2回に渡って取り上げてきた肉筆浮世絵贋作事件、春峯庵事件。今回は、なぜ浮世絵の権威と言われるような教授が贋作にだまされることになってしまったのかまとめてみた。
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目次
春峯庵事件が起きた背景
「春峰庵というでっちあげの名門から大量の肉筆浮世絵が売りに出される」という事件の筋書きは、後から見れば作品の出所がハッキリしない怪しいものだが、当時はそれを信じ込ませる背景があった。
肉筆浮世絵ブーム
本来、肉筆浮世絵は浮世絵版画と違い、数も少なく安価に買えるものではなかったため、一部の愛好者のあいだで取引されていた。明治時代末頃から国内の浮世絵研究が進んでゆくと、大正十五年(1926)に「麗子像」で知られる岸田劉生による名著『初期肉筆浮世絵』が出版されたのをきっかけに新聞社が主催する「初期浮世絵」の展示会が行われるようになった。
岸田劉生に初期肉筆浮世絵の芸術性を説いていたのは、東銀座の「丹緑社」で肉筆浮世絵を積極的に扱っていた高見沢遠治だった。高見沢はもともと浮世絵の直しを生業にしていた。その修正技術があまりに見事だったため、直しの入れた浮世絵を「オリジナル」として売る者も現れたという。夭逝した兄・遠治の跡を継いだ弟の高見沢忠雄は、兄の浮世絵複製技術を継承して「複製木版浮世絵」を売っていた。これが後に金子孚水が矢田製の肉筆模写浮世絵による「模写頒布会」を行うヒントとなったといわれる。こうして肉筆浮世絵の需要が高まっていた。
頻発した名門の掘り出し物の入札
春峯庵事件では、春峯庵という「旧家で発見された逸品」として公開入札にいたった。当時そのような大名華族や旧家など、名門の掘り出し物の入札は頻繁に行われていた。事件の前年となる昭和八年(1933)には、以下のような売立入札がある。
・紀州徳川家の第2回売立
・名古屋の粕谷家、東京の蜂須賀家、伊勢の熊沢家の総額100万円以上(当時)の大入札
・九州電軌社長、松本松蔵の雙軒庵の2回に渡る売立(当時で300万円近い大入札)
事件の同年にも藤田男爵家、横浜の朝田家、大阪の島家、紀州徳川家の第3回売立などがあった。もっともらしい名前の「春峯庵」という名門から「世紀の大発見」東洲斎写楽の品が出るという筋書きも不自然ではなかったのだ。
なぜだまされたのか?
春峯庵の品が贋作という噂を聞きつけた読売新聞が行ったのはまず鑑定家の三人、笹川臨風、藤懸静也、野口米次郎に意見を聞くことだった。笹川はホンモノであると主張し、藤懸・野口はニセモノと主張。三者の意見の食い違いをセンセーショナルに書き立てた。
小見出しには、野口米次郎氏「一眼で偽物」笹川臨風博士「断じて真物」藤懸東大教授「版画の寄せ集め」の文字が躍る。笹川教授の鑑定眼をくもらせたものはいったい何だったのだろうか?
なじみの浮世絵商からの紹介という先入観
春峯庵モノにだまされてしまった笹川臨風は事件の捜査が進む中で、絵を持ち込んで来た浮世絵商、清水源泉堂の話を過信してホンモノと決めてかかったと後悔している。笹川と清水とは旧知の仲であり、普段から信頼していた相手だっただけに先入観を持ったままコロッとダマされてしまったのだろう。
一方、笹川と同じように下谷の料亭伊香保で行われた下見会に招待されながら、贋作であると判断して事件に巻き込まれずに済んだ野口米次郎。彼はだまされてしまった三人の浮世絵評論家(笹川臨風、大曲駒村、牛山充)を引き合いに出して、なじみの浮世絵商との付き合いについて次のように述べている。
私の三君への同情切なるものがある。結果から見て三君はだらしない、またさうに相違ないが、恐らく問題の偽品を薄暗い部屋で見せられ、日頃相識の商人が語る誠しやかなる虚言をそのまま信じたからであらう。私自身は冷静自由の態度を無遠慮に取り得るほど、彼等と没交渉の間柄にあった・・・私はこの点に感謝してゐる。―「春峯庵偽作の暴露」より
贋作制作者の浮世絵に対する知識
いくら先入観を持っていたとしても贋作の出来が悪ければ、さすがに見分けがついてしまう。識者をダマすほどの贋作はどのように制作されたのだろうか?
