岩佐又兵衛『山中常盤物語絵巻』をめぐる又兵衛論争まとめ

岩佐又兵衛の手により描かれたとされる『山中常盤物語絵巻』。この絵巻物が又兵衛作とされるまでにはたいへんな論争があった。そんな『山中常盤物語絵巻』をめぐる又兵衛論争の経緯と収束についてご紹介。

山中常盤物語絵巻とは

『山中常盤物語絵巻』(以下、『山中常盤』)とは義経伝説をもとにした「山中常盤物語」を題材にした全12巻・全長150メートルを超える極彩色絵巻のこと。前半は牛若丸(義経)の母・常盤御前の殺害、後半は牛若丸による仇討ちの場面を描く。

『山中常盤』の凄惨な場面を目にした夏目漱石の女婿で小説家の松岡讓は「常盤御前主従が夜盗にあって裸にむかれる生々しくも痛々しい描写を見ては、その容赦のないリアリズムにすっかり魂を奪われて、心臓が痛むほどの興奮を覚えた」と語っている。

『山中常盤』は徳川家康の孫で福井藩主の松平忠直からの注文により、岩佐又兵衛が福井移住後に制作したものと考えられているが、又兵衛を示す署名や印章はなく、長らく又兵衛論争の渦中にあった。

長谷川巳之吉による「発見」

文芸出版社・第一書房を興した長谷川巳之吉が『山中常盤』を発見した経緯は、長谷川の親友だった松岡讓の『岩佐又兵衛の今昔 又兵衛論争と発掘の経緯』に詳しく書かれている。

昭和三年(1928)12月13日、神田の古書店・一誠堂に立ち寄った長谷川は、店の主人からドイツ人の購入が決まっていた『山中常盤』の白黒写真を見せられた。店の主人によると、落款印章はないが又兵衛作という言い伝えがあるという。写真を見た長谷川はすぐに『山中常盤』の虜となり、海外流出は避けたいと1週間の猶予をもらって金策に走った。

しかし支援者は現れず、長谷川は新築したばかりの家を担保にして、自らの浮世絵コレクションや電話など金に代えられるものを一切合財売り払った。こうして出来た資金を手に京都へ向かい『山中常盤』を買い取った。同年12月29日には「東京朝日新聞」で海外流出をまぬがれた経緯が報じられ、その存在が一気に知られるようになった。

昭和四年(1929)10月15日から京都帝室博物館、翌年の2月10日から日本橋三越デパートで『山中常盤』は一般公開された。東京会場では残酷な数場面やクライマックスの虐殺場面が白紙で覆って展示されていたにもかかわらず、「毎日山のような観衆。押すな押すなの盛況だった(『美之國』昭和五年(1930)第6巻第3号)」という。さらに長谷川は『山中常盤』の顕彰に努める。『山中常盤』をそのまま原寸大で印刷し12巻の巻物に仕立てたうえで桐箱に入れて1セット350円で売るという熱の入れようだった。

藤懸静也による「否定」

長谷川巳之吉によって喧伝された『山中常盤』だったが、美術雑誌『美之國』で笹川臨風が「之を岩佐又兵衛の筆と断ずるのは、人物の頤丸く長いがためであらうが(中略)此判断の標準は得て危なつかしい」と慎重論を唱えた。

昭和五年(1930)5月10日、笹川論をさらに一歩進めた論調の記事が國民新聞に掲載された。タイトルは「彦根屏風、山中常盤は又兵衛の作に非ず 藤懸静也氏の新見解」。

当時、帝室博物館学芸委員だった藤懸静也が記者の取材に答えたものをまとめた記事だった。藤懸によると、又兵衛真筆の基準となる標準作は以下の作品とした(カッコ内は真筆とする理由)。

「又兵衛の作に非ず」
「又兵衛の作に非ず」

・埼玉県川越市の仙波東照宮『三十六歌仙額』(「土佐光信末流岩佐又兵衛勝以図」と裏書き)
・『人麿・貫之図』(署名が手紙の筆跡が酷似、「碧勝宮圖」の落款)
・『金谷屏風』(同じ「碧勝宮圖」の印章、作品の伝来が確か)

藤懸は上記の標準作から又兵衛について次のように主張する。

・土佐派と狩野派の画風で描いている
・日本と中国の古典的題材を取り扱い、浮世絵に通じる風俗画は極めて少ない
・近松門左衛門の『傾城反魂香』に登場する浮世又平と混同されて又兵衛が知られるようになった

以上から又兵衛の実像は世間の認識とは大きく異なり、『彦根屏風』とともに『山中常盤』『上瑠璃物語絵巻』も又兵衛作ではなく浮世絵の元祖でもないと断じた。この記事の内容だけでは論理の飛躍があるが、帝室博物館学芸委員の立場からの主張は衝撃をもって迎えられた。

