幕末から明治初期にかけて活躍した絵師、菊池容斎。歴史画のバイブルとなった『前賢故実』の著者として名を馳せ、渡辺省亭、松本楓湖などの弟子を育てた。その生涯と逸話を紹介する。※肖像画は『近世名匠談』より引用
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目次
生涯
出自
菊池容斎は、天明八年(1788)11月1日、江戸幕府直属の御徒(下級武士)・河原専蔵武吉の子として生まれる。名は武保、通称量平。父は菊池家三十二代武長の弟で、菊池家を出て河原家の養子となっていた。この菊池姓の祖先は後醍醐天皇による倒幕に応じて九州で挙兵し敗死した南朝の忠臣・菊池武時とされている。跡継ぎのいなかった叔父の武長の死により、断絶を避けるため菊池家の養子に入ったと考えられているが、いつ頃から菊池姓を名乗り始めたのかはハッキリしていない。
幼い頃から神童の誉れ高く、16歳の時には両親の肖像を描いて、絵師の道に反対していた父・専蔵をも驚かせたという。若い頃から読書を好み、17歳の時には幕府の学問所素読御吟味に参加して白銀2枚の褒賞を受けている。
量平18歳の時、父・専蔵が亡くなる。この年、量平は高田円乗という狩野派の絵師に弟子入りをし、本格的に絵の道に進む。
師の円乗は狩野派でありながら、師の画風にとらわれることなく広く各派の長所を取り入れて自分のものとしなければならないとの教えであった。これは後年、自分の弟子に対しての教えになっていく。
画名「容斎」の由来
画名となる「容斎」は師からつけてもらったものではなく、自らが選んだものだった。これには次のような話がある。
彼は常に倫理を重んじ、先祖の菊池武時に倣い忠孝をもって生活の手本としていた。さらに友人が親孝行しない人物と知ると怒り出し、昨日まで意気投合していた相手であっても、交遊を断つという具合だった。ある人がその心の狭さ、容赦の無さを戒めた。自ら悟ることもあり、この性格を改めるため「容斎」という画名を選んだという。
諦めかけた絵師の道に救いの手
弟子入りしてから5年後、師の高田円乗が亡くなった。その後は誰にも師事することなく画業の研鑽を積んだ。世襲の職(幕府直属の御徒)はあったが薄給であったため、様々な画風を学ぶ研究資料に多額の費用を惜しまなかった容斎は貧苦にあえいでいた。もともと学問の出来がよかった容斎は、医者になろうかと考えたこともあったという。
当時、容斎の絵に注目していた旗本・久貝因幡守(くがいいなばのかみ、久貝正典のこと)が容斎を自宅に招いた。容斎は生活が苦しく、医者の道に進もうか考えていることを告白すると、いったん志を立てた以上、ただ貧苦に耐えられず画業を捨てるとは何事かと因幡守から叱責され、容斎は大いに恥じ入り、思いとどまったと言われている。
その後、因幡守は容斎に絵の揮毫を依頼し、資金面で援助した。現在、静嘉堂文庫美術館蔵の「呂后斬戚夫人図」「馮昭儀当逸熊図」「阿房宮焼討図」は因幡守の依頼で描かれた三大名幅とされる。容斎は生涯「自分が今日あるのは久貝殿の賜である」と感謝を忘れなかった。
『前賢故実』に着手
当初は中国の歴史中の人物を描いていた容斎だったが、いつしか日本の歴史画を描きたいと思うようになった。文政八年(1825)に38歳で幕府の職を辞すと、日本の上古から南北朝末期に至る500人以上の忠臣・孝子・義士・節婦を選び、それぞれの経歴を肖像画とともに紹介するという事業に本格的に着手する。この前年に老母が亡くなったことも大きく影響した可能性がある。以後、京都をはじめとする諸国を巡り、故実を研究して廻った。奈良・吉野如意輪寺では住職の求めに応じて、容斎自らのルーツと縁の深い「後醍醐天皇像」を残している。
京都の著名人が掲載されている『平安人物誌』の文政十三年(1830)版には「源武保・四条東洞院東寓西村氏・東容斎」とある。名の「武保」と雅号の「容斎」が一致しており、西村氏の家に居住まいさせてもらっているため地元の人ではないと考えられることから、この頃には菊池容斎が東姓を名乗って京都で名前を残す絵師となっていた可能性が指摘されている。
