浮世絵師の最大勢力・歌川派は明治・大正時代にはどうなっていたのか。歌川国芳から月岡芳年、水野年方、鏑木清方、伊東深水という昭和まで続く師弟の系譜が知られている。今回は師弟ではなく歌川派の血を直接ひいた、知られざる女性日本画家・歌川若菜についてご紹介。
目次
歌川国貞の曾孫
冒頭でも触れた通り、歌川若菜はその名が示すように歌川派の家系に生まれた。
父は歌川国峯、伯父は歌川豊宣、祖父は二代歌川国久、そして曾祖父は江戸後期を代表する浮世絵師のひとり、初代歌川国貞。国貞は歌川派・中興の祖といわれる歌川豊国の名跡を継ぎ、三代豊国となった(二代豊国を自称したが、このあたりの事情は横道にそれるので下記記事をご参照)。
以上の歌川若菜の家系図をまとめると画像の通り。
歌川若菜は明治22年(1889)1月7日、この浮世絵師一家のもとに長女として誕生する(歌川若菜は雅号で、本名は勝田和歌子)。
父・国峯や伯父・豊宣は曾祖父の国貞ほど知られてはいないが、明治18年(1885)の浮世絵師番付「東京流行細見」に小林清親の次にその名が載るほどの浮世絵師。残念なことに伯父の豊宣は過労がもとで、この番付に載った翌年に28歳の若さで亡くなっている。
女子美卒業後、水野年方・川合玉堂の門下に
親の影響からか若菜は絵の道を選び、14歳という早さで女子美術学校日本画撰科に入学(『日本美術画家詳伝 続篇』『大正現代日本画伯小伝』『The New York Times』より)。
卒業後は水野年方の門下生となり、特に榊原蕉園(池田蕉園)とよく交流していた。明治41年(1908)には、第二回文部省美術展覧会(文展)に出品した《良人の室》が入賞を果たし、十代で画壇への本格デビューを飾る。
師匠・水野年方が明治41年(1908)4月7日に亡くなると、次に師と仰いだのは川合玉堂だった。玉堂の弟子である今中素友によると、若菜は玉堂の画塾(長流画塾)を中心とする展覧会主体の団体・下萌会に加入して第一回展(明治42年(1909))に《少女》という題の絵を出品している(『画塾叢書 第1編』より)。この頃の若菜は他にも積極的に展覧会に出品していたようだ。
出品年 | 出品展覧会 | 出品作 |
明治41年(1908) | 第二回文部省美術展覧会 | 《良人の室》※入賞 |
明治41年(1908) | 第六回美術研精会展覧会 | 《三人娘・春》※研精賞状 《花ノ道》 |
明治42年(1909) | 第九回巽画会展覧会 | 《あげ雲雀》 |
明治42年(1909) | 第一回下萌会展覧会 | 《少女》 |
美術研精会に出品した《三人娘・春》は、同じ水野年方門下の水野秀方(水野年方の妻、旧姓・市川)、石川蕉玉との合作三幅対でいずれも研精賞状を受賞している。
日英博覧会を機に海外渡航
明治43年(1910)ロンドンで行われる日英博覧会のために同年3月下旬に横浜港を出発。博覧会では日本美術館のなかに純日本式の座敷で画室が設けられ、床の間にかける掛け軸、床脇にある戸袋と地袋の絵、さらには床の間を飾る活花まで若菜が手がけた。寛永年間の風俗の美人画の掛け軸、戸袋に蝶の絵、地袋に秋草の絵をそれぞれ描き、桃花を模して現地のリンゴの花を池坊流に活けたのだとか。
日本側展示に婦人出品のセクションを設け、社会運動に関連した女性たちの活動を紹介したこともあり「日本女性には参政権はないものの工芸、芸術、文学の分野で才能を発揮している」とイギリスに示す効果があったという(『日英博覧会における日本の展示』)。
さらに若菜は日本館を訪れたイギリス国王のジョージ5世と王妃メアリーにも謁見して、瀧の絵と絵葉書2枚をその場で描くという機会にも恵まれた(「振袖姿で英国両陛下に謁見した追憶」)。
欧米各国を歴訪
イギリスに渡った若菜はすぐに帰国せず、欧米各国を廻っている。
イギリス
イギリスには1年近く滞在し、その後もアメリカに渡るまでロンドンを拠点に生活。渡英中の写真は、父・国峯に送ったもので、このときはテムズ河畔の片田舎にいた。イギリスでは新聞・雑誌の挿絵や表紙絵の仕事を行い、渡英翌年の明治44年(1911)3月から1か月間ロンドンで個展も開催したと本人が語っている。
