日本の西洋化を示すことで不平等条約改正をねらった「鹿鳴館外交」で知られる明治の元勲の一人、井上馨。西洋かぶれと思いきや、その実像は日本・東洋の古美術品の愛好家としての顔があった。今回は井上馨の近代数寄者としての側面に触れながら、井上旧蔵品にまつわる「名品争奪戦」について紹介する。
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目次
井上馨とは
天保6年(1836)長州藩(山口県)の武士の子として生まれる。安政2年(1855)藩主毛利敬親の江戸参勤に従い、江戸に出た際に蘭学を学ぶ。大老・井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が起きると、藩主の小姓役として登用された。後の井上の鑑識眼はこのとき磨かれたのではないかと推察される。
イギリス公使館焼討ち事件に参加するなど攘夷運動に共鳴していた井上だったが、海軍研究を理由に藩の協力をとりつけ、伊藤博文らとともにイギリスへ密航。国力の差を思い知り、開国論に転じることとなる。帰国後には藩の守旧派に襲われて重傷を負うも、九死に一生を得た。
維新政府ができると井上は長崎府判事に就任。このとき福岡で祥瑞沓向付五人前を五十円で買入れたのが、井上の古美術蒐集の始まりと言われる。
奈良東大寺四聖坊にあった茶室が風呂屋の薪にされそうになっていたのを救い出し、私邸に移築した「八窓庵」で茶会を催すなど、茶の湯にも積極的に関わっていく。茶会には政財界人を招き、近代数寄者の輪を広げた。
新政府内では大蔵省に入省後、大蔵大輔(大蔵副大臣)に昇進。その後も外務大臣など要職を歴任し、元勲として重きをなした。
数寄者ゆえの名品争奪戦
名品争奪戦の背景
明治維新による社会的な動乱で、茶道具や代々伝わる古美術品が市中に流出。やがて「名品争奪戦」が行われるようになる。名品の市中流出には大きく2つの要因が挙げられる。
・版籍奉還と秩禄処分により、大名家や武士が経済基盤を失ったこと
・神仏分離令に端を発する廃仏毀釈により、寺院が荒らされ困窮に陥ったこと
こうして元の所有者が経済的な理由、あるいは廃仏毀釈による破壊を恐れて名品を手離し、維新動乱期には二束三文で売られていった。そして維新後に躍進する有力な政財界人のあいだで取引されるようになったのである。
名品争奪戦をめぐる関係者たち
益田孝(鈍翁)
新潟県佐渡島出身。幕臣となった後、麻布善福寺におかれたアメリカ公使館に勤務。役人だった父親のフランス出張にも同行した。
明治維新後は英語力を生かして商人として輸出業に励む。その能力を高く評価した井上馨は、明治6年(1872)に益田を大蔵省造幣権頭に大抜擢。翌年、後述する尾去沢銅山汚職事件で下野した井上は、三井物産の前身となる先収会社を設立し、益田は副社長となった。官営だった三池炭鉱の払い下げの際には、ライバルの三菱財閥と争って僅差で落札。後に三井財閥の指導者にまで登りつめた。
年齢がひと回り上の井上馨に引き立てられた益田だったが、茶人としては井上と名品を争うまでになる。号の「鈍翁」は明治40年(1907)に入手した、表千家六代家元・覚々斎 原叟宗左の手づくねの黒楽茶碗「鈍太郎」にちなんだもの。
高橋義雄(箒庵)
水戸藩(茨城県)の武士の子に生まれる。福沢諭吉の「文章の達者なものを慶應義塾に入れて世話する」という話に乗り入学。卒業後は諭吉の創刊になる時事新報で記者として活動する。知己を得た生糸商・下村善右衛門の援助を受けて、事業調査を目的に明治20年(1887)渡米。翌年には渡欧し、パリ万国博覧会も視察した。
帰国後に著した『商政一新』が井上馨の目に留まり、三井財閥に参じることになる。三井銀行では大阪支店長を務め、越後屋呉服店の理事就任後は日本初のデパート「三越」に変え、組織の近代化を進めた。