志を起こしてから十数年経過した天保七年(1838)、『前賢故実』全10巻20冊が完成する。しかし当時、この書を刊行しようと賛同する版元は一軒もなかった。原稿は日の目をみることなく、さらに時を経ることになる。
『前賢故実』の出版
完成させたものの手つかずになっていた『前賢故実』の稿本が出版までこぎつけたのは、明治初年の廃仏毀釈への反対運動を真っ先に行ったとされる福田行誡(ふくだぎょうかい)からの援助金による。行誡は容斎よりも20歳下だったが、後に増上寺管長、浄土宗管長を務めた名僧である。行誡の援助金には次のような経緯があった。
牛込にいた加藤金兵衛という商人が、一人娘を嫁入りさせて間もなく病で亡くしてしまった。婚礼の際に持参させた道具類を先方から返されたが、一度嫁入りした娘の道具はそちらのもの、返されるのは離縁されたようで娘も悲しむと金兵衛も受け取らずに押し問答となっていた。
金兵衛は考えた末、これらの道具を売ってお金に換え、名僧と言われる行誡上人に託せば亡き娘の往生の縁となるだろうと双方の家で合意し、売り払ったお金で得た一千両を行誡に捧げた。
かねてより容斎から『前賢故実』について相談を受けていた行誡は、この一千両を容斎に贈ったことで『前賢故実』は脱稿から20年後、ようやく出版の目途がたったのである。容斎はこれに感謝し、五百羅漢図十二幅、阿弥陀三尊を中央に左右に十大弟子十六羅漢の二幅の計十五幅を描いて加藤金兵衛の亡き娘の供養とした(残念ながら関東大震災で十五幅のうち、十二幅は焼失。三幅のみ回向院に伝わる)。
「日本画士」の称号
援助金を得てからさらに7年の月日を経て、明治元年(1868)9月、ついに『前賢故実』が出版された。容斎は81歳となっていた。ちょうどその頃、明治天皇の東京行幸があった。ある人が『前賢故実』を見て、この内容なら献上することができるだろうといい、版本が時の右大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)、左中将・東久世通禧(ひがしくぜみちよし)により、明治天皇に献本された。
明治八年(1875)2月には、明治天皇から「日本画士」の称号を受けた(注:ただし称号授与を示す公的文書は現在のところ残されていない)。これ以降、容斎は自分の落款の下に「賜日本画士」の印章を好んで使うようになる。
菊池容斎の墓
87歳で愛読していた「土佐日記」を絵巻物に描いたり(関東大震災で焼失)、最晩年の明治十年(1877)には第一回内国勧業博覧会で「前賢故実の図」と題した『前賢故実』に登場する歴史上の人物を大幅に描いて名誉龍紋賞を受賞したりと、精力的に創作活動を行っていた。
明治十一年(1878)6月16日午後9時、91歳にして菊池容斎は於玉ヶ池(現在の東京都千代田区岩本町2丁目)の自宅で亡くなった。容斎は谷中霊園に葬られ、同年11月には、当時太政大臣の地位にあった三条実美による題字が書かれた墓碑(顕彰碑)が建てられている。
前賢故実の影響
刊行された『前賢故実』は、歴史画のバイブルとして容斎の弟子はもちろんのこと、数多くの絵師の参考資料となった。いくつかその事例を見ていく。
渡辺省亭
渡辺省亭は菊池容斎の直弟子であるだけに師の影響から逃れることはできない。裸体画論争のきっかけとなった小説『胡蝶』の挿絵では『前賢故実』の「塩谷高貞妻」からの引用が考えられている。
松本楓湖などその他の容斎の弟子たちも『前賢故実』に限らず師の絵を模写した作品が残っている。
月岡芳年
浮世絵師・月岡芳年が『前賢故実』の影響をかなり受けていることは以前から指摘されている。特に明治十一年から十五年(1878~1882)にかけて刊行された『大日本名将鑑』は、神話の時代から徳川政権初期にいたる著名な人物を時代を追って肖像化したシリーズだが、作品の主旨が『前賢故実』と同様であるだけでなく、その肖像に関しても影響が色濃く表れている。
月岡芳年が『前賢故実』研究を始めた最初期の作品としては『魁題百撰相 伊達少将政宗』が『前賢故実』の「源義家」の図柄を左右反転させて用いていることが指摘されている。
