肉筆浮世絵の贋作事件として、現在でも一番最初に名前の挙がる「春峰庵事件(しゅんぽうあんじけん)」。前回記事の続きとして事件関係者のその後を追ってみた。
※前回記事をお読みでない方は先に下記関連記事をご覧ください。
スポンサードリンク
春峯庵事件関係者のその後
笹川臨風
笹川臨風(ささがわりんぷう)は「春峯庵事件」でもっとも実質的な被害を受けた人物といっていいだろう。贋作をベタ褒めしたことが春峯庵画集の序文という形で記録に残され、事件発覚後は、矢田家に描かせた「ニセモノ」と「ホンモノ」を並べて見分けさせるという警察の取調べに対して、また見誤るという失態を犯した。その一切を連日実名で報道されて、浮世絵界での権威は失墜、全ての公職から身を引くことになった。
致命的だったのは、春峯庵事件発覚後も「ホンモノ」であると主張したこと、そして警察の取調べで再度見誤ったことだろう。まさに事件が発覚した1934年5月23日の読売新聞には次のような自信に満ちたコメントを残している。
浮世絵の鑑定は極めて困難なものでその道の大家といはれてゐる人々のなかにもしばしば間違ひがある、しかし私は人の鑑定違ひを指摘したことはあるが未だかつて自分が鑑定を誤つたことはない(中略)もし私の眼が間違つてゐたら私は今後断じて鑑定はやらないよ
結局、贋作だと観念したのは、同年5月31日までかかってしまった。取り調べに対して次のような供述をしていることが東京朝日新聞に掲載された。
あの画を持ち込んで来た清水源泉堂(書画骨董商)の話を過信し軽率にも真物ときめてかゝつたものでした
警察の取調べで再度見誤ったことについて、贋作のプロデュースを行っていた矢田三千男の見立ては少し違った。笹川臨風が「春峯庵モノ」を見誤った時と警察の取調べで見誤った時では性質がまるで違うという。つまり「ニセモノ」と「ホンモノ」を同時に並べられて、その判別を誤るということはあり得ないと。警察での取調べでの見誤りは、前科者にならないための笹川教授の一世一代の芝居だったというのである。
事実はどうあれ笹川教授は事件後、浮世絵とは離れていった。もともと史料編纂などで業績があったため、歴史家として『赤穂義士研究』『和歌から見た日本女性』などの著作を残している。
藤懸静也
笹川臨風に代わって浮世絵研究の権威に躍り出たのは、東京帝国大学教授で浮世絵を専攻していた藤懸静也だった。昭和九年(1934)には「春峯庵事件」が起きる前に、浮世絵の起源は岩佐又兵衛より遥か以前にあった絵巻にあって、又兵衛はそこから派生したひとつの流派に過ぎないとの学説を発表し、文学博士の学位を授与されていた。
しかし、彼はすんでのところで春峯庵事件から「命拾い」した点がうかがえる。藤懸教授が初めて「春峯庵」の品々を下見した際、その内容の豪華さに驚き、重要美術品指定にそなえる写真撮影を文部省および入札会札元の川部商会に働きかけたという話があるからだ。矢田三千男は実名こそ挙げなかったものの手記で次のように書いている。
下見の第一日に、文部省からだと云って札元の川部商会へ電話があって、春峰庵蔵品のうち、数点を重要美術品に指定したいから、写真の撮影に協力してもらいたい、というのである。
下見の会場へ係員と称する男と、写真師がやって来て、数点を撮影し悠々として引揚げて行ったが、その翌日になって川部商会へその係員という者が慌ただしくやって来て、昨日の写真撮影のことは極秘にしてくれ、都合で重美指定は中止になった――と云って来たのである。
しかし、贋作をすっぱ抜いた読売新聞の取材を受けた際の藤懸教授は、すぐに見極められたと主張している。
私も十三日に下見に行きましたが、十七点は全部こしらへたものです、其道に明い者が一生懸命に描いたものらしいが玄人が見ると絵具が光つてゐたり、すゝが故意につけてあつたりして偽物だといふことがすぐわかります(後略)
こうして事件後、藤懸教授は春峯庵にだまされなかった文学博士として浮世絵界の権威となる。『浮世絵の研究』など、浮世絵に関する著作を残した他、国華社の主幹となり美術雑誌「国華」の編集の中心となっていった。
矢田三千男