三井鉱山、王子製紙を経て明治44年(1911)に50歳で財界を引退。以後は茶人として趣味の世界に生きる。『大正茶道記』『大正名器鑑』『近世道具移動史』など茶会や茶道具に関する詳細な著作を多く手がけた。
原富太郎(三溪)
岐阜県出身。上京して東京専門学校(後の早稲田大学)で法律・政治を学ぶ。明治24年(1891)に横浜生糸輸出業の五大売込商の一角、亀屋(後の原商店)に婿入り。明治32年(1899)に当主であった義祖父の善三郎死去後には家業の責任を担うことになる。
原は組織の刷新と外国商経由に頼らない直取引の生糸輸出を目的とした海外販路拡大に努めた。これにより第一次世界大戦後には、横浜の生糸の2割近くを扱うまでになる。関東大震災後には横浜の復興に力を尽くした。
義祖父の死去後、本邸を野毛山から現在、三渓園となっている本牧三之谷に移した。「三渓」の号は本牧にある3つの谷から。もともと文人趣味だったが、後に古画・仏画の蒐集家として名を馳せるようになった。同時代の日本画家や彫刻家のパトロンとしても知られる。
川崎正蔵
天保8年(1837)、薩摩(鹿児島県)の貧しい商家に生まれる。転機は明治6年(1973)。琉球からの租税取扱いを検討していた大蔵省が結成した現地調査団の一員に、川崎が選ばれた。密貿易で巨利を得ていた山木屋の店員時代に何度も現地入りしていた経験を買われたのである。
ここで大蔵省駅逓頭だった前島密の目に留まり、日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に抜擢。内地・琉球間定期航路の開設、琉球藩の砂糖販売免許など琉球利権を次々と獲得する。
川崎は同じ薩摩出身の松方正義への根回しにより井上馨の一声で官営兵庫造船所の払下げを実現。明治19年(1886)に川崎造船所(現・川崎重工業)の経営へ舵を切り、日清戦争を追い風に活況を呈する。4年後には神戸布引の自邸に川崎美術館を開設するも、金融恐慌に伴い閉館。
馬越恭平(化生)
岡山県出身。大坂に出て豪商・鴻池家の丁稚を経て、両替商・播磨屋を営む叔父の養子となる。転機は明治3年(1870)に益田孝と出会い意気投合したところから。明治6年(1873)には播磨屋の仕事を辞めて上京、井上馨の先収会社に入社する。
先収会社が三井物産に変わり、益田が社長、馬越は横浜支店長として番頭役を務めた。西南戦争勃発の際には、戦地へ出張して全軍需利益の60%ともいわれる大型契約を取り付ける働きを見せる。
明治29年(1896)に三井物産を辞職。経営不振の日本麦酒醸造の再建を任された馬越は、巧みな宣伝活動でハイカラなイメージだったビールを庶民の酒に変え、経営を立て直す。ビール業界の再編により三社が合併し大日本麦酒が誕生。馬越はこの大会社の社長として辣腕をふるい「東洋のビール王」と呼ばれた。号の「化生」は弘化元年生まれから取ったといわれる。
強奪があだとなった牧谿の双幅
明治7、8年頃、中国南宋・元時代の水墨画の名手として知られる牧谿の『客來一味』という掛け軸が関西で売りに出された。もともと室町幕府八代将軍・足利義政の秘蔵の品で、高松藩主の松平家に移り、明治維新後に市中に流れて行方不明となっていたものが出てきたのである。
この名幅を川崎正蔵が入手した。すると、それを聞きつけた井上馨がやってきて「顔輝(牧谿と同時代の画家)の名幅を入手されたと聞くが、一度拝見したい」と切り出す。川崎は「その絵は顔輝ではなく牧谿でございます」と白状させられた。井上は掛け軸を一覧するなり「しばらく借用することにしたい」と川崎の返事もろくに聞かずに持って行ってしまう。しばらくとは永久と同じことで、言い換えれば「自分に奉納せよ」と同義だったのである。立場上、逆らえない川崎は泣く泣く手離すことになった。
それから後の明治20年(1887)4月26日、東京麻布鳥居坂にあった井上邸に明治天皇が行幸された。当時、外務大臣だった井上だが、一私人の邸宅へ天皇が公式訪問するのは異例のことである。井上邸内に新設した八窓庵の茶室開きに招待し、あわせて余興として初めて歌舞伎を天覧するという催しだった(この催しは錦絵にされている)。