橋本雅邦
橋本雅邦が描いた山種美術館蔵の「児島高徳」も画題の選定から構図まで『前賢故実』の影響がみられる。絵を完成させた明治三十二年(1899)当時、画壇の大家だった雅邦までもが歴史上の人物を描く上で『前賢故実』を踏襲していたのは注目に値する。
こうした絵師に影響を与えた『前賢故実』は現在、国立国会図書館デジタルコレクションにおいてネットで閲覧可能となっている(「前賢故実 菊池容斎」で検索)。
逸話
『前賢故実』の出版から大きく花開いた大器晩成型の絵師・菊池容斎。画号の由来からもわかるように頑固で気骨のある人物だったことを示す逸話が残っている。そのいくつかを紹介する。
権力に媚びず
幕末当時、権勢を誇っていた老中の間部詮勝(まなべあきかつ)(注:一説には同じく老中の阿部正弘とも言われる)が一日諸侯を自邸に呼んで酒宴を催すにあたり、席画で興を添えようと江戸中の著名な画家を集めたことがあった。いずれの絵師も身に余る光栄と招待を快諾したが、容斎は「御免こうむる」と招待に応じなかった。そこで幕臣の切れ者であり、容斎とは旧知の仲である大久保一翁が使いとなって「せめて出席だけでも」と頼み込んだ結果、容斎は渋々招待に応じた。
会場に着くと酒宴も半ばで多くの画家が席画を描いている。なかでも南画家の春木南溟(はるきなんめい)の振る舞いは幇間を思わせるような媚びへつらいようだった。これを見た容斎は汚いものにでも接したかのように目をつむり、宴席の端に座ると始めから終わりまで一言も口をきかなかったという。
黒船来航時の容斎
嘉永六年(1853)6月、ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船4隻が、浦賀に来航した。いわゆる黒船来航である。
画室で揮毫にいそしんでいた容斎だったが、尋ねてきた知人から黒船来航と幕府側のうろたえた対応について聞かされると「何ッ、メリケンの黒船が来た!」と言って絵筆を投げ捨てると、長押に掛かった槍を下して小脇に抱え込み「御免!」と裸足のまま家を飛び出して1キロ弱走った。
ところが街角で遭遇した別の知人から、容斎の異様な出で立ちを怪しんで理由を問われると、ここで初めて容斎は我に返り、考え直して家に帰って行ったという。
また福田行誡はこの頃、容斎宅を訪問した際に具足や槍を準備している容斎を見て「戦の準備でもしているのですか」と尋ねると、容斎は「古稀(注:数え年70歳、当時の容斎は66歳)の老人、物の用には足らざれども夷賊の首一つ二つなど」と笑いながら話し、その胆力に驚いたと記している。そんな容斎ではあったが、西洋画研究にも余念がなく、同じ嘉永六年には西洋美人図を描いている。
絵の報酬に五十両を要求
ある大名が使いの者を出して、能の演目のうち「石橋(しゃっきょう)」の図を金屏風に描くよう容斎に依頼した。容斎は「まず五十両の金を賜りとう存じます」と前払いを要求。使いの者は、五十両という大金の要求に容斎も案外腹が汚いと興覚めしたが、その意図もわからないため、とにかく五十両を用意して贈った。
容斎は受け取った五十両を懐に入れて、幕府の能役者・観世太夫のもとを訪問。能の絵を依頼されたことを語った後「どうか「石橋」の能を一曲舞って見せてはもらえないでしょうか。その舞の様子を写して絵にしたく思います。これはその謝礼にお納め願いたい。」と五十両をそのまま進呈した。
観世太夫は「では舞って見せましょう。石橋の舞というのは、筆で写し取れるような緩やかなものではなく、見るさえまばゆいほどの技ですから、ご承知ください。」と言うと、装束に着替えて舞台に上がった。その舞は言われた通り、手の舞、足の踏むところ、烈風が樹木を揺らし、怒涛が船舶をひっくり返すかのごとくで、容斎はその技量に驚嘆した。
舞が終わると、容斎は二つの図を描いて太夫に見せた。太夫は「ここはこうこう」と自分の思う節々を残らず語って聞かせ、容斎はそれに応えていくつか修正を加えた。そしてついに完全な「石橋」の下図が完成した。
