花鳥画の大家として近年注目を集めつつある、明治から大正にかけて活躍した絵師・渡辺省亭について、その生涯と逸話をご紹介。
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目次
生涯
複雑な生い立ち
嘉永四年(1851)12月27日、江戸神田佐久間町に生まれる。本名は義復、幼名は貞吉、のちに政吉にあらためた。父・吉川長兵衛は出羽秋田(久保田)藩佐竹家に仕える札差。母・渡辺ひさは長兵衛の親友である狂歌師・渡辺良助の妻だった。夫を亡くした翌年、相談相手となっていた長兵衛との間に省亭を出産した。その後も二人は正式に結婚することはなかった。
省亭は生みの母のもとではなく、父・長兵衛の元で育ち、安政五年(1858)長兵衛が亡くなると、長兵衛の長男のもとに引き継がれた。11歳となった省亭は牛込にある質屋に丁稚奉公に出される。しかし、その頃から絵を描くことに熱中していた省亭は、質屋の仕事をいっこうに覚えなかった。店を抜け出しては浅草の古書籍屋で売られている葛飾北斎・柴田是真・渡辺崋山などの木版画を買い求めて絵手本にしていた。購入するにも給料だけでは足りず、自分の衣服を売るなどしてお金を作ったのであった。
ある時、仕事をサボって物置に隠れて絵を描いていたところをみつかり、番頭に小言を言われた挙句、ほうきで叩かれた。癪に障った省亭は店の者が寝静まった夜、番頭がほうきを振り上げる姿を店の行燈に描いた。翌朝騒動となり「三文絵師にでもなるがいい、あきれ返ったヤツだ」とさじを投げられたという。
菊池容斎に弟子入り
こうして丁稚奉公から三年、年季も明けぬうちに省亭は生母の家に送り返された。元々いた吉川家へ戻るよう説得されるが、商人として期待される生家に省亭の居場所はなかった。吉川家の兄も省亭を商人にすることをあきらめ、絵を描くことが好きならと訪ねたのが近くに住む柴田是真だった。
持参した省亭の絵を見た是真は自分よりも菊池容斎に入門するよう勧め、是真自らが容斎の元へ連れて行き弟子入りが決まる。慶応二年(1866)16歳の省亭は神田東紺屋町の容斎の家に住み込みの内弟子となる(同じ年に三島蕉窓、2年後(明治元年)に松本楓湖が容斎に入門している)。容斎の教えは「書画一道」。しばらくは習字ばかりさせられた。習字の期間が終わると絵手本は与えられず「自然を手本とせよ、自分の眼で見て考えよ」という教えのもとで修行を重ねた。
しかし明治二年の暮れ(または明治三年の初め頃)、省亭は容斎から破門される。理由は定かではないが、師の草稿を勝手に持ち出したとの説もある。師から離れた省亭は困窮を極めた。収入の良い仕事をこなすこともできたが、画家として大成するにはそのような誘惑には堕ちないと自らを戒め「修養時代」を過ごす。
この頃の作品に現在ボストン美術館蔵の『牛若丸と弁慶図』がある。これには容斎の描いた『前賢故実』の「藤原朝臣保昌」からの影響が指摘されており、師から離れている間も私淑していることがうかがえる。
明治五年(1872)には生母の夫であった渡辺家を継ぎ、表札に「二代渡邊良助」と掲げるようになる。渡辺家の直系男子が次々早世して跡継ぎがおらず、生母のもとに身を寄せていた省亭が継ぐことになったのは自然の成り行きだったのだろう。同じ年、大久保一翁から松平定信の戯作「心の草紙」を絵巻物にする依頼を受けた菊池容斎が、省亭に制作を手伝うよう声をかけた。こうして破門から数年の後、省亭は許されたのだった。
パリへ渡航
明治八年(1875)、京橋木挽町九丁目にあった起立工商会の社長・松尾儀助から認められて同社に入社する。起立工商会は豪華な美術品の輸出を手がけており、工芸図案家として省亭と同じ容斎門下の鈴木華邨や三島蕉窓らも勤務した。ここでセンスを磨いた省亭は明治十年(1876)の第一回内国勧業博覧会で『金髹図案』で花紋賞牌を受賞する。
翌年(1877)開催されたパリ万博に『群鳩浴水盤ノ図』が選ばれて出品となる(この出品作は現在、アメリカのフリーア美術館に収蔵されている)。パリ行きを希望した省亭は社内のくじで選ばれて、起立工商会嘱託社員という肩書で日本画家として初めてフランスを訪問した。