その日には井上邸内にある書画骨董や盆栽の名木も飾られ、天皇も一覧におよんだ。井上はこの機会にお気に召す品があれば献上したい旨を申し出ていたため、皇太后大夫の杉孫七郎が献上品として件の牧谿の『客來一味』の双幅を持ち帰った。
後日、井上が天覧に供した牧谿の掛け軸を来客に自慢しようとしたが、どこを探してもみつからない。献上したことは承知していたが、双幅のうちの一幅だけで片方は残っていると思っていたのである。天皇にお伺いをたてると「二幅対ならば双方とも当方で留め置く」と微笑された。あちこちで名品を奪い取るようなことをしていた井上を、天皇がたしなめたのではともいわれている。この双幅は現在も皇室のもとにあり、三の丸尚蔵館が所蔵している。
守り抜かれた牧谿の蜆子和尚図
明治20年頃、井上が益田鈍翁の家に招かれて訪ねると、床の間には牧谿の『蜆子和尚図』が掛けられていた。これはジャーナリストの福地源一郎(桜痴)が持っていたものだが、お金の工面のためにやむなく益田に譲ったものだった。
その日は福地と実業家の小室信夫も招かれており、福地は自分の手にあった掛け軸を見てくやしくてしかたがない。そこで井上・福地・小室は、その掛け軸をそっと取り外して、井上の馬車に乗せて去ろうとたくらんでいた。
ところが益田は早くもたくらみを察知し、井上が席を立つと掛け軸を外して蔵へ運ばせてしまった。そうとは知らずに福地が引き返して見ると、床の間は空っぽになっている。小室が気を利かせて先に持って行ったのだろうと玄関へ行くと、井上が馬車の窓から顔を出して掛け軸が来るのを待っていた。
そのとき益田が進み出て「閣下のお待ちかねの品は、もう蔵のなかへ納まりましたから、今日のお間には合いません。どうかお立ちくださいませ」と告げる。井上は「さてさて益田は、すばしこい奴じゃ。すっかり裏をかかれた」と苦笑いをして立ち去ったという。
鹿島清左衛門コレクションの行方
明治34年(1901)、東京深川の鹿島清左衛門家の所蔵品が公開入札ではなく、「小向かい」と呼ばれる内輪の取引で放出されることになった。最初に相談を受けたのは、馬越化生である。さっそく東都古美術商の第一人者・山澄力蔵に鹿島家の所蔵品の調査を依頼したところ、質・量ともに多数の名品があることがわかった。
馬越はこのときに中国の宋・元時代の名品を多数入手し、当時芝の桜川町に住んでいたことから「桜川宋元」とあだ名されるようになる。しかし馬越も財力の限度や好みの違いもあるため、盟友である益田鈍翁に話を持ち掛ける。益田もここで多くの名品を選び出して、自分の物としていった。
鹿島家には代々の言い伝えで名器中の名器36点だけは非売品として厳重に管理され、これには馬越も益田も手が出せなかった。そこで井上馨がこの話を聞きつける(馬越が得意になって話を漏らしたという説もある)。井上は鹿島家を訪れて直談判におよび、代々言い伝えの秘宝を丸飲みしてしまったのである。これには馬越も益田も開いた口がふさがらなかった。
井上が横からかっさらった秘宝のなかには、北宋最後の皇帝・徽宗が描いたと伝わる『桃鳩図』(現在、国宝指定)などの名品が含まれていた。この一件により、井上は美術収集家の第一人者と認知されるようになったという。
井上馨が手離した孔雀明王像
明治30年代中頃、井上は某氏所蔵の古仏画『虚空蔵菩薩像』を買おうとして従来所蔵していた仏画を処分することにした。そこで高橋箒庵を自宅に招き「孔雀明王像を手放すから、誰かに媒介してもらいたい」と依頼。『孔雀明王像』はかつて高野山某寺が所蔵し、大阪府知事も務めた建野郷三を経て、井上の手に渡っていた。
依頼を受けた高橋は、この数年前から古書画蒐集を始め、何度か紹介歴もある原三溪に買わせようとした。井上からモノを借り受けた高橋が、新築間もない自宅の床に掛けてみると、各種鉱物を粉末にした極彩色が光り輝き、面貌も荘厳で端麗。高橋は完全に魅了され、一切の書画を売り払って自分のものにしようかと熟考すること三昼夜。