「國民新聞」上での又兵衛論争

藤懸の主張に黙っていられなかったのが『山中常盤』の所有者・長谷川巳之吉だ。藤懸の記事が掲載されたわずか6日後に同じ「國民新聞」上で反論記事を寄稿した。主な主張は以下の通り。

・すでに『彦根屏風』は又兵衛作と思う人は無くなっている(明治期に岡倉天心らが又兵衛作と主張していた)
・『山中常盤』『上瑠璃巻』を又兵衛作ではないとすれば、『堀江物語』『車争之図』などその他の又兵衛作と言われる風俗画も違うということになるが、これらを描いたのは誰なのかという問題が発生する

さらに「國民新聞」では、浮世絵に詳しい小説家・野口米次郎による寄稿が続いた。野口の主な主張は以下の通り。

・(落款など)証拠のある範囲で批評する人は、事務員である
・藤懸の主張は証拠裁判のようなもので鬼神幽霊を語らないとする道学者の態度
・又兵衛の晩年だけを認めてその以前の長い年月はないものと抹消してしまうようなもの

この論争は「國民新聞」を飛び出し、単行本や雑誌でも展開されていくようになった。

又兵衛論争の展開

この時代の又兵衛作品の認定は研究が進むにつれて、次のように広げられていった。

「岩佐又兵衛」=「勝以」であることが判明した仙波東照宮『三十六歌仙額』が基準
⇒「勝以圖之」「勝以畫之」の署名がある『人麿・貫之図』が真筆認定
⇒『人麿・貫之図』と同じ「碧勝宮圖」の印章がある『金谷屏風』が真筆認定
⇒『金谷屏風』と同じ画風の『樽屋屏風』が真筆認定
⇒『樽屋屏風』と同じ「勝以」の印章がある作品は真筆認定

こうして基準作に基づいた又兵衛の作画範囲が広がっていくなか、雑誌『浮世絵志』で又兵衛を「それほど價位ある畫人と思はない」と論じた美術史家・田中喜作は印章に頼る鑑定に疑問符をつけた。印章が捺された作品でも見劣りする作品があるというのである。

一方、美術研究家・春山武松は『山中常盤』などの大作が又兵衛作でないとすれば「彼の名声を裏書きするに足るものはない」として『山中常盤』が又兵衛作であることを強く主張した。特に春山は論文「又兵衛論争の渦中へ」のなかでやや贔屓(ひいき)目線ではあるが、又兵衛の筆跡や絵のクセを細かく比較している(画像参照)。

春山武松の又兵衛作画比較
春山武松の作画比較

春峯庵事件、戦争による又兵衛論争の中断

昭和九年(1934)5月、肉筆浮世絵贋作事件「春峯庵事件」が起きる。そこで事件に関係した笹川臨風は、結果的に無罪放免になったものの美術界での発言力を失った。「春峯庵事件」では岩佐又兵衛作とされる贋作が出品され、皮肉にも『山中常盤』の又兵衛作否定派が重要視していた「勝以」の落款がしっかり捺されていたのだ。もちろん巧妙に作られたニセ落款である。この「春峯庵事件」により肉筆浮世絵に対する研究熱は一気に冷え切ってしまった。

真筆の勝以印(樽屋屏風)
真筆の勝以印(樽屋屏風)
贋作の勝以印(春峯庵作品)
贋作の勝以印(春峯庵作品)

一方、長谷川巳之吉は『山中常盤』入手で無理を重ね借金が膨らんでいたが、昭和六年(1931)5月に雑誌『セルパン』創刊を機に好転しだす。昭和十九年(1944)までのわずか13年間の発行期間ではあったが、太平洋戦争へと突入していく時勢に流されず、ユニークで質の高い雑誌であったという。『セルパン』に掲載するためにいちはやく海外情報を得ていた第一書房は海外のベストセラー翻訳に乗り出し、パール・バックの『大地』、サン=テグジュペリの『夜間飛行』などヒット作を連発。赤字はいつのまにか解消していた。

ところが編集長交代を機に時勢におもねり、戦意高揚を謳った誌面へと変化していった。昭和15年(1940)にはヒトラーの『我が闘争』の翻訳本を出してベストセラーとなったが、昭和十九年(1944)戦時下の言論統制や同業者の優柔不断ぶりに失望した長谷川は第一書房の廃業を決める。戦後、長谷川は『我が闘争』の刊行などヒトラー関連書籍に関わったとして公職追放となった。神奈川県鵠沼海岸に隠遁し、二度と又兵衛論争に加わることはなかった。

辻惟雄による「再評価」

戦後も岩佐又兵衛研究の権威であり続けたのは藤懸静也だった。戦争のために一時休刊となっていた美術雑誌『國華』の復刊にかかわり(昭和二十一年(1946)4月)同誌の主幹として、ことあるごとに無款の作品群の「又兵衛作」を否定し続けた。しかし藤懸の影響下にない独学の美術史家や関西の学会のなかから藤懸に対する異論が唱えられるようになった。