フランス滞在中に省亭は浮世絵をフランスに広めた美術商・林忠正に連れられて日本美術愛好家のサロンに出向いた。そこで美術批評家のエドモン・ド・ゴンクールやエドガー・ドガら印象派の画家たちの前で日本画を描いて見せて驚嘆させる。ドガはその場で「ドガ君 省亭」と為書きさせた鳥の図を省亭に描いてもらい、終生愛蔵したという。この交流のなかで省亭は色彩や光の描法など西洋画の技法を学びとることになる。
帰国後の借金生活
帰国した翌年の明治十四年(1881)に結婚。翌年には妻・さくとのあいだに長男・義(よし・後の水巴)が生まれる。帰国後の省亭は極貧生活を送っており、金を借りられるところから借りていた。以下のような借金の逸話も残る。
月給は四十円で有るのを百円にして呉れと云ふので、遂に会社ではことわって仕舞った。(中略)仏国から帰る時西尾老人から二百フランを借りたのは遂に返済する事もしなかった 名古屋の村松彦七から借りた千円も絵をかいて返す筈なのを、絵をかいて行って又千円かりッ放しなどして評判の悪い画家で有った。―「西尾卓郎翁の談話」より
収入がないではなかったが、後述する江戸っ子特有の見栄っ張りな性格が借金の原因であったろうと思われる。
画壇の新しい動きへ積極的に参加
帰国してからの10年あまりに及んで、省亭は積極的に展覧会に作品を出品している。
出品年 | 出品展覧会 | 出品作 |
明治十四年(1881) | 第二回内国勧業博覧会 | 『雨後秋叢図』(妙技三等受賞) |
明治十五年(1882) | 第一回内国絵画共進会 | 『官女』 『安南泉埔寨河月夜真景』 |
明治十六年(1883) | アムステルダム植民地産物・輸出品博覧会 | 作品詳細不明(銀牌受賞) |
明治十六年(1883) | 第一回パリ日本美術縦覧会 | 『雪竹に鶏図』 |
明治十七年(1884) | 第二回パリ日本美術縦覧会 | 『雨中狗児』 |
明治十九年(1886) | 鑑画会第二回大会 | 『月夜ノ杉』(二等褒状受賞) 『夕ざくら』 |
明治二十二年(1889) | パリ万国博覧会 | 『雪竹ノ鶏』(銀賞受賞) |
明治二十三年(1890) | 第三回内国勧業博覧会 | 『雨中芦宿鴨図』(妙技賞牌受賞) |
明治二十六年(1893) | シカゴ万国博覧会 | 『雪中群鶏図』(東京国立博物館蔵) |
しかし、その作品の多くは焼失したり所在不明であったりで残念ながら現在鑑賞することができない。この頃描かれた現存する作品『雨中群鵜図』(明治十四年(1881)、ライデン国立民族学博物館蔵)を見ると、すでに省亭の花鳥画が名人の粋に達していたことがうかがえる。
日本美術協会の前身、龍池会で構想されたパリ日本美術縦覧会では、当時現役で活躍していた絵師に声がかかり、柴田是真・河鍋暁斎・橋本雅邦・川端玉章らの新作描きおろしが集められ、省亭もそのなかの一人だった。しかし作品を展示販売したパリでは当初の予想よりも人が集まらずに作品も売れず、毎年行う予定だった会は二回で立ち消えた。これをきっかけに龍池会は分裂。フェノロサや岡倉天心らが組織する鑑画会へとつながっていく。
当時の画壇では展覧会の作品内容の保守性に対する反動として、「鑑画会」「東洋絵画会」という新しい日本画を目指す会が興っていた。省亭はそのどちらにも参加した。東洋絵画会には創立同人として名を連ね、機関誌『東洋絵画叢誌』には省亭の描いた師・菊池容斎の肖像画も掲載された。鑑画会には作品を出品し、『月夜ノ杉』で二等褒状を受賞している。
濤川惣助との共同制作・七宝焼
省亭の仕事で注目すべき点として肉筆の他、涛川惣助(なみかわそうすけ)と共同制作した七宝焼きも外せない。新たな日本画を七宝に写すことを目指していた涛川惣助にとって、起立工商会で下絵を描いた経験もあり、受賞歴もある省亭はうってつけの役だったにちがいない。渡辺省亭と涛川惣助のコラボレーションの集大成が現在、迎賓館・花鳥の間を飾る花鳥画の七宝焼き30枚だ。
