白隠や仙厓などの展覧会で改めて注目されている禅画。禅画とはそもそも何なのか、そして禅画でよく描かれる達磨についてまとめてみた。
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目次
禅画とは
「禅画」とは禅宗の教義や精神を表現した絵画のこと。「禅画」という言葉自体はそれほど古いものではなく、ドイツの美術史家クルト・ブラッシュが1957年に『白隠と禅画』、1962年に『禅画』と立て続けに著作タイトルで使ったのが早い使用例。それまでは禅僧が描いた絵として「遺墨」「禅林絵画」「禅宗絵画」という言葉が使われていた。
美術史家のあいだでは「禅画=近世以降の禅僧が描いた絵画」との狭義で使われているが、近年では展覧会のタイトルに用いられるなど「禅画」という言葉も一般化してきている。また「禅画」は禅僧に限らず、長沢芦雪など禅宗に影響を受けた絵師たちも描いている。
画題になった達磨伝説
願いが叶ったら黒目を書き入れたり、「だるまさんがころんだ」「だるま落とし」などの遊びでも知られる達磨。いずれも禅宗の開祖、菩提達磨(ぼだいだるま)がモデルとなっている。南インドの香至王の第三子として生まれた達磨。その生涯は、伝説めいたエピソードがいくつもあり、それがそのまま画題として使われることが多い。代表的な画題となった「達磨伝説」は以下の通り。
武帝との問答(芦葉達磨)
普通8年(527)、中国南北朝時代の南朝にあたる梁(りょう)の国を治めていた武帝に達磨は謁見する。仏教を厚く信仰していた武帝は達磨と次のような問答を行った。
形としての行いや形あるものを求めるのではなく、真理を追究しようとする精神を理解できなかった武帝と達磨の会話はこうしてかみ合うことなく終わった。ここには縁がないと考えた達磨は揚子江を渡って北魏へ向かい、後に嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に入った。
この時、揚子江を芦の葉一枚に乗って渡ったという伝説から芦葉達磨(ろようだるま)という画題が生まれた。揚子江を渡ったことから渡江達磨(とこうだるま)とも呼ばれる。逸話どおり、芦の葉一枚の上に立っている姿の達磨を描く画題だ。なお、狩野芳崖の弟子、高屋肖哲は武帝と達磨の問答する姿を描いた「武帝達磨謁見図」を残している。
九年間、壁に向かって座禅(面壁九年)
嵩山少林寺に入った達磨は九年の間、壁に向かって座禅をした。ここから面壁九年(めんぺきくねん)といって「一つのことに忍耐強く専念すること」を意味する故事成語が生まれている。九年間も座禅を続けていたら、手も足もなくなってしまっただろうと赤い服を着た座禅姿の張り子の底におもりを入れた起き上がり小法師が作られるようになった。画題としては、手や足が衣のなか、顔だけを衣から出している達磨姿が描かれる。
浮世絵では、達磨が遊女と一緒に描かれたり、達磨のような赤衣を着た美人として描かれたりすることがある。これは面壁九年を行った達磨から、苦界十年(遊女として働ける10年のあいだで身を売った代金を返す苦しみ)と言われた遊女を連想させるものがあったからだろう。
慧可が自らの腕を切り落として弟子入り(慧可断臂)
嵩山少林寺で九年間、座禅をした達磨の噂を聞きつけた慧可(えか)は達磨に仕えて弟子入りを志願。しかし、達磨は知識の深かった慧可を信用せず、弟子入りを許さなかった。
ある寒い冬の朝、慧可は達磨への弟子入りを求めて、達磨のもとを訪問。達磨が座禅中だったため、慧可は雪が降る外で手を合わせて待つことにした。2日目の朝、ようやく達磨が座禅を終えて目を開けると、慧可のひざまで雪で埋まっていた。
そこで慧可は自らの左腕を切り落として決意のほどを示したところ、達磨はすぐにケガの治療をさせて弟子入りを許したという。慧可は達磨大師の法と袈裟をついで二祖となった。
この逸話から、雪の中で立ちつくす慧可を描いた雪中慧可(せっちゅうえか)、左腕を切り落とした慧可を描いた慧可断臂(えかだんぴ)といった画題があり(※臂=ひじ)、雪舟が描いた「慧可断臂図」がよく知られている。
死後よみがえった達磨(隻履達磨)
達磨は亡くなった後も伝承がある。西域に使いに行った魏の宋雲(そううん)は祖国に帰る途中、片方の靴を抱えた僧に出会った。
宋雲が帰国すると、僧が言っていた通り、彼を使いに出した魏の明帝は亡くなっており、後継の孝荘帝が即位していた。宋雲から僧の話を聞いた孝荘帝が達磨の棺を開けてみると、達磨の遺体はなく片方の靴のみが残されていた。そこから宋雲が出会った僧はよみがえった達磨ではないかと言われている。この逸話をもとにして片方の靴を抱えた達磨を描いた隻履達磨(せきりだるま)という画題が生まれた。
来日した達磨(片岡山達磨)
日本にも達磨の逸話がある。推古21年(613)の冬、聖徳太子が大和の片岡山を訪れた時、飢えて病気にかかっていた旅人に出会った。聖徳太子は、その旅人に衣食を与え、和歌を交換した。
翌日、その旅人の様子を使いに見に行かせると彼は亡くなっていた。太子はその旅人のために塚を作って手厚く葬った。ところが数日後に改めて見るとその遺体は消えている。後に隻履達磨同様にあの旅人は達磨だったのではないかと言われるようになった。この逸話から片岡山達磨という画題が生まれ、筵(むしろ)にくるまり、肩ひじをついて寝転がった乞食の姿で描かれる。
また草書体の「忍」や「愚」の字で達磨が座禅をする姿の一部をあらわしたり(忍達磨、愚達磨)、達磨の衣文線を「心」の草書体であらわしたりすることがある。こちらも白隠の作例が多い。
まとめ
芦葉達磨
・芦の葉に乗っている
・武帝との問答で失望した達磨が北魏へ向かうため、揚子江を渡っている姿
・武帝との問答の姿を描いた絵もある
起き上がり小法師
・顔以外は衣に身を包んでいる
・嵩山少林寺で九年間、座禅をしていた姿
・「忍」などの字であらわされることもある
慧可断臂
・左腕を切り落とした慧可
・弟子入りを許されなかった達磨に対して、慧可が決意を示すため左腕を切り落とした逸話から
隻履達磨
・片方の靴を持っている
・達磨が死後よみがえった姿
・棺桶にはもう片方の靴のみ残されていたことから生まれた逸話が元になっている
片岡山達磨
・肩ひじついた乞食として描かれる
・聖徳太子と和歌を交換した旅人の姿
・亡骸が無くなっていたことから「隻履達磨」と結び付けられて達磨といわれるようになった
達磨図(留守模様)
・芦の葉や片方の靴など達磨に関連の深い事物だけが描かれている
・達磨を描かずに達磨を暗示させる仕掛け
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