浮世絵グルメシリーズ3回目は銀座天國をご紹介。といっても今回取り上げるのは浮世絵ではなく新版画。お店の歴史、新版画とは何かというところから笠松紫浪の紹介とともに銀座天國の天ぷらを食レポしてみた。
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目次
銀座天國とは
銀座天國(ぎんざてんくに)の公式サイトによると、創業は品川・赤羽間の鉄道が開通した明治十八年(1885)。銀座三丁目(当時の区画では銀座は四丁目まで)で小さな屋台店として始まったとのこと。大正十三年(1924)には、当時の町名で「南八金町」と呼ばれた銀座八丁目に出店。すぐ先に新橋がかかっていることから、「新橋天國」とも呼ばれたとか。
昭和五年(1930)には、新橋角地ビヤホール跡の百坪余りの敷地に木造二階建ての店舗を新築。本格的な天ぷら屋としての営業が始まった。「御殿のようだ」と東京っ子の噂の的になったという店舗は、後述する新版画に描かれることになる。東京大空襲に奇跡的にも焼け残った店舗を昭和二十七年(1952)に大改装。瓦屋根を生かした新興数寄屋様式の和風建築だったという。昭和五十九年(1984)には地上8階地下1階の銀座天國ビルが完成。これを機に本店でも天ぷらの他、割烹、会席料理やしゃぶしゃぶなどが提供されるようになる。
リニューアルを加えながら長らく営業していた本店は令和二年(2020)に現在の場所に移転。1階は天丼など定食が味わえる「銀座天國」、2階はカウンター席で一品ずつ揚げたての天ぷらを楽しめる「天國 栞」、3階はカウンター席や個室で本格和食をいただける「和食 ゆうづつ」とフロアごとに違ったスタイルのお店となっている。
銀座天國が描かれた新版画
今回取り上げるのは、笠松紫浪(かさまつしろう)が描いた昭和十年(1935)に刊行された「雨の新橋」。こちらは浮世絵ではなく新版画と呼ばれる木版画である。
画面全体に描かれた大きな建物が移転前の銀座天國。前述した通り、この当時の木造二階建ての店舗は昭和五年(1930)に建てられたもの。一階に柱を一本も立てない広い建物だったという。直線で表される雨は紫色でほとんど目立たないよう抑えた上で、傘を差した人々と地面に揺れて反射する影と明かりで雨が表現されている。手前に斜めに引かれた四本の線はおそらく車輪の跡、轍(わだち)だろう。現在の銀座天國の店内にも、この絵が壁に掛けられている。
新版画とは
「新版画」とは、大正から昭和にかけて、絵師、彫師、摺師の協同作業によって制作された木版画のことです。版元である渡邊庄三郎が提唱し、伊東深水や川瀬巴水、吉田博、小原小邨といった絵師たちによって、新しい時代に見合った版画芸術が次々と生み出されました。―『没後30年記念 笠松紫浪―最後の新版画』より
渡邊庄三郎が「新版画」を提唱したのには時代背景があった。チラシ同然だった江戸期の浮世絵に値段が付き始めたのが明治十七、八年(1884、5)頃からと言われている。浮世絵市場では沸き返る需要に対して、破産した江戸期の絵草子屋から出回った版木で摺り直したものに煤などで古色をつけた「悪摺り」をオリジナルとして売ることがまかり通っていた。そこでまず庄三郎が考えたのが原画の完全再現を目指した「複製版画」の販売だった。蒐集家の協力を得て、状態の良い原版画をもとに版木作りから初摺りの再現を試みたのである。
その一方で大正時代になると庄三郎は「複製版画」で得た知見をもとに新たな版画「新版画」を志した。版下絵と色指定以降は彫師・摺師にまかせて絵師の手から離れた従来の浮世絵版画とは一線を画し、絵師が色の濃淡や摺り方について意見できるよう配慮したという。さらに制作年を印し、完成度が細部に行き届く枚数までに制限して絶板とした。これは「悪摺り」の再来を防ぐ手立てでもあった。「雨の新橋」も渡邊庄三郎の「渡邊木版画舗」から版行されている。
笠松紫浪 略歴