挿絵画家・省亭と裸体画論争
さらに省亭は明治前期における小説挿絵をささえた絵師のひとりでもあった。初期の本格的な仕事としては明治十七年(1884)、坪内逍遥がシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」を翻訳した『自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあぢ)』の挿絵が挙げられる。もともと同門の松本楓湖が登場人物を当時人気の歌舞伎役者に似せて描くことに乗り気だったが、西洋を舞台にした絵を描くには材料が乏しかったのか担当を降りてしまった。そこで指名を受けたのが省亭だった。ここでは省亭がフランスで見聞きしてきたことが洋風挿絵として生かされている。
挿絵画家として一躍名を知られるようになったのは、明治二十二年(1889)『国民之友』に掲載された歴史小説「胡蝶」に描いた挿絵による。省亭が描いた裸の胡蝶は、裸体画掲載が一般に受け入れられない世の中で、新聞雑誌で森鴎外や尾崎紅葉らが賛否の文章を発表するなど「裸体画論争」として社会問題化したのである。
もともとは小説の著者、山田美妙が省亭に裸体画を指定してきたことが始まりで、しかも省亭は美妙によって二度に渡って描き直しをさせられていた。わざわざ裸体画を指定した背景として、同じ雑誌に小説が掲載されていた坪内逍遥から話題をかっさらうため、美妙が仕掛けた「炎上商法」とみる説もある。
『美術世界』の刊行と北斎研究
明治二十三年(1890)省亭を編集者として多色刷木版美術雑誌『美術世界』が創刊された。発刊元の春陽堂の店主・和田篤太郎によって、当時活版印刷機の普及による雑誌ブームの流れに抗い、木版による和装本を刊行する構想から始まった。
第一号には岡倉天心が混沌子の名で寄稿するなど、省亭は編集主任として自身の絵師ネットワークを生かした。掲載作品として省亭が私淑する伊藤若冲、円山応挙、柴田是真、河鍋暁斎、小林永濯をよく取り上げている他、注目すべきは葛飾北斎とその門人が多いことが挙げられる。それまでの北斎研究は『東洋絵画叢誌』とその後身の『絵画叢誌』にわずかに掲載されるのみという扱いだった。
明治二十四年(1891)には『美術世界』でほぼ毎号のように北斎の図版が掲載され、翌年には川崎千虎が執筆した「北斎外伝」が誌上で発表された。これは、その後の飯島虚心の『葛飾北斎伝』刊行による北斎研究の盛り上がりにつながっていく役割を果たしたといえる。
しかし、明治二十七年(1894)省亭の病気によるシカゴ万国博覧会への出品画『雪中群鶏図』制作の遅れ、春陽堂の別事業での赤字も手伝い、『美術世界』は第二十五巻をもって廃刊となった。
孤高の晩年
積極的に展覧会に出品してきた省亭だったが、東京美術学校が開設され日本画の指導が狩野派中心となっていき、美校を退いた岡倉天心が組織する日本美術院中心の展覧会で美校出身者が受賞を占めるようになるのを見て、自ら画壇への関与から降りてしまう。
当時の美術院は岡倉天心の指導のもと狩野派の橋本雅邦が中心となっていた。省亭を私淑する美人画の名手・富岡永洗から日本美術院に参加するよう要請されたが「雅邦の下につくのはぢゃァいやだ」と無理なことを言って断ってしまった。この一件について息子の水巴に「惜しいことをしましたね」と言われると「薬味になるのはいやだよ」と笑ったという。
さらに画壇が制度化され、文部省美術展覧会(文展)が始まると省亭の嫌う派閥と情実審査がのさばる世界に変貌した。省亭は「私は展覧会共進会類に最初出品して居りましたが、其後卑劣な手段で賞牌を競ッたりするものが実際ありましたので私は急に出品といふことが嫌になり、パッたり廃めて居ました」と語っている。以降は富裕層からの注文に応じて肉筆の掛け軸を主として描いたという。
墓
大正七年(1918)、省亭は脳溢血で倒れ尿毒症と腎臓炎を併発。同年、4月2日自宅で亡くなる。花鳥画を得意とした省亭の命日は、俳人の吉野左衛門によって「花鳥忌」と名付けられた。法名は「法華院省亭良性修良居士」。墓所は葬儀が行われた台東区の潮江院。省亭の長男であり、俳人の渡辺水巴と共に眠る。
