前回紹介した達磨以外にも禅画の画題となっている禅師たちがいる。今回は、現代の常識からは計り知れない禅師たちのエピソードが、どんな画題となっているか調べてみた。
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目次
画題になった達磨の直系弟子たち
前回紹介した「慧可断臂図」に登場した達磨の弟子・慧可(えか)以降も達磨の教えを継いだ禅師たちが画題となっている。単独で画題となっている禅師として知られている五祖・弘忍(ぐにん)と六祖・慧能(えのう)の二人にはこんな逸話があった。
弟子入りを拒まれて、生まれ変わって弟子になる(五祖荷鋤図)
松を植える仕事をしていた栽松道者(さいしょうどうじゃ)と呼ばれていた老人が、達磨から数えて四代目の祖師(四祖)、道信(どうしん)に弟子入りすべく、破頭山のお寺を訪ねた。
あきらめきれない栽松道者は、水辺で洗濯をしていた女性に声をかけた。
家に帰るとすぐに女性は栽松道者を腹に宿し、生まれた子供がやがて道信に見出されて弟子となった。そして後に道信の教えをついで五祖・弘忍となったという逸話から画題が生まれた。
弘忍が生まれ変わる前、鋤(すき)をかついで松を植えに行く栽松道者の姿を描いたものを五祖荷鋤図(ごそかじょず)とよぶ。栽松道者の頃の姿ということから五祖栽松図(ごそさいしょうず)とよぶこともある。画像は長谷川等伯が描いた五祖荷鍬図で南禅寺天授庵の障壁画のひとつ。
お経を聞いて悟りの境地へ(六祖挟担図)
達磨から数えて六代目の禅宗の祖師(六祖)・慧能。父を早くに亡くし、老いた母と薪を売り歩く貧しい生活を送っていた。ある日、薪を売り終えて帰ろうと城門を出ると、お経を唱える僧侶に遭遇する。お経を聞いた慧能はたちまち悟りの境地に達したといわれている。ここから薪を運ぶのに使っていた天秤棒をかついで、お経に聴き入る姿を描いた六祖挟担図(ろくそきょうたんず)という画題が生まれた。
長谷川等伯は杵(きね)をかついだ作務衣姿の六祖・慧能を描いている(南禅寺天授庵障壁画)。これは慧能がお寺で僧と認められず、作務として8か月間ひたすら唐臼(からうす)を踏んでいたという逸話から生まれた六祖唐臼図(ろくそからうすず)と六祖挟担図が結びついた結果、穀物をつく唐臼と薪を運ぶ天秤棒が合わさって杵という形であらわされた図様と思われる。六祖唐臼図は、達磨図の「留守模様」同様、唐臼のみ描かれる場合もある。
さらに慧能は、竹を切っている時に悟りを開いたとする六祖截竹図(りくそせっちくず、ろくそさいちくず)や六祖破経図(りくそはきょうず)という画題でも描かれる。六祖破経図は、読み書きができない「文盲」であったにもかかわらず、五祖・弘忍から後継者として指名されて六祖となったことから、悟りは経典に書かれたものではなく、自身の体験から得るものだとする思想をお経を破り捨てる姿として描かれたもの。
禅宗法系図と画題(達磨から六祖まで)
画題になった唐時代の禅師たち
画題になっている禅僧のうち、特に多いのは中国・唐時代の禅師たち。これは唐時代(618年-907年)が長かったことや、画題のもととなっている『五灯会元(ごとうえげん)』『碧巌録(へきがんろく)』といった仏教書が唐時代の次の宋時代にまとめられたからではないかといわれる。禅画の画題として知られるエキセントリックな禅師たちの逸話の数々をご覧あれ。
南泉、猫を斬る(南泉斬猫図)
あるとき、僧侶たちが飼っていた猫をきっかけにケンカを始めた。南泉普願(なんせんふがん)は、僧侶たちが悟りを得るキッカケにしようと、猫を捕まえて次のように言い放った。
僧侶たちは何も答えることができず、猫は南泉の手によって斬り殺されてしまった。しばらくして南泉の弟子、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)が帰ってきた。南泉は先ほど起きたことを話した。
長谷川等伯が描いた南禅寺天授庵の障壁画には、南泉が猫を斬ろうとしている南泉斬猫図(なんせんざんみょうず)、趙州が頭の上にクツをのせた趙州頭載草鞋図(じょうしゅうずたいそうあいず)があり、この逸話から2つの画題が生まれていることがわかる。
一方、仙厓(せんがい)が描いた南泉斬猫図では、絵の上に「猫だけでなく、ケンカを始めた僧侶たちも南泉も斬り捨てよ」という意味の言葉が書かれており、殺生戒を犯してまで教えを説こうとした南泉への疑問を投げかけ、既成概念や禅の定石に収まらない解釈を披露している。
猫を殺すという行動はなかなか理解しがたく、南泉は後悔していたから趙州だったらどうしていたか聞いたのではないか、趙州は師の本末転倒ぶりを頭にクツをのせることで語らず示したのではないか、など今でもさまざまな解釈がなされている。
丹霞、仏像を燃やす(丹霞焼仏図)
あるとき慧林寺(えりんじ)にやってきた丹霞天然(たんかてんねん)。あまりの寒さをしのぐため、寺にあった木の仏像を燃やして暖を取り始めた。これを知った和尚が慌ててやってきた。
