居室を見ますと、周囲の庭園の様子から、画を描く諸道具の整頓した室内の有様など、いかにも名に響く月岡先生の居る処らしく見受けましたから、愈々崇敬の念を催しておりますと、其処へ「お出でなせぇ」と江戸児口調で這入って見えられたのは、先刻紺屋の店でにやりにやり笑つてゐた肥太つた図体の人これが名に聞へた芳年先生其人であろうとは、実に驚かざるを得ませんでした。

当時の様子を伺ふと、人並み勝れて肥太つた月岡先生、眼が悪かつたものと見へて、赤いもみの切れを持つておられて、手拭の浴衣に、手綱染の三尺を無雑作に締めておられましたが、座ると膝頭が二つ並んで出るといふ有様。「兼々御高名を伺つて参つた者ですがどうか御入門が願ひたい」と申して帰へりましたが、白髯の仙人姿を、予想してゐた私にとりましては何しろ見ると聞くとは大違ひ、直ぐに入門を決し兼ねて、一年は過ぐるうち、前申すやうに洋画の道に志したのですが、松本一門(注:年英は洋画家の松本民治の画塾で学んでいた)の人々の習作を展覧に供する会のあつた一日、私は受付に座を占めて来観者の住所姓名を書き記してゐると、実に偶然ですが、其時布施年麿といふ人の名が見へた。(中略)私は「貴下は芳年先生の社中のお方ではありませんか」と申したのです。

それが動機となりまして、一年前根津に芳年先生を訪問した当時を回想し、非常に懐かしいことに思ひまして、今度尋ねて行つた時分は、充分臍を固めて行つたのですから前見たいに驚いて遁出すやうなことはない。恰度其時芳年先生は、根津を引拂つて浅草須賀町に転宅した当座でありましたが、それより私は朝夕先生の宅に寄寓して、画道の教授を受けておりますうち、明治二十年めざまし新聞(今の朝日新聞)に、筆を執るやうになつたのです

―「俥賃二百文の時代」より

箱庭を作って後悔

月岡芳年が箱庭にハマるきっかけを作った一人は右田年英だった。年英の弟子である鰭崎英朋が次のような逸話を書き残している。

翁(月岡芳年)がやまと新聞の挿絵を書いてゐた時分の事である、時候も丁度今頃の夏の始め、或日翁の車夫の藤次郎の発議で、右田年英氏が相棒になつて一つ箱庭を造つて見やうといふ事で早速二人で取り掛つた。此の藤次郎といふ男は性来が小器用な素質で、やがて可なり大きな箱を拵へ上げ、セツセと庭の隅を堀つて土をこなしはじめる。年英氏は人形を造らうといふので木屑で人形を彫り始める。二人も最初は悪戯半分で始めたのだが、行(や)り掛けると面白くなりて、一心に行り出した。

すると翁は何時の間にか書斎から出て来て、年英氏が一生懸命に人形を彫ってゐる後方から見てゐたのである。

「何を行るのだな?ナニ、箱庭を拵へる、其人形で。ウム却々(なかなか)巧い、乃公(おれ)も一つ拵へよう」と今度は翁が下絵を付けはじめ、人形まで下絵に書いてかゝるといふ大分大仰な事になつ(て)来た、斯(こ)うなると今度は年英氏が彫つた人形では納まらない、弟子を派(は)して今戸に走らせて下絵通りの人形を焼かせるといふことになつた。

所が今戸でも容易に翁の気に入つた様に焼き上がらない、此れでは不可(いか)ぬ、彼様でもないといふので、終に自身今戸へ出馬して指揮をするといふ騒ぎ。一方門弟には一人々々に箱庭を一個宛(ずつ)造らせるといふので、仕舞ひには庭中一杯箱庭で埋まつた。次いで箱庭を陳列する台を拵へる。雨が降つて痛めると不可ぬといふので大工を呼んで雨除けを拵へると盛大な事。