墓石の中台には右から「光枝」「省亭」「水巴」と刻まれているが、このうち「光枝」は狂歌師だった省亭の生母の夫・渡辺良助が号した「花迺屋光枝(はなのやてるえ)」から来ている。
逸話
せっかち省亭
省亭は短気でせっかちな性格だった。床屋に出かけた時には30分で終わらなければ承知しない。30分以上かかるものなら、剃りかけでも構わず飛び出して来てしまった。
パリで迷子
起立工商会社の社長に付き添い、パリに滞在していた時のこと。ひとりでブラリと散歩に出て、道に迷ってしまった。万策尽きて、巡査に道を尋ねようとしたが省亭はフランス語ができない。知っているのは「ジャッパン」だけだった。そこで巡査に「私ジャッパン」と繰り返すが、言われた方は何が何だかわかるわけがない。すると、そこへたまたま一人の日本人が通りがかり、やっと居所へ帰ることができた。
それからというもの、省亭が外出する時には起立工商会社支店の所在地を記した木札を身につけた。帰国後、省亭をフランスに付き添わせた社長は「いや、実に世話のやけたことでしたよ」と語っていたという。
二重の家庭生活
明治二十二年(1889)母のひさが亡くなると、省亭はもうひとりの女性・関本千代との二重生活が始まっていく。明治の男性中心社会の時代にあって裕福な男性が妻以外に「お妾さん」を持つことは珍しいことではなかった。
省亭には妻・さく、長男・水巴、長女・露が住む本宅と、関本千代が住んでいる別宅があった。別宅はアトリエとして使っており、毎夕仕事を終えた省亭が人力車で本宅に帰り、家族がそろって「お帰りなさい」と迎える。夕食と一家団欒の数時間を過ごした後、今度は「行ってらっしゃい」と別宅に送り出すのだった。公然と二つの家を通勤するかのように行き来する暮らしは省亭が亡くなるまで30年余り続いた。
関本千代とのあいだにも長女・ナツ、次女・久美が生まれて、二つの家にそれぞれ二人の子どもが成長していく。四人の子どもたちは兄妹のような交流があり、省亭没後もその関係は続いたという。
見栄っ張りの金遣い
省亭は相当な収入がありながら貧乏していた。それは金遣いが荒く、金が無くともあるかように見栄を張ったからだ。ある時、浅草の新堀端の自宅から両国まで行くのに料金も決めずに人力車へ乗り、さらに綱っ引き(注:人力車で急を要する時に梶棒に綱をつけて引く追加要員)をつけた。
鶏肉が大好きな省亭は薬研掘(現在の東日本橋)の不動尊の近くにあった「すがの屋」という店によく食べに行った。この店に人力車で乗りつけると、車夫にも鶏肉で酒を飲ませていたという。また、わずかな買い物であっても十円札を出して札束を切るということをしていた。
省亭と同じく菊池容斎門下の鈴木華邨が語ったこんな話がある。ある日の正午ごろ、省亭の家を華邨が訪問した時のこと、省亭は老母に天ぷらそばを注文させた。そのうち出前持ちがやってきたが「今までのお勘定は今日でなくともよろしゅうございますが、今日の分は直に頂戴してこいとの主人からの言いつけです」と言われてしまう。省亭の母は「今来客中だから…」と言っても出前持ちは頑として承知しない。
そんなやりとりが薄壁一枚隔てて、華邨にも手に取るように聞こえてくる。茶をすすめられても喉を通らない。そこで華邨は便所へ行くふりをして立ち、省亭の母に五十銭を与えて払わせた。こうして出前持ちは帰って行ったが、華邨が戻ってみると省亭は「おい鈴木君、何を遠慮しているのだ、食ったらいいだろう」と言う。省亭は華邨がお金を払ったことを知らないはずがない。そんな言葉を省亭から聞き、さすがの華邨もあきれ返ってしまったという。
貝柱の山葵
省亭の一番の好物は貝柱の山葵(わさび)だった。
代地河岸に七代目澤村宗十郎の妻の祖父にあたる人が亭主をつとめていた鶴長という待合茶屋があった。そこへ三十代半ばの省亭がある芸者とこっそり出かけていった。省亭は「別に何もいらないから貝柱の山葵一品だけでいいから小早く『あっさり』やってくれ」と女将に注文。