贋作制作をしていた矢田家のなかでプロデューサー的な役割をしていた長男・三千男(みちお)。彼の浮世絵に関する知識は、生半可な学者以上だった。大正十年(1921)には『浮世絵の価値と鑑賞』という著作を発表し、伊東深水や川瀬巴水の浮世絵版元として知られる渡邊庄三郎から序文を書いてもらっていた。
事件後も浮世絵研究を続け、昭和三十二年(1957)には岩佐又兵衛に関する研究成果を彼の個人雑誌「彩雲」のなかで発表している。従来の文献を網羅・整理したものでよくまとまっているという。岩佐又兵衛研究は関東大震災後から続けていたと思われ、春峯庵事件で赤座文琳に描かせた贋作は「裏の研究成果」といっていいだろう。
また江戸期の文人画家、浦上玉堂の研究を160ページの稿本にまとめ、玉堂が岡山藩を脱藩する理由として「陽明学を信奉していた玉堂は、朱子学を主流とする藩の権力者に弾圧されていた」とする新説を発表し、研究者をうならせた。
しかし、「春峯庵事件の矢田」とあっては文筆家にも学者にもなれず、浮世絵模写画のプロデューサーという元の道に戻るとともに、古美術蒐集家の影の顧問売り手という職に就くより他になかった。「弁舌も爽かであり、筆もよく立つ。多趣味多方面の才人」とも評された三千男は、古美術蒐集家の富裕層への取り入り方もうまかったようだ。
現在、林原美術館(岡山県岡山市)の収蔵品となっているカバヤキャラメル社長・林原一郎のコレクションに、一時は顧問として蒐集に携わっていた(後に高額な手数料を売り手から受け取ったことがバレてしまい解雇されている)。またコスモ石油の前身、丸善石油の社長・和田完二が作った宇宙の宮美術館(大阪府箕面市、すでに閉鎖)の収蔵品蒐集に関わったり、日通が伊豆に作った富士見ランド内の資料館に常設展示されていた長崎版画・横浜版画を入れたのも自分だと語っていたという。
吉川金満(矢田金満)
矢田家の末弟として生まれた金満は、母方の養子に出て吉川姓を名乗った。春峯庵事件当時、未成年(16歳)で犯意もないとみなされて罪は免れた一方、学者の目を騙した贋作を描いた「天才少年」としてマスコミに祭り上げられた。
ジャパン・タイムスでは矢田家のアトリエ訪問記を1ページを割いて掲載。当時のタイムスの社長は、戦後に総理大臣を務めた芦田均だった。芦田の口添えによって金満少年は根津嘉一郎の支援を得る。根津の支援によって、春峯庵事件が公判中にもかかわらず、昭和十年(1935)5月に日本橋の白木屋にて次兄・修と共同で新しく制作された作品の「矢田模作展覧会」が行われた。
価格は春峯庵のときよりも抑えたものではあったが、喜多川歌麿、鳥居清長、葛飾北斎、岩佐又兵衛、鳥文斎栄之、奥村政信といった浮世絵師の模写展示品が招待日には全て売約されたという。当時の新聞(「読売新聞」1935年5月28日)にも「作者が若し過去の失敗なく天下に此の「模写」を最初に見せたらまさしく一代の喝采と称賛を受けたに違ひない」と評されている。
展示品制作のため、根津嘉一郎の持つ箱根の別荘を提供され、事件終結後は海外へ流出した浮世絵の名品を模写するための渡米が予定されていた。しかし、もともと肺結核を病むなど身体が弱かった金満は、白木屋での展示品制作の過労がもとで制作中の作品の上に大量の喀血をしてこの世を去った。わずか18歳という若さだった。
金子孚水
本名は清次といい、孚水(ふすい)の号は25歳頃に画家・小杉未醒(小杉放庵)から浮世絵に一生を捧げるのだからと「浮」の字を2つに割って付けられた。
春峯庵事件前から肉筆浮世絵の保護運動を提唱してきており、事件後も国立浮世絵美術館建設の必要を議会に働きかけて、昭和十二年(1937)には建議案可決までこぎつけたが、支那事変勃発でうやむやになり、戦争拡大により途絶えてしまった。戦後は若い頃から続けていた浮世絵展を各地で開催している。
浮世絵に関する著作も数多く、主要著書としては『浮世絵肉筆画集』『北斎と浪千鳥秘画帖』などがあり、『肉筆浮世絵集成』の監修も行っている。
浮世絵師のなかでは特に葛飾北斎への思い入れが強く、昭和四十二年(1967)にはソ連で「北斎展」を実現、日中国交正常化の際には中国側に「葛飾北斎展」の挙行を熱望する趣旨書を提出し、これも実現させている。また、信州小布施の北斎館開館にも尽力している。