さて此儘(このまま)陳列して家内の者ばかりで観てゐてもつまらぬといふので、やがての事新聞社の連中を招待して観せる。平素出入してゐる人々の許へも案内状を出すといふ騒ぎ。それも可いが、さて人形は苦心の作だからといふので、御来客が済むと一々取片附けて大事に蔵(しま)ふ。さうしてそれ箱庭見物の御客さんといふと復た取出して飾り付けるといふ騒ぎ。こんな塩梅に命令する翁は格別骨も折れないが、命令を受くる門弟達は大変で、こんな事なら箱庭を拵へるのではなかつたと大愚痴しに愚痴して後の祭。仍(よっ)て一体こんなものを拵へ初めたのは誰だといい詮議の末、年英氏と藤次郎とは大いに門弟達からカスを喰はされたといふ事である。

そんなこんなで非常に忙しいので、ともすると新聞の挿絵も其方除け(そこのけ)といふ体、今日の組込みを忘れてゐて新聞社からの催促にそれと気が付いて泡を喰つて弟子に模様を附けさせて大騒ぎして描いてやるといふ具合であつた。是等の話は馬鹿々々しい様な事柄であるが、翁の凝り性が現はれてゐて面白い。

―「月岡芳年の芸術と其一生」より

稲野年恒(いねのとしつね)

略歴

化競丑満鐘
化競丑満鐘

安政五年(1858)、加賀金沢の生まれ。本名は武部孝之で、後に稲野家の養子となる。その後、上京した経緯はわからないが月岡芳年の弟子となり、「年恒」の雅号を与えられる。しかし、後述する理由により芳年から破門を言い渡されると東京を離れ、京都で幸野楳嶺のもとで学んだ。その頃はもっぱら背景の研究に没頭していたという。

後に大阪に住み、大阪毎日新聞社に月給80円という高給で招聘され、新聞小説の挿絵を描く。菊池容斎の画風が席巻していた当時、浮世絵風の線主体で大胆な構図や異色ある画風の年恒は重宝されたという。明治二十六年(1893)には、毎日新聞社の記者としてシカゴ万国博覧会に派遣された。晩年は大阪朝日新聞に移る。北野恒富、幡恒春など大阪画壇で活躍する弟子を輩出。明治四十年(1907)5月27日、咽頭癌により大阪の自宅で亡くなる。享年50歳。

豪快な人柄

稲野年恒の弟子だった井川洗厓の証言によると、年恒は酒好きの豪放な人物だったようだ。

明治年代の初期から中期にかけて浮世絵並に新聞挿絵界に盛に活躍した月岡芳年門下の三傑といはれた水野年方、右田年英、稲野年恒の内、私は明治二十四五年頃三年間余り年恒先生の門に入つて画業を学んだ事がある。

先生は石川県の人で、性極めて豪放、頗る酒を愛して屡々(しばしば)奇行を演じた。当時大阪に住んで大阪毎日新聞の小説に挿絵を描いてゐたが、その頃の画人の風俗と云へば、一様に絹布物を纏つてゾロリとした黒紋付の着流しといふのが通り相場になつてゐたものだが、先生は辺幅(へんぷく、「うわべ」のこと)を飾ることを嫌っていつも木綿絣に高下駄といふ風采で、隻眼の眼鏡をかけては往来を蛸足などを齧(かじ)り乍(なが)ら闊歩するといふ野蕃さであつた。

―「さしゑ」より

月岡芳年から破門される

稲野年恒は芳年から破門されることになるのだが、井川洗厓の語り伝えた破門の理由がひどい。

先生(稲野年恒)が芳年の門に遊んでゐた時、芳年がひどく愛してゐた猫が居たが、或る夜、雨に濡れ汚れた猫が先生の寝床の中にもぐり込んで来たので、日頃からこの猫を心憎く思つてゐた先生は、カツとなつて庭へ曳きずり出すと乱暴にも絞め殺してしまつた。翌朝師匠芳年に事露見して破門を食つてしまつた。先生はまだ一本立になれない頃だから翌日から食ふにも事を欠き、一夏あるだけの衣物を質入して団扇で股間をかくして一心不乱に画を勉強した。後年先生はその当時を追想して、あの裸時代にみつちり勉強したのが非常に役に立つたと私に漏らして、芳年先生の破門を感謝すると云つてゐた。