笠松紫浪は、明治十一年(1898)1月11日、東京市電気局技師で建築家でもあった父・笠松彌三次、母・ともの四男として浅草区元鳥越町(現・台東区鳥越2丁目)で生まれる。14歳で日本画家・鏑木清方に入門。清方の雅号「紫陽花舎」から一字を取り、本名の四郎と同じ読みの「紫浪」の雅号を与えられる。大正五年(1916)には巽画会(たつみがかい)で三等賞、国民美術協会展で褒状を授与され、日本画家として順調なスタートを切る。大正八年(1919)には、渡邊木版画舗から新版画を刊行するが、その後しばらくは木版画から離れて日本画家として活動している。
昭和七年(1932)34歳の紫浪は、日本画家としての活動を続けながら再び渡邊庄三郎のもとで風景画の才を認められ、新版画を刊行していく。戦後は渡邊庄三郎の甥、金次郎の依頼により新版画を刊行。しかし庄三郎の許可を得ていなかったため、販売差し止めになったという。その後、渡邊木版画舗とは疎遠となった。昭和二十七年(1952)、54歳となった紫浪は、芸艸堂(うんそうどう)から新版画を刊行。主線を太くした大らかな作風へと変化していった。
昭和三十年(1955)頃から芸艸堂の新版画と並行して、自分で彫り摺りまで行う自画自刻自摺の版画を試み始める。昭和三十五年(1960)以降は芸艸堂を離れ、風景画以外にも仏画や動物画などを自画自刻自摺の版画で手がけた。その制作は昭和六十二年(1987)89歳の時まで続く。対象に近づき大きく描いた構図や版画特有のザラつきを活かした、これまでの新版画とは異なる雰囲気の作風へと変わっていった。平成二年(1990)年末、年賀状に「老化が進んだため今後一切筆を断つ」旨の挨拶を添えた紫浪は、翌年の平成三年(1991)6月14日、老衰のため死去。享年93歳。
コロナ禍の影響
話は戻って銀座天國について。緊急事態宣言下、時短営業を迫られた飲食店。ランチメニューをいただけるとはいえ、時間帯をずらした14時過ぎでもお客は途切れることなく入店していた。
集客が見込めるお店では時短営業による影響が大きいのかなと思いつつ、お店の方にお話をうかがうと「時短営業の影響よりも外食すること自体が控えられるようになっていますからね・・・」とのこと。テイクアウトメニューも用意されているが、そう簡単な話でもないようだ。
銀座天國の天ぷらを実食
銀座近辺での所用をランチタイム(11:00から15:00)までになんとか間に合わせ、1階フロアでお昼の定食を二度いただいた。いざ実食。
お昼天丼
外カリッ中フワッが主流となる天丼の多いなか、銀座天國では揚げたての天ぷらを丼たれにどっぷりとくぐらせてからご飯の上にのせている。海老天が3尾!レンコンのシャクシャク感やイカのかき揚げのゴージャス感もいい。衣に染みた甘辛い丼たれはご飯をいっそう進ませる。濃い目の味付けを香の物でリフレッシュしたら再び丼へと繰り出す。アオサのお味噌汁でフィニッシュ。天ぷらは胸やけするという方もいただきやすいかもしれない。
お昼の天ぷら定食
もっとあっさりといただきたいという方には天ぷら定食をオススメ。こちらの天ぷらは丼たれには浸かっていないため、自分で加減しながら天つゆやお塩で天ぷらをいただける。カリッではなくフワッとした、しつこくならない衣。海老天2尾にキスやアナゴの天ぷらも。野菜の天ぷらは季節によって変わるかもしれないが、訪れた時はナス、レンコン、タラの芽を堪能した。
銀座天國 営業情報
定休日:日曜(営業日時については公式サイトにて最新情報をご確認ください)
銀座天國 公式サイト
https://www.tenkuni.com/
※こうした浮世絵(今回は新版画ですが)に描かれて現存しているお店を今後も紹介していくつもりです。他にもこんな浮世絵であのお店が描かれているという情報がございましたら、コメント等でお寄せいただければ幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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