制作の裏側を解き明かす資料として、矢田三千男によってそのほとんどが提供された「春峯庵秘事録」がある。この資料には矢田三千男による体系立てされた浮世絵研究の成果が表れている。贋作を作るうえで、作品の特徴は次の6つに大別されるという。
分類 | 特徴 |
1.初期浮世絵 | ・作品の多くが無落款のため、作者は不明 ・屏風絵が多く、画題は大柄の美人画、南蛮屏風など ・「巣」と呼ばれる古屏風を下地にして、余白には古い金箔、または古色をつけた金箔が使われる (当時、金箔を整然と貼る専門職はなかったため、わざと不規則に金箔を貼るなど高度な知識と技術が求められる) |
2.岩佐又兵衛の作品 | ・春峯庵作品の主軸であり、オリジナルからの写しは少ない ・源氏物語、伊勢物語を元に古い大和絵から構図を借りた作品が多い ・人物の顔は「豊頬長頤型(ほうぎょうちょうい:アゴ長で頬がふくらんだ形)」 |
3.懐月堂一派の作品 | ・少数の屏風絵と多くの掛け軸 ・無落款、または印章のみ(署名するにも書体が流麗でマネしずらいため) ・太く荒い衣文線、体格の良い美人の立ち姿 |
4.東洲斎写楽の作品 | ・ほとんどの場合、掛け軸(相撲絵屏風の例外あり) ・現存する肉筆画は確認されておらず、オリジナルの版画を元にした作品となる ・オリジナルを知る人から見れば、元にした作品がすぐわかるので贋作とバレやすい ・版画を元にしているため、色彩に肉筆画特有の立体感がない |
5.葛飾北斎の作品 | ・又兵衛と並ぶ春峯庵作品の主軸で、その多くは掛け軸(屏風絵の例外あり) ・図柄は人物・花鳥・風景と多種多様 ・筆クセやモチーフは、北斎漫画など北斎が手がけた多くの絵手本を参考にする |
6.その他の浮世絵一般の作品 | ・浮世絵師が描く女性像、特に顔には絵師独自の特徴が出やすい ・女性の顔など、絵師の特徴をマネるために製図用の引延機を使う ・構図などは他の肉筆画などを参考に新しく構成し、新しい●●作品を完成させる |
これだけでも浮世絵に関する知識を贋作制作に生かしていたことがうかがえる。さらに絵師の流派によって「掘り塗り(主線をそのまま生かして色を塗る方法)」と「描き起こし(主線まで塗りつぶして色を完成させた後、主線を描き起こす方法)」を使い分けていたという。
贋作を仕上げる古色のつけ方
ただ絵師の描く絵に似せたところで、最近描かれた作品だと判別されてしまえば、たちまちニセモノとわかってしまう。そこで絵を古く見せる工夫が各所に用いられた。
- 本物で使われる天然の岩絵具は高価なため、色ガラスの粉末を使用
- どんぐりのヘタを乾燥させ煮出した汁を使って人工的にサビをつける
- 絵具がほどよく剥がれ落ちるように、つなぎに使うニカワは少なめにする
- 屏風と同じように紙本や絹本は余白の多い古書画からその余白部分を切り取って利用
このような過程を経て評論家もダマされた贋作が完成したのである。
春峯庵のニセモノとホンモノの比較
春峯庵の品々のうち、暴露される前から贋作疑惑のあった2作品について取り上げてみよう。この2作品は元にしたと思われる「本物」の作品が特定されている。しかし、それだけではニセモノと判断はできない。絵師が他の絵に同じ図柄を流用するのは決して珍しいことではないからだ。そこで贋作と判断した野口米次郎の主張を借りながら、どこで贋作と判断されたのかをみていくことにする。
春峯庵・東洲斎写楽「市川團十郎・瀨川菊之丞図」
春峯庵で発見された写楽作品として出品された本作は、あるはずのなかった写楽の肉筆画とあって新聞でも一番に取り上げられた話題作だった。これの元になったのは写楽の版画「市川鰕藏のらんみやくの吉」と「松本米三郎の仲居おつゆ」と思われる。
市川鰕藏(えびぞう)は五代目市川団十郎が晩年に名乗った名前で市川団十郎と同一人物である。ところが女形の方はほとんど同じ図柄でありながら一方は瀬川菊之丞、もう一方は松本米三郎と人物が変わっており、野口に疑念を抱かせている。
<贋作と元になった写楽の真作>