―「さしゑ」より

こうして芳年の猫を殺して破門された年恒は、京都を経て大阪に移り住み新聞挿絵の世界で活躍することになる。歌川国芳に破門されて国芳の十三回忌の法要で建てられた石碑に名を刻まれることがなかった歌川芳虎と違い、稲野年恒は月岡芳年の七回忌に建立された石碑に芳年門人として名を刻まれている。また、兄弟弟子の新井芳宗や山崎年信が師匠の月岡芳年との関係がうまくいっていなかった時に仲立ちしたのも稲野年恒だったことからすると、芳年生前に和解していたと考えられる。

晩年の稲野年恒
晩年の稲野年恒
二代歌川芳宗

即興の達磨画でアメリカ人を驚嘆させる

シカゴ万国博覧会で渡米した際には絵の揮毫を求められ、アメリカ人を驚嘆させた逸話が残っている。

閣龍(コロンブス)大博覧会(注:シカゴ万国博覧会のこと)へ渡航したる大坂の画工稲野年恒、一夜ヘラルド新聞社の画工テーラ氏の案内に依り、ナイトチヤペル倶楽部に遊ぶ、宴酣(たけなは)にして部員頻りに席画を子に求む、子起て持合したるハンカチーフに墨汁を浸し、方六尺(注:180センチ四方)ばかりの紙上に達磨を画き、一分時間にして成る、観る者皆手を拍ち足を踏み、喝采して止まず、此画直ちに額面となり、同倶楽部の壁上に懸る、後ち揮毫を請ふもの絶えずと云ふ

―「年恒の達磨米国人を驚かす」より

山崎年信(やまざきとしのぶ)

略歴

山崎年信(月岡芳年画)
山崎年信(月岡芳年画)

山崎年信は謎の部分が多く、本名ですら「徳三郎」「徳次郎」「信次郎」「忠二」など諸説ある。生年は後述の新聞広告等により安政四年(1857)が有力とされる。

月岡芳年に入門した経緯も2つの説がある。1つは貧しい家に育った年信が提燈屋の小僧となって稲荷祭の提燈などを描くうちに偶然芳年に認められたという説。もうひとつは床屋の外戸障子に描かれた芳年一門風の絵が芳年門人のなかで話題となり、たずねるとその店の小僧が描いたもので、才能を惜しむものが後の年信となる小僧を芳年のもとに連れて行ったという説である。いずれにせよ偶然才能を発見された年信は、入門からわずか6、7年後の明治十年(1877)西南戦争の錦絵でその名が確認されている。

大日本優名鏡 大蘇芳年他
大日本優名鏡 大蘇芳年他

揃物『大日本優名鏡』で猫を可愛がる師匠の芳年のことを描いていた年信だったが、明治十年には芳年のもとから逃げ出し、大阪の「魁新聞」の挿絵を描いた。

以後、年信は大阪、東京の行き来を中心に、時に福井、高知、京都にまで居を移しながら、当初は錦絵を描き、やがて新聞小説挿絵を描いていくこととなる。高知では坂本龍馬を扱った初めての本格的伝記『汗血千里の駒』の挿絵を手がけ、弟子の藤原信一に仕事を引き継がせるなど、絵師年信の名を当地に残すことになる。

明治十八年(1885)9月15日、肺炎から脳膜炎を併発させて師よりも先に亡くなった。後述するように無類の酒好きなうえに素行が悪いことから、師の芳年とも確執をかかえた年信だったが、年信死後、芳年はその画業を不意に褒めたたえることがあったという。