決心がつかない高橋は、この話を益田鈍翁に洩らす。益田もその仏画には涎を垂らさんばかり。益田は「まずは原氏に話したまえ。氏がもし二の足を踏んだら、その時は自分が出て井上候からいくらか値引きをお願いして自分の物にしよう」とのことだった。
高橋が原に『孔雀明王像』を引き合わせると、いくらか躊躇したものの一幅一万円という値段で買い取った。現代のお金にしておおよそ一億円。当時としては記録破りの価格だった。「二割は必ず値切る」と言われた益田は、原が高値を理由に断ることを見越して手を打ったが『孔雀明王像』争奪戦に敗れ、悔しがったに違いない。現在『孔雀明王像』『虚空蔵菩薩像』ともに東京国立博物館所蔵の国宝である。
リベンジの的にされた十一面観音像
『孔雀明王像』を逃した益田鈍翁もそのまま引き下がらなかった。弟の益田英作がこの話を耳にすると「第二の網を張りましょう」と兄を焚きつけた。ターゲットにされたのは井上の所蔵する、もうひとつの古仏画の名品『十一面観音像』である。
『十一面観音像』は大和龍田の龍田新宮の本地仏で、伝燈寺にあったものが山城日野の法貴寺の所有となり、井上家に入った。井上が手にする前に東洋美術史家のアーネスト・フェノロサが二百円で売約していたが、フェノロサが全額払えずにいたところを、井上が三百円で横取りしたいわくつきの品だった。
井上を訪問した英作は、原と『孔雀明王像』が縁付いた祝意を述べたうえで「兄貴はまだこれというほどの仏画を所持しておらず、孔雀明王を買わせたかったが今言っても詮無きこと。閣下は、このたび天下第一の名画『虚空蔵菩薩像』をお買入れになられたとか。ならば他の仏画は代価次第でご売却になっても差支えありますまい。ついては、かの十一面観音を譲ってやっていただけませんでしょうか」と切り出した。
井上は英作の口車に乗せられて「値段次第で譲らぬでもないが、十一面観音は孔雀明王の三倍以上、それでも君は異存はないか」と返した。孔雀明王の三倍となると三万円、現在のお金にして三億円である。英作は「閣下は十一面を三百五十円でお買入れなされたそうだから私はその原価の百倍、すなわち三万五千円にてお世話いたしましょう」とたたみかけた。
最初は冗談だと思っていた井上も相手が本気だと知る。値段は想定外の色をつけられて、もはや承諾する他ない。英作は井上の気が変わらないうちに蔵から品を出してもらい、まんまと『十一面観音像』は益田鈍翁の手中に収まった。現在『十一面観音像』は奈良国立博物館所蔵の国宝となっている。
金権政治家の側面
これまで挙げてきた名品争奪戦で「名品を買ったお金はどこから出てきたのか」を考えるとき、井上以外は実業家として財力があるのはわかる。かたや井上馨の財力の根源をたどると、人事の大抜擢や官営払下げの事業など実業家たちの育ての親という顔もある一方、金権政治家としての顔を持っていたことは避けて通れない。その最たるものが、以下にあげる尾去沢銅山事件である。
尾去沢銅山事件
明治維新後の新政府で大蔵省に入省した井上馨は大蔵大輔(大蔵副大臣)に昇進。大蔵卿(大蔵大臣)である大久保利通は明治4年(1871)1月から岩倉使節団の一員として洋行で不在となったため、実質的には井上が大蔵大臣の役目を果たす。
新政府の財政を安定させるためには、諸藩の債務整理が急務だった。一方、南部藩(盛岡藩)では戊辰戦争で官軍に敗れたため、賠償金ともいうべき七十万両の冥加金を新政府に納める必要があった。藩は冥加金を払うため、藩所有の尾去沢銅山を担保に借金をすることを思い付く。そこで銅山を資金面から実質的に運営管理していた領内の豪商・村井茂兵衛に話を持ち掛け、村井名義で外国商社と担保貸付契約を交わして七十万両を得ようとした。