若菜の海外での活動については調査がほとんど進んでおらず、本人の話に頼るほかない現状だが、個展を開いたという明治44年(1911)にはジョン・フィネモア(John Finnemore)が日本の歴史を紹介した本『PEEPS AT HISTORY:JAPAN』の表紙絵と挿絵を手がけていたことが確認できた(下記リンク先参照)。後述するフランスでの仕事にも通じるが、「日本」という国の様子を描ける数少ない画家として需要があったものと推察される。
参考:Japan: Peeps at History – John Finnemore(Heritage History)
同じ年にはクイーン・ヴィクトリア記念碑の除幕式で、「カイゼル髭」で知られるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と皇后を目撃。イギリス滞在中にはアイルランド、スコットランドも訪れたという。
フランス
パリ見物を目的に本格的にフランスに渡ったのは明治45年(1912)1月。パリ滞在記「巴里のホテル生活」のなかで、若菜はパリのサロンやルーブル美術館を訪問し「肉色のマーブルに刻んであるキュピットが大変気に入った」と書き残している。
この滞在記から若菜には珠ちゃんと呼ぶ妹と峰兄様、敬兄様と呼ぶ2人の兄がいることが判明した(峰兄様は白馬会の後継となる光風会に出品した歌川峰太郎のことか?)。さらにパリから手紙をやりとりする相手として、作家で東洋美術蒐集家のアーサー・モリスン(コナン・ドイルがシャーロック・ホームズの連載修了後、後続の探偵小説を書いたことで知られる)、坪内逍遥の甥・坪内士行、渡英前から交流の深い池田蕉園が登場する。
パリでは、ある富豪の依頼で幅六尺(1.8メートル)高さ九尺(2.7メートル)の大きな美人画を描いた他、「ブルマート、ホスマン」で2週間に渡って個展を開催し意外な人気を取ったという。
これが影響してか明治天皇崩御時には週刊挿絵新聞『L’illustration(イリュストラシオン)』に大葬の礼のイラストを依頼された。大葬の礼など見たことがなかった若菜だったが、後醍醐天皇の大葬の礼の絵巻物を参考に描き、200フラン(現在価値で推定約30万円)の報酬を得たと語っている。
その他の訪問国
本人の話によれば、フランスを出た後はポーランド知事のナーバ未亡人の招待を受けて同地で展覧会を開催。ドイツ、オーストリア、イタリアのベニス、フィレンチェ、ローマ、ナポリを巡り、大正2年(1913)の暮れにパリに戻り、次いでロンドンへ。
大正3年(1914)12月にはニューヨークに渡って、大正4年(1915)の正月を迎えた。夏にはシカゴ、ボストンなどアメリカ各地を巡り、サンフランシスコ港から帰国の途についた。
帰国後
帰国フィーバー
大正5年(1916)1月4日、若菜は地洋丸に乗って横浜港に帰ってきた。帰国のニュースは新聞各紙で報じられ、白い帽子と毛皮のコートに身を包んだ若菜は「欧米で喝采された日本画家」として迎えられた。
師匠亡き水野年方門下生が集まった「年方社中新年会」が若菜の帰国歓迎会も兼ねて、同年1月12日に池之端笑福亭で行われた。出席者には池田輝方・蕉園夫妻の他、鏑木清方、荒井寛畝ら10数名が集まったという。
翌月以降は前述した海外周遊話が女性向け雑誌を中心に誇らしげに披露されることとなる。イギリスでの国王夫妻との対面、ドイツ皇帝・オーストリア皇帝の目撃談、パリでのホテル生活、きらびやかな日々の裏でのホームシックや苦労話。海外への憧れと好奇心を満たす記事としてさまざまな雑誌に取り上げられた。
画壇との関わり
大正5年(1916)8月に取材を受けた際にはアラビアンナイトを題材に《富家の娘》という題で「オウムを手先に止まらせた美しいインド風の娘」を描いていたが、同年に開催された第十回文展への制作は病気のために断念した。
大正6年(1917)には文展に向けて2カ月間軽井沢にこもって作品制作。クレオパトラを題材に描こうとしたがうまくいかず、実際に描いていたのは《袈裟御前》だった。さらに翌年の大正7年(1918)にも軽井沢で平清盛の娘《建礼門院》とインド風俗画を描き、文展出品を目指していたが、残念ながらどちらの年も入賞者リストに歌川若菜の名前はない。
この頃にはニューヨークで出会った、ジャパンタイムスの編集局長で英文家の城谷黙との結婚が噂されていた。しかし若菜本人は「又埃及や印度に行って研究したいつもりもあります位で結婚などとそんな処迄は考へて居りません」と今後の創作に意欲を燃やしている。