芳年を驚かせた観察眼

年信が入門当時から天才肌だったことを示すエピソードを右田年英の弟子・鰭崎英朋が書き残している。

此人(山崎年信)が入門の当時、翁(月岡芳年)に従つて床屋に行つた事がある。すると床屋から帰つて来て翁は年信に向かつて「画家といふものは一寸外に出ても眼は疎かにしてゐては不可(いか)ぬ。貴様は乃公(おれ)が髯を剃る間、何に気を付けてゐたか」と訊いた。

すると年信は「ヘイ、先生の髯を当たつてをりました下剃人の手付を写生いたしました」と懐中から其の写生帖を取出して見せたので、流石の翁も彼れが熱心に驚いたといふことである。

―「月岡芳年の芸術と其一生」より

芳年の漫画を持ち出して失踪

師の月岡芳年との確執については、『いろは新聞』で4回に渡り掲載された記事に詳しい。年信は大酒飲みで飲み歩くうちに負債を抱え、師の名を騙ってはツケにしていたが、大阪に出奔。酒代を稼ぐために新聞社を転々とした後、明治十五年(1882)11月下旬に東京に戻ってきた。

年信は、これまでの不義理を芳年に詫びるため、仮名垣魯文に仲介を頼んだ。魯文は4、5日別宅に泊まらせて深酒をしない年信に改心した様子を認め、年信を連れて芳年宅へ行き、弟子への許しを乞うた。古い付き合いの魯文が言うのならと、芳年はクドクドとは叱らず短く将来を戒めた後、年信を自宅に泊めた。

年信捜索願の広告
年信捜索願の広告

ところが年信を泊めた3日目の朝、芳年の留守中に年信は師が20年来、新図を工夫し写生して描いてきた漫画の草稿40枚を小箱から勝手に持ち出し、近所へ出かけると偽って逃げ出したのだった。

年信は残った金で飲み歩き、以前から懇意にしていた講釈師の神田伯山(二代目と思われる)の家に転がり込んだ。「師への詫びを済ませ帰阪するところだが金がない」と嘘をついて伯山から金を借りると、大阪にいる共通の知人への土産物までことづかり、大阪へ逃げ帰った(先に挙げた年信像は、この時に勝手に帰阪する年信を月岡芳年が描いたものである)。

これに対し、芳年は「漫画を持ち逃げした年信を見つけたら知らせてほしい」という捜索願の新聞広告を出した(画像参照)。4回に渡った年信逃亡の記事は、漫画の草稿が芳年のもとに戻り、その他の不都合も全て罪を償ったとして突如打ち切りとなった。

同居人のお金を流用

年信は貧苦にあえぎながら、少しでも金が入ると酒か参考書に消えていた。一時期、年信と下宿屋で同居していた野崎左文は、次のように書き残している。

私(野崎左文)と京橋南紺屋町の下宿屋に同棲して居た頃私が地方新聞社から送つて来た続き物潤筆料の郵便為替を同氏の外出の序(ついで)に受取つて呉れよと頼んでやると、やがて十冊ばかりの絵本を携へ帰りこれは誰の風俗画、これは誰の花鳥画譜みんなで八円とは余り安いから買つて来たといふ。シテ其金はと問返せば、イヤ待ち給へオゝそれは君の潤筆料を暫時流用したのだと平気な処などは、頗る仙人風を帯びて居て突飛な挙動があつたに拘はらず少しも憎気(にくげ)のない人であつた。

―『増補 私の見た明治文壇』より

芳年三羽烏の世評

芳年四天王のうち、一番若くして亡くなった山崎年信を除いた三人は、「芳年門下の三羽烏」としてさらに世に知られた絵師となる。明治三十六年(1903)に発行された『当世画家評判記』には、そんな芳年三羽烏の世評が様々な視点で掲載されている。それぞれどのようなイメージを持たれていたかを知る手がかりになって興味深い。