昭和二十八年(1953)頃、『山中常盤』は長谷川の手を離れ、世界救世教の始祖でありMOA美術館の創設者である岡田茂吉に渡っていた。ここで調査撮影の機会に恵まれたのが、東京国立文化財研究所に勤めていた辻惟雄だった。ここから辻は又兵衛研究にのめりこんでいくことになる。

昭和三十三年(1958)岩佐又兵衛研究の権威、藤懸静也が亡くなった。一方、辻は長谷川巳之吉に会いに行って『山中常盤』入手のいきさつを訊いたり、福井を訪れて又兵衛自筆の未発表文書をみつけたりと研究を進め、昭和三十八年(1963)に『山中常盤』は又兵衛一人の作品ではなく、又兵衛を中心とした「山中工房」ともいうべきグループによって描かれたという説を発表した。さらに昭和四十五年(1970)に『美術手帖』での連載をまとめた単行本『奇想の系譜』が刊行されると、彼の岩佐又兵衛論は大きな反響となっていき、藤懸静也が唱えた又兵衛作否定論を塗り替えていくことになった。

奇想の系譜 (ちくま学芸文庫)

東京大学教授の佐藤康宏は『山中常盤』のなかでも又兵衛本人の作画範囲をさらに詳細に分けた。「又兵衛は最初の巻第一と巻第二は多くの段を自分で仕上げているようだが、巻第三から巻第六まではだいじな段だけを自分で描くようにし、巻第七から後は仕上げを助手にまかせていると見える」と論じており、『山中常盤』が又兵衛の工房作である主張を補強する形となっている。

なお残る又兵衛作とする「疑問」

長谷川巳之吉の「発見」以前、(岡山県)津山藩松平家が所蔵していたという『山中常盤』。大正十四年(1925)5月に行われた東京美術倶楽部を札元とする子爵松平家御蔵品入札で実際に出品されている。この入札会には『山中常盤』と同じくMOA美術館が現在所蔵する岩佐又兵衛作とされる『上瑠璃物語絵巻』も出品されていた(画像は入札目録から抜粋)。

由緒ある家の伝来とあって、岩佐又兵衛作の信憑性をより高めている。しかし入札目録を見ていくと、そこには贋作とおぼしき作品も混じっていた。はっきり贋作と指摘できるのは長沢芦雪の『山姥図』である。下の画像は、奇想の系譜展でも出展された厳島神社所蔵の『山姥図』との比較(カラーの方が厳島神社所蔵)。

構図があまりにもよく似ているうえ、赤い丸で囲った箇所には以下のような不審な点が見られる。

  1. 破れ笠が宙に浮いてみえる
  2. 一か所だけ不自然に太い衣文線
  3. 子供の足が宙に浮いてみえる

いずれも厳島神社所蔵のものを真似ようと苦心して失敗したように思えてならない。これがそのまま『山中常盤』も贋作とする主張に繋げることはできないが、少なくとも津山藩松平家に伝来したことは又兵衛作とする強い理由にはならない。とはいえ、絵巻物自体が傑作であることは言うまでもなく、実際に全十二巻もある絵巻物の贋作を作るとなると、その労力と引き替えに得るものはあまりに少ないのだが。。。

まとめ

長谷川巳之吉の「発見」から紆余曲折を経て岩佐又兵衛が制作に関わっているとされた『山中常盤物語絵巻』。作者をめぐる論争では、藤懸静也が印章を重んじた鑑定から又兵衛作品であることを否定し続けた。結局、又兵衛作であることが広く認められるのは藤懸静也の死後、辻惟雄の発表を待つこととなった。ただし、津山藩松平家伝来であることは、必ずしも又兵衛作とする根拠にならないことは留意しておいた方がよいだろう。

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参考資料

『美之國』第51号「山中常盤物語」笹川臨風
『美之國』第6巻第3号「『山中常盤』展観大成功」
『浮世絵志』第3号「岩佐又兵衛に就て(下)」田中喜作
「國民新聞」1930年5月10日「彦根屏風、山中常盤は又兵衛の作に非ず」藤懸静也
「國民新聞」1930年5月16日「又兵衛問題に就て藤懸静也氏へ」長谷川巳之吉
「國民新聞」1930年5月21日「初夏雑筆 浮世絵研究の二つの態度」野口米次郎
『春峯庵什襲浮世絵展観入札目録』
『大塚博士還暦記念美学及芸術史研究』「又兵衛論争の渦中へ」春山武松
『岩佐又兵衛の今昔 又兵衛論争と発掘の経緯』松岡讓
『美術史』160号「又兵衛風諸作品の再検討」佐藤康宏
『子爵松平家御蔵品入札目録』