さらに野口が疑念を持ったのは市川団十郎の肩口に見られる「三升紋(みますもん)」。その名の通り、3つの升が重ねられた図案となっている(一説には初代団十郎が初舞台の時にひいきの客から3つの升をもらったことがきっかけとか)。
オリジナルでは真ん中の白い部分が大きく描かれて「升」の図案を強調している一方、春峯庵の贋作ではただ同一の間隔で描かれている。野口に言わせると「このへまな仕事はどうだ・・・なってゐない」となってしまう。
もうひとつ、明治十二年(1879)に表装をしかえたと記されているこの作品の箱書きに対して、野口は不審に思った。写楽が再評価されたのは昭和九年(1934)当時からみて約20年ほど前に西洋人による発見に伴い起きたもので、約50年も前に表装を換えるほど価値を認めていたとは思えないというのである。この箱書きはホンモノとして見てしまうと、少なくとも50年前から春峯庵という名のある家に伝わったものと思ってしまう罠である。
その他にも「春峯庵秘事録」で触れたように、版画を元にしたせいで色彩に肉筆画特有の立体感がないといった贋作的な特徴がみられる。
春峯庵・勝川春潮「月夜江楼宴遊図」
この作品は複数の絵師・複数の作品からパズルのように組み合わされて作成された贋作で、種が明かされるとまた別の面白みがある。
まず描かれた人物は八頭身美人を描いたことで知られる鳥居清長の作品から寄せ集められたものだった。勝川春潮の作品なのに鳥居清長の絵と酷似しているのはおかしいとなりそうなものだが、ダマされた笹川臨風は次のように主張していた。
春潮のものが清長に似てるからをかしいといつてゐる人もあるやうだが、春潮ぐらゐ清長の真似をした人はないんで似てゐる方が春潮らしいんだ ―読売新聞「鑑定三大家が対立 浮世絵「ニセ」論争」より
左から 鳥居清長「四条河原夕涼」「当世遊里美人合・叉江涼」「当世遊里美人合・叉江(2枚)」「美南見十二侯・芸者仲居」 |
元になった鳥居清長のオリジナルの作品も掲載したので、誰がどこに配置されているか探してみるのも一興だ。背景は歌川広重の「武陽金沢八景夜景」から取られている。しかしオリジナルのように月の位置を真ん中でうまく収めることができず、左側に寄せるなどバランスを欠いた部分が見られる。
まとめ
評論家をダマした春峯庵の品々は、高まった肉筆浮世絵の需要という時代の要請と贋作制作者の深い浮世絵知識・技術によって完成されたものだった。オリジナルを元にして描かれた贋作の場合、そのオリジナルを知っていることで見分けがつく場合がある。本物を数多く見て「目を養う」ことで、ある程度の鑑定眼は備わるものなのかもしれない。
近年では新しく「発見」された古美術品に対して、作風に該当する制作者・絵師はいるが名指しする決め手がないという場合「●●工房作」という便利な言葉が使われるようになった。春峯庵を詳しく調べていくなかで「●●工房作」という作品に直面すると、少し疑念を持ちつつ鑑賞するようになってしまった自分が悲しい。ここで参考資料とした『真贋』からの引用でこの記事の締めとしたい。
いかがわしい箱書や肩書きにたより、商品価値に基いて美術品を鑑賞し、または蒐集すべきではない(中略)商人ではないかぎり、美術品はその美術的価値に基いて、すなわち美しいか美しくないかという基準によって、鑑賞し、あるいは蒐集すべきものなのである。
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参考資料
『中央公論』1934年7月夏季特集号「春峯庵偽作の暴露」野口米次郎
『芸術新潮』1957年12月号「真説・春峰庵偽作事件」矢田三千男
『芸術新潮』1967年4月号「春峯庵プロデューサーの死」白崎秀雄
『春峯庵華宝集』
『春峯庵什襲浮世絵展観入札目録』
東京国立博物館デジタルコンテンツ
ボストン美術館デジタルコンテンツ
「読売新聞」1934年5月23日朝刊「鑑定三大家が対立 浮世絵「ニセ」論争」
「読売新聞」1934年5月23日夕刊「大評判の浮世絵が全く偽物と判る」
「東京朝日新聞」1934年5月23日夕刊「幽霊「名門」で釣り ニセ逸品売立て」
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