水野年方

頭取:当時新聞の挿絵や小説の口絵で評判のよいのはこの人です。
左官:棟梁の息子を悪く云ふとなぐるぞ。
批評家:元来は文晁派の画にて土台を作り、大蘇翁(月岡芳年)の衣を着せたものの、老熟の筆と云って差支えない。
苦労人:何時も何時もお描になる女の顔は、令夫人そっくりです。

右田年英

頭取:有名なる三面記者寅彦氏の兄で、当時は、東京朝日新聞の小説挿絵に筆を執って居られます。
批評家:よく大蘇翁の室に入り、ながなが達者なものである、しかし絵に活動の趣に乏しく、衣摺などは甚だ関心せぬが、小説挿絵の方では、大家と云ふてよい。
新聞屋:梧斎(右田年英の号)の画、柳塢亭(弟・右田寅彦の号)の艶種記事は、連璧(優れた才能を持った二人(兄弟))と云ふべきじゃ。

稲野年恒

頭取:故の大蘇翁の高足で当時は大阪朝日で健筆をふるって居られます。
悪口:名にしおふ正覚坊と呼ばれた人で、なかなかの大酒だ。酒は益々あがるにつれて絵も上ってくれればよいが、どうもさうは行かぬやうだ。
ひゐき:あどけない小児の顔をかかせると旨いものだ。

月岡芳年の弟子系譜図

月岡芳年門下の四天王と呼ばれる弟子たちを紹介してきたが、その弟子たちの系譜はさらに続いていく。以下に掲げた系図は弥生美術館で行われた「もうひとつの歌川派?! 国芳・芳年・年英・英朋・朋世~浮世絵から挿絵へ」で紹介されていた月岡芳年門下の弟子の系譜図である(一部加筆)。

月岡芳年系譜
月岡芳年系譜

まとめ

月岡芳年門下のなかでも優れた弟子と言われた芳年四天王。そんな四天王でさえ、すたれ気味の浮世絵・錦絵の世界から新聞小説挿絵、日本画、木版口絵など活躍の場を他へ移した。

優秀な弟子を輩出し、日本画を手がけた年方系・年恒系の弟子が現在でも知られる一方、主に挿絵の道へ進んだ年英系の弟子たちは現在では忘れられた絵師となってしまった。今後、挿絵画家についても再評価が進むことを期待する。

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参考資料

『浮世絵志』第28号「芳年伝備考(第十稿)」山中古洞
『浮世絵志』第29号「芳年伝備考(第十一稿)」山中古洞
『浮世絵志』第30号「芳年伝備考(第十二稿)」山中古洞
『挿絵節用』山中古洞
『新小説』第六年第一巻(明治34年1月1日号)
『新小説』第十六年第四巻(明治44年4月1日号)「俥賃二百文の時代」右田年英
『名作挿画全集 別巻 附録「さしゑ」解説・目次・索引』第一号「明治大正挿絵の追憶」鰭崎英朋
『名作挿画全集 別巻 附録「さしゑ」解説・目次・索引』第四号「師匠の飼猫を殺して破門された稲野年恒」井川洗厓
『内外古今逸話文庫』「年恒の達磨米国人を驚かす」岸上操 編
『書画骨董雑誌』第9号(明治40年7月1日発行)「稲野年恒画伯没す」
『書画骨董雑誌』第72号「月岡芳年の芸術と其一生」鰭崎英朋
『土佐史談』2010年3月「山崎年信伝備考-坂本龍馬伝「汗血千里の駒」(坂崎紫瀾著)の絵師」中村茂生
『いろは新聞』明治15年12月15日
『いろは新聞』明治16年2月9日、10日、13日、15日
『大阪朝日新聞』明治40年5月29日「稲野年恒翁」
『当世画家評判記』春蘭道人、秋菊道人編
『原色 浮世絵大百科事典 第二巻 浮世絵師』原色浮世絵大百科事典編集委員会
『ラスト・ウキヨエ 浮世絵を継ぐ者たち―悳俊彦コレクション』太田記念美術館編
『増補 私の見た明治文壇』野崎左文
国文学研究資料館 近代文献情報データベース