官展やメディアから姿が消える
帰国後の数年は新聞や雑誌で動向が伝えられる状態だった若菜だが、それ以降はめっきり名前が出て来ない。現状調べた限りでは『日本美術年鑑』をはじめとする画家の名簿に名前が掲載され続けていたということのみである。大正15年(1927)には本名が城谷姓で表記されており、噂のあった城谷黙と、この年かそれ以前に結婚したと推察される。
結婚して画家を廃業する女性が多いなか、確認したかぎりでは『美術家名鑑 昭和30年度改正版』に還暦を過ぎてなお(66歳)名前が掲載されており、画家としての仕事は続けていたようだ。
まとめ
歌川国貞の曾孫として生まれた歌川若菜は、早くから嘱望され女子美術学校卒業後に日本画家として各展覧会へ出品。日英博覧会を機に単身で海外を周遊する。
海外での絵仕事がいくつか確認できた一方、帰国後の若菜の動向は数年にして途絶えてしまった。『日本美術年鑑』などで、結婚と前後して鎌倉の大仏坂に移り住んだところまでは確認できたが、日本画家としてどういう作品を残したのかまでは追いきれなかった。
小泉癸巳男らが大正10年(1921)に創刊した雑誌『版画』に若菜が何かしらの寄稿をしているため(創刊号の所蔵がわからず内容確認未済)、もしかしたら版画家として活動をしていた可能性もある。いずれにせよ歌川の血をひき、歌川の名を冠した画家が帰国後にどのような画業を積んだのか解明するのは今後の課題として残っている。
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参考資料
『PEEPS AT HISTORY:JAPAN』ジョン・フィオネア(1911)
『婦人画報』明治45年3月「テームス河畔に於ける妙齢なる日本画家」(1912)
『L’illustration』70(3630) 1912年9月21日「Autour des funerailles du mikado」(1912)
『女学世界』大正元年10月号「巴里のホテル生活」歌川若菜(1912)
『The New York Times』1913年5月13日「JAPAN’S GIRL ARTIST BEGAN PAINTING AT 6」(1913)
『読売新聞』大正5年1月5日「歌川若菜女史帰る」(1916)
『読売新聞』大正5年8月22日「今日の婦人(一)新しい美人画を描く若菜女史の天分」(1916)
『朝日新聞』大正5年1月5日「絵筆一本で世界漫遊」(1916)
『朝日新聞』大正6年10月6日「結婚の噂ある歌川若菜女史」(1917)
『絵画叢誌』大正5年2月号「歌川若菜女史の帰朝」「年方社中新年会」(1916)
『婦人公論』大正5年2月号「若い女の一人旅」歌川若菜(1916)
『女の世界』大正5年3月号「振袖姿で英国両陛下に謁見した追憶」歌川若菜(1916)
『婦人雑誌』大正5年8月号「仏蘭西女流画家の生活」歌川若菜(1916)
『婦人雑誌』大正5年10月号「婦人社会の消息」(1916)
『日本美術画家詳伝 続篇』樋口文山編(1918)
『大正現代日本画伯小伝』岡本三山編(1918)
『社交要録 大正7年用 再版』ジャパン・マガジーン社編(1918)
『研精美術』「個人消息」大正7年9月号(1918)
『大日本当代画伯名鑑』(1913)
『大正画家列伝 : 明治画史 坤』(1913)
『日本名畫家大鑑』大正10年、12年(1921、1923)
『婦人宝鑑:家庭百科全書 大正13年度』大正13年 大阪毎日新聞社(1924)
『日本美術年鑑』大正15年-昭和5年、15年、16年、30年(1916-1930、1940、1941)
『美術家名鑑 昭和30年度改正版』(1955)
『新聞研究』1964年2月号「英文家Mock Joyaの思い出」長谷川進一(1964)
『文展・帝展・新文展・日展全出品目録』日展史編纂委員会編(1990)
『日本美術院百年史 第三巻(上)』(1992)
『日本古書通信』1998年6月号(1998)
『大正期美術展覧会出品目録』東京文化財研究所美術部編(2002)
『日英博覧会における日本の展示』楠元町子(2014)
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