ところが国土の一部である銅山を担保に外国からお金を借りるのは新政府からお咎めがあるのではと待ったがかかった。結局、担保貸付契約は破棄され、村井は違約金二万五千両を立て替える羽目になる。後に藩から村井に立替分は支払われたが、このときに村井が藩に出した受取証が問題になった。当時の南部藩では「大名が領民から借金をすることはあってはならない」という身分制度の慣例により、受取証は借金証文の形式だった。本来「確かにお金を受け取りました」となるべきところが「確かにお金を借り受けました」というアベコベな証明書になっていたのである。
新政府はこの”借金証文”を理由に村井に返済をせまった。そればかりか銅山採掘権を取得するためのお金も未払いだとして、合計五万五千両超を納入せよと命じた。村井は受取証だと証明する術なく、せめて7年または3年かけて分納したいと嘆願したが、政府は一括即納と譲らない。結局、大蔵省が尾去沢銅山を差し押さえ、井上馨と同郷の岡田平蔵という商人に払い下げられた。しかも岡田の買取は20年分納で無利息という破格の条件だった。
井上馨のあまりに露骨な利益供与に、現在の法務大臣にあたる司法卿・江藤新平が動いた。村井の訴えを聞き入れ、部下の島本仲道に命じて真相を調査させ、井上はクロであるとの結論に達する。江藤は井上の捕縛を決心し、太政官に承認を求めた。しかし当時はいわゆる「留守政府」だったため、岩倉使節団の帰国を待ってからと太政官・三条実美になだめられる。
まもなく岩倉たちが帰国したが、征韓論が巻き起こり新政府は分裂。江藤は西郷とともに下野したため、井上の罪状はうやむやになってしまった。井上はこの後、尾去沢に「従四位井上馨所有」の標木を立て、やがて三菱に転売して多額の利益をあげたのである。
まとめ
明治初年の動乱期のなか、大蔵省や外務省での主要ポストを務めた井上馨。政界や財界を行き来しながら政商を育て上げ、その地位を利用した金権を得るようになる。井上は早くから日本・東洋古美術の蒐集を行っており、その過程では海外流出を免れた名品も存在していた。
功罪相半ばの井上だが、これまでは「罪」の部分が大きく取り上げられてきた。金権政治家としてみたとき、西郷隆盛から「三井の番頭さん」と揶揄された逸話が紹介され「維新政府の藩閥を土台とする貪官汚吏の代表者(『悪人列伝 近代篇』)」と書かれる。
しかし、今回あまり触れられなかったが、近代数寄者としてみると「数寄者としての独自性と、幕藩体制崩壊後の数寄の世界を先導した先駆者(『世外井上馨 近代数寄者の魁』)」と書かれる足跡も残していた。筆者も井上馨については「鹿鳴館外交」ぐらいの知識しかなかったせいか、記事を書くなかで井上馨に対するイメージが変わった(とはいえ、こずるい印象はぬぐえないが)。
これを機会に井上馨旧蔵の「名品」に美術館で出会ったときには、今回取り上げた逸話に思いを馳せながら鑑賞したいと思う。
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参考資料
『近世道具移動史』高橋義雄(高橋箒庵)(1929)
『へそ茶』高橋義雄(高橋箒庵)(1915)
『明治の御宇』栗原広太(1941)
『世外井上公伝』第3巻(1934)
ARC浮世絵ポータルデータベース
近代日本人の肖像 – 国立国会図書館
井上が双幅をまとめて天皇に献上する形となった話は『世外井上公伝』『近世道具移動史』によるもの。ところが『川崎正蔵伝』によると、井上馨が川崎正蔵から奪い取った形の牧谿の掛け軸は、当初は一幅だけで、双幅揃いではなかったという。
自分のもとにあった掛け軸が天皇へと渡ったことを知った川崎は、ふとあの絵は自分が入手の際には双幅だったはずと、残りの一幅を探して値段を問わずに買い求めた。そして井上に送り届け、天皇に双幅だったことを伝えて井上から奉納したことになっている。
天皇行幸の際に双幅が揃っていたのか、あとで川崎が探して送り届けたのか。どちらが正しいかは、今からでは確かめがたい。