その当時も今も罰当たりだと非難されるような行いだが、仏像をおがむことが形だけのものになっていないか、仏像ではなくおがむ人の方にこそ仏の心が宿っているのではないか、など改めて仏像をおがむ意味について考えさせられる。
この逸話から仏像を燃やす丹霞の姿を描いた画題、丹霞焼仏図(たんかしょうぶつず)が生まれた。
画像は長沢芦雪が描いた別々の絵を六曲一双の屏風に仕立てた「絵変わり図屏風」の丹霞焼仏図。仏像を燃やしたうえにお尻を向けて暖を取る丹霞の姿は、不謹慎を通り越して可笑しい。
懶瓚、牛の糞で芋を焼く(懶瓚煨芋図)
唐時代の僧、明瓚(みょうさん)は世間のわずらわしさから逃れ、山奥に隠居し、残飯を食べて懶(なま)け者のように暮らしていたことから、懶瓚(らいさん)とあだ名で呼ばれていた。
懶瓚の噂を聞きつけた唐の皇帝・粛宗が懶瓚禅師を招こうと使者を遣わしたところ、牛の糞を燃やして焼いたイモを、鼻水を垂らしながら食べている最中だった。皇帝の言葉を伝えてもイモを食べ続けていたため、使者はこう語りかけた。
使者から懶瓚の言葉を聞かされた皇帝は感心したという。『碧巌録』収録の、この逸話から懶瓚煨芋図(らいさんわいうず)が生まれた。
別の書では、懶瓚がタダモノではないと見抜いた唐の高官・李泌が懶瓚から牛糞で焼いたイモを分けてもらい「おまえさんは宰相として10年働くことになるだろう」と予言されるという話になっているが、描かれる姿は同じだ。
蜆子和尚、海老を食べる(蜆子猪頭図)
蜆子(けんす)とはシジミのこと。蜆子和尚は中国唐末の頃にいた禅僧で、本当の名前はわかっていない。夏も冬も同じ着物を着て、夜が明ければシジミやエビを採って食べ、日が暮れれば山に帰り、紙銭(お金の形に切った紙のこと。葬送の時に棺のなかにおさめられた)のなかで寝て暮らしていた。そこで人々は蜆子和尚と呼ぶようになった。出生地も不明で謎が多い。
あるとき、蜆子和尚の噂をききつけた華厳(けごん)禅師が紙銭に潜り込もうとした和尚を捕まえて次のように尋ねた。
一見すると意味不明な回答だが、すべてのことが仏の働きと考えれば、達磨が中国にやってきたこともお酒をのせる台盤があることも同じといえる。答えを聞いた華厳禅師は捕まえた手を離し、蜆子和尚のことを認めたという。
蜆子和尚が画題となるときは、片手に網を持ち、エビをつまみあげたり、採ろうとかまえたりする姿で描かれる。また蜆子和尚同様、殺生戒を犯して猪の頭を食べていたことから猪頭(ちょとう)和尚と呼ばれた志蒙(しもう)という禅僧とセットで蜆子猪頭図として描かれることもある。猪頭和尚は人の災いや幸福を予言することができたという。
船子、夾山を船から突き落とす(船子夾山図)
船子徳誠(せんすとくじょう)、道吾円智(どうごえんち)、雲巌曇晟(うんがんどんじょう)の三人は薬山惟儼(やくざんいげん)禅師の元、弟子として一緒に修行をする身だったが、薬山禅師が亡くなって三人は別れ別れとなった。別れ際、船子和尚は二人に、優秀な僧が現れたら自分のもとによこすように、見どころのある者には自分から師の薬山禅師の教えを授けようと伝えた。
その後、船子和尚は小舟を浮かべて河渡しをしながら、人々に教えを説いていた。一方、道吾和尚は道で僧と問答をしていた夾山善会(かっさんぜんね)に出会う。道吾和尚は、夾山がつくべき師から教わるべきと感じ、夾山に船子和尚のもとに行くよう伝えた。夾山は船子和尚のもとを訪れて言葉を交わした。
そう言うと、船子和尚は持っていた櫂(かい、オール)で、何か言おうとしていた夾山を水中に叩き落した。船に這い上がろうとする夾山に対して「言え言え!」と急き立て、夾山が何か言おうとすると再び櫂で叩くのだった。夾山はそこで悟りを得た。その後、船子和尚は夾山に教えを伝承するよう託して送り出した。
夾山は何度も船子和尚の方を振り返って別れを惜しんだ。すると船子和尚は「私のことは思うな」と言って、櫂を船底に突き立てて船を転覆させて入水したと言われる。衝撃的なラストを迎えた逸話だが、船子和尚は夾山に教えの全てを託したということなのだろう。
船子夾山図(せんすかっさんず)の画題で、長谷川等伯が南禅寺天授庵の障壁画で描いたのは、別れを惜しむ夾山と櫂を突き立てる直前の船子和尚の様子。長沢芦雪は、船子和尚が夾山を水中に突き落として悟りを得るのをうかがう様子を描いている。
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まとめ
今では犯罪そのものだったりする、エキセントリックな禅師たちの逸話が禅画の画題となっていることを見てきた。描かれた背景には禅の教えの深い理解があったのか、独自の解釈があったのか、はたまた単なる画題として踏襲されただけのものなのか、想像してみると興味深い。改めて禅画と対峙したとき、どんな感想を持ち、どんな解釈を得られるだろうか。
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関連資料
『季刊 永青文庫 No.99』「南禅寺天授庵と細川幽斎」
『開館二十五周年記念 長沢芦雪展 京のエンターテイナー』図録 愛知県美術館・中日新聞社編
『開館50周年記念 大仙厓展』図録 出光美術館編