しかし昭和三十九年(1964)に孚水が刊行した『北斎翁森羅万象画集』では、河鍋暁斎作品が混ざっていたり、春峯庵モノの贋作が収録されていたりすることが矢田三千男から指摘されている。一方、孚水も昭和四十年(1965)5月号の月刊『浮世絵』上で矢田製贋作の写真を「最近の証拠」として掲載し、矢田三千男を次のように断罪した。
しかし矢田は、これは模写を作っていると逃げるでしょう。けれでも第三者は真ん物として引っかかる。たしかに病気ですよ彼は。いや恐ろしい世をあやまる病気ですね。
2人の批判合戦は、春峯庵事件や贋作問題が今に続く根深さを象徴している。
小説 春峰庵 浮世絵贋作事件
春峯庵事件を取り上げた小説に取り掛かった吉川英治は御成道一派、つまりだまされた側視点から書き始めて連載を始めた。しかし「私は小説には善人しか書きたくない。この事件の関係者が悪者ばかりと判っては、書き続けるわけにはいかなかった」として8回で中断されたという。
そんな事件を見事に描き切ったのが本作。事件の顛末のみならず、矢田家のルーツから詳細に描かれている。岡山出身の著者・久保三千雄は、岡山在住の頃に矢田一家をみかけたことがあったという。そんな縁もあってか事件前後のルポという形ではなく矢田家に焦点を当てた小説という形を取っており、事件関係者の生々しい人間性がより露わになっている。
あくまで「フィクション」のため、登場人物は全て仮名となっているが、ほとんど事実に沿って物語は進行している。大概の登場人物は実在する人物をモデルとして描かれているといっていいだろう。事件の本質に迫ることのできる本作は、春峯庵事件に興味がある人のみならず、贋作を取り巻く実情を知るうえで美術ファン必読の書である。「春峯庵から発見された」という筋書きを描いた人物まで描かれているが、それは読んでからのお楽しみ。以下に示す、小説のなかの登場人物と実在の人物との対応表は読む際の参考にご覧いただきたい。
登場人物(仮名) | 実在の人物 | 登場人物(仮名) | 実在の人物 |
矢野専太郎 | 矢田三千男 | 米田次郎 | 野口米次郎 |
矢野平九郎 | 矢田千九郎 | 宇垣博 | 宇井博 |
矢野治 | 矢田修 | 北大路清澄 | 渋谷吉福 |
吉澤満 | 吉川金満 | 大村大作 | 木村東介 |
赤枝琳風 | 赤座文琳 | 近常六郎 | 近松八郎 |
浮田金次郎 | 金子孚水 | 窪田稔 | 小松悌八 |
水田尚治 | 清水直治(源泉堂) | 佐久間平太 | 佐野平六 |
竹内薫風 | 笹川臨風 | 国富庄三郎 | 邦枝完二 |
藤田誠一 | 藤懸静也 | 高津明治 | 高見沢遠治 |
大垣渓山 | 大曲駒村 | 中村益夫 | 上村益郎 |
まとめ
春峯庵事件は関わった人物の人生を変えた。事件後を追ってみると、贋作を見分けられなかったとして罪を免れた笹川臨風が浮世絵界には復帰できず、贋作に関わったとして罪に問われた矢田三千男や金子孚水が形は違えど浮世絵界に戻っているという、皮肉な結果となっていた。
次回は「笹川臨風をはじめ浮世絵評論家たちがどうして矢田家の贋作にだまされてしまったのか?」を取り上げてみたい。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
よろしければ応援クリックをお願いします!
にほんブログ村
参考資料
『芸術新潮』1957年12月号「真説・春峰庵偽作事件」矢田三千男
『芸術新潮』1967年4月号「春峯庵プロデューサーの死」白崎秀雄
『浮世絵芸術』第58号「この道ひとすじ浮世絵の道 ―金子孚水師を偲ぶ―」青木新三朗
『歴史読本』1985年12月号「春峯庵「写楽」贋作事件」水野泰治
『日本美術年鑑』昭和34年版
『日本美術年鑑』昭和54年版
「東京朝日新聞」1932年5月16日朝刊「偉なるかな北斎 本年は生誕百七十年」
「東京朝日新聞」1934年3月1日朝刊「浮世絵の紀元は又兵衛以前 新文博・藤懸氏の論文」
「東京朝日新聞」1934年5月23日夕刊「幽霊「名門」で釣り ニセ逸品売立て」
「東京朝日新聞」1934年5月31日朝刊「認識不足の折紙 笹川博士も認む」
「読売新聞」1934年5月23日朝刊「鑑定三大家が対立 浮世絵「ニセ」論争」
「読売新聞」1935年5月28日朝刊「浮世絵模写展」