この下図をもとに容斎は金屏風を描いて依頼主に納めたのだった。後に、この話を漏れ聞いた使いの者は容斎のことを腹汚いと思った自らを大いに恥じたという。
お金と容斎
お金にまつわる容斎の逸話はまだある。ある金持ちの商人が三百円を包んで持参し、屏風一双を描いてもらうよう依頼した。容斎はこの注文を受けたが、そのまま余談に移って注文主の商人が「先生に描いて頂けば、先生がお亡くなりなった後、きっと値段が出て高くなります」と口を滑らせた。
すると容斎はその三百円を突き返して「これを持って帰って下さい」と言った。注文主の商人は平気でそんなことを話すくらいの頭のニブさだったので合点がいかずに断る理由を問うと、容斎は姿勢を正してから「人の死を待つようなヤツのために絵を描くことは出来ぬ、さぁさっさと帰ってもらいたい」と言った。
商人は自分の過ちにようやく気付いて「これはとんだことを申し上げました、どうぞ平にご勘弁下さいまし」としきりに謝ったが、容斎はこれを聞き入れず、ついに追い立てて帰したという。
そうかと思えば、こんな話もある。ある日のこと、「川越に住む者だが先生にお目にかかりたい」と百姓風の男が容斎の家にやってきた。弟子が容斎に伝えると、とにかく会おうと客間に通させた。用件を聞くと「あなたは今、日本で隠れもない大先生と承っております。ところで私には三人の子がございますが、どうかそれらの者への教訓になるような歴史画を描いていただきたいと存じまして参上いたしました。もとより百姓のことでございますから、お礼のほどは充分にはできませんが、もし描いて頂ければ、永く家宝として子々孫々に伝えたいと存じます。どうかご承諾くださいまし」と丁寧に頼んでくるのだった。
容斎がこれを承諾すると、その男が「何日ごろに受取りに上がったらよろしゅうございましょう?」と聞くので、「さぁ都合もあるが、川越からわざわざ出てきたのだから、さっそく取り掛かろう。どうだ、4、5日俺のもとに泊まっていったら、その間に描くから、それで持って帰ったらよろしかろう」と容斎は答えた。
百姓の喜びは並々ならず、容斎は言った通り、4、5日で絵を完成させ、百姓の男はその絵にとても満足して戻って行ったという。
まとめ
菊池容斎は『前賢故実』という大事業を数十年かけて完成させ、弟子以外の絵師にも大きな影響を及ぼすことになった。「勤王画家」というフレーズで紹介されることが多かった容斎。浮世絵に対しても歌川国貞を絶賛する逸話も残っており、美人画など勤王画家以外の側面を示す作品があるのではないかと思われるが、関東大震災で多くの肉筆が失われたことにより、真の評価を得られていないように感じた。
残された逸話では自分のこだわりに忠実で頑固な一面が垣間見える。今回紹介しきれなかった弟子たちとの逸話もまた面白いので別の機会に紹介したい。
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参考資料
『絵画叢誌』25号「容斎国芳二画家の逸事」阿部弘蔵
『書画骨董雑誌』243号「菊池容斎の事ども」岡田梅邨
『書画骨董雑誌』351号「容斎隨感」原風庵主人
『書画骨董雑誌』400号「勤王の画家菊池容斎」結城素明
『国画』1巻2号「菊池容斎伝中の一発見」添田達嶺
『近世名匠談』「菊池容斎」森大狂
『本朝画人伝』巻四「菊池容斎」村松梢風
『没後120年 菊池容斎と明治の美術』展図録(練馬区立美術館編)
「容斎断章」塩谷純
「『前賢故実』の波紋-月岡芳年を中心に-」菅原真弓
『Bien(美庵)』vol.19「知られざる画家 菊池容斎」悳俊彦
「行誡と弁栄展」チラシ
国立国会図書館デジタルコレクション
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ボストン美術館データベース
古美術もりみやホームページ
蘭方医が文章の校正とは現在では少々考えにくいが、人物画について蘭方医の解剖学的見地から見た意見を求められた可能性も指摘されている。ちなみに良仙の息子、手塚良庵は手塚治虫の漫画『陽だまりの樹』の主人公の一人として知られている。