しかし女将はずぶの素人だったため、一品だけの代わりに『どっさり』と解釈したらしく、やがて貝柱の山葵は天ぷらの種にしても四、五十人前は大丈夫というほどの量が出てきた。これには省亭も開いた口がふさがらず「いくら俺が好きだからつって、何ぼ何でも…こいつァ驚いた」
後に、その話を鶴長の女将から聞いた浅草の割烹店・深川亭の女将は、省亭が初来店した際、黙って貝柱の山葵を出した。すると省亭は「どうして俺の好きなものを知ってるんだ」と尋ねた。女将が「天ぷらの種にしても四、五十人前は召し上がるそうですから…」と答えると「こいつァかなわない」と省亭は脱帽。以後、深川亭は省亭の行きつけの店になったという。
着物の帯に揮毫
大正五年(1916)の師走初め、とあるお屋敷から「金は幾らかかってもかまわんから、帯へ揮毫してもらいたい」と、行きつけの深川亭の女将を通して省亭に依頼があった。しかし、省亭は「いくら金を積まれても腰へ巻くものに描くのは嫌だ。…金の為には描かないよ…」と断ってしまった。
ところがそれから間もない12月15日、行きつけの芸者屋・福田屋に出かけた省亭はご贔屓の芸者、お琴・小豊の二人に「帯を描いてやろう」と言って、あらかじめ取り寄せておいた塩瀬帯にその場で金泥で揮毫したという。
雁次郎の扇
上方歌舞伎役者、中村雁次郎(後の初代中村雁治郎)が久々に大阪から上京し、歌舞伎座の舞台に上がるという時のこと。雁次郎が配る扇面の揮毫を浅草駒形の紙商・保壽堂を通じて省亭に依頼があった。省亭は「他の役者なら御免だが雁次郎なら描こう…」と快諾。
ところがそれから省亭は丹毒を患い、医者から一切筆を持つことを禁じられてしまった。一方で雁次郎の上京の日がせまっている。困り切った保壽堂は病床の省亭を訪ねて事情を話すと「そりやァ困るだろう…俺もこの通りの熱で当分絵は描いちやァいけねェと医者から止められているんだが、保壽堂の顔を潰しちやァ気の毒だから…」と医者に内緒で扇面に揮毫し、事なきを得た。
その後、三年ほど経ち、再び雁次郎が上京することになった。前からの繋がりもあって雁次郎から保壽堂に扇面の注文があったが、お金の折り合いがつかず注文はついに取りやめになってしまった。そのうち雁次郎が上京して歌舞伎座が開場したが、その時に配られた扇面が問題になった。
それは以前、省亭が病のなかで描いた絵をそっくりそのまま大阪で複写して、立派に保壽堂という名義が入っているものだったのだ。その出来はお話にならないほどの粗製品。これをどこかで見たであろう省亭がある晩、保壽堂に怒鳴り込んできた。「保壽堂ともある者があんなヤクザな扇をこしらえて平気でいるのは呆れ返ったものだ」「実に見下げはてたものだ」「江戸っ子の面汚しだ」と頭ごなしに罵倒を続けた。
しかし保壽堂の言い分を聞いて、先方が大阪で複写して粗製品をこしらえたという事情がわかると、省亭はたいそう喜び「それでようやく安心した。江戸っ子の保壽堂がまさかとは思ったんだが…向こう見ずに怒鳴ったことは勘弁しておくれ」と言うと、しまいには笑い話になり「やっぱり贅六(注:江戸っ子が上方の人をけなしていった言葉)は贅六だ」と上機嫌になって保壽堂と盃をかわして帰って行った。
この時の扇面には、雁次郎にちなんで墨絵の『雁』が描かれていた。この扇面の件について省亭は息子で俳人の水巴に向かって、こう話したという。「今度の扇の『雁』はとんだ『贋』だ」
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参考資料
『書画骨董雑誌』第244号「渡辺省亭の逸事」岡田梅邨
『曲水』1932年5月号「渡邊省亭の話」渡邊水巴
『日本美術協会報告 第22集』「西尾卓郎翁の談話」香取秀真
『暁斎』第91号「暁斎の周辺の人々―渡辺省亭―」鈴木美絵
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フリーア美術館アーカイヴ
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