『富嶽三十六景』や『北斎漫画』で知られる絵師、葛飾北斎。毎年、命日の4月18日に台東区誓教寺で行われている、葛飾北斎の追悼法要「北斎忌」に行ってみた!
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北斎忌とは
毎年、葛飾北斎の旧暦の命日である4月18日に台東区誓教寺で行われる追悼法要。誓教寺には葛飾北斎の墓がある。
北斎は嘉永2年(1849)に亡くなっているため、2019年には170周忌となる。
北斎の肉筆画や版画を公開
毎年「北斎忌」の4月18日だけ、誓教寺が所蔵している葛飾北斎の肉筆画や版画・版木、北斎漫画が公開されている。コレクションのなかには北斎愛好家によって寺に寄進されたものが多くあるそうだ。
「骸骨図」は、右下に書かれた「己酉(つちのととり)正月」から北斎最晩年の作とわかる。題材は、恠談牡丹灯籠(かいだんぼたんどうろう)の元となった明(みん)の瞿祐(くゆう)作・剪燈新話(せんとうしんわ)。浪人に恋い焦がれて死んだ娘が灯籠を持って、逢瀬を重ねに来るという話を描いたとされる。
「達磨図」は、書画会で即興的に描かれた淡彩の墨絵。「画狂人北斎画」と墨書きされていることから、北斎42歳~47歳頃の作と思われる。
『富嶽三十六景』の「相州江の嶌」は、版木とともに公開されていた。
葛飾北斎追悼法要
「北斎忌」では例年、14時から北斎の追悼法要が行われる。ご住職が読経されているなか、お焼香をさせていただく。すみだ北斎美術館をはじめとした、香典を出した方々の名前がご住職によって読み上げられた。
葛飾北斎の墓
墓の場所
誓教寺を入って本堂を正面に右に曲がり、細い道を道なりに歩いていくと、墓地の入り口から見える覆堂が葛飾北斎の墓だ。
墓標
現在の墓石は、外孫の白井多知女などによって明治のはじめに建立されたといわれている。墓標として墓石の正面に「画狂老人卍墓」、側面に北斎の辞世の句「飛登魂て ゆく気散しや 夏の原」=「人魂で 行く気散じや 夏野原」が刻まれている。「画狂老人卍」は北斎が晩年に名乗っていた画号。辞世の句は「死んだ後は人魂(ひとだま)となって夏の草原をのびのびと飛んでゆこう」ということを意味している。
震災や戦災で墓石の損傷が激しくなったため、昭和62年(1987)3月に北斎愛好家の手によって風雨をしのぐ覆堂が建てられている。「北斎忌」の日には覆堂の側面のかんぬきが外されており、墓石の側面も自由に見ることができた。お墓の後ろに立てかけてあった卒塔婆(そとば)には北斎の法名「南牕院奇誉北斎居士」が書かれている。
葛飾北斎の銅像
葛飾北斎生誕230年を記念して平成2年(1990)に建てられた葛飾北斎像。ご住職のお話によると、北斎晩年の自画像を元に作成したとのこと。ただし、目鼻に関してだけは『富嶽三十六景』を描いていたであろう時期に若返らせた姿を想像して制作したため、自画像より若く見えるのだとか。
ちなみに銅像が本堂に対して斜め向きになっているのは、富士山の方角を向いているからだそうだ。
生誕二百年記念碑
葛飾北斎生誕200年を記念して昭和35年(1960)に建てられた石碑。
北斎が肉筆画で使っていた落款を元にデザインされたもの。富士山がかたどられたなかに「北斎」と書かれている。
御朱印
北斎忌の後日、誓教寺を訪問して御朱印を頂いた。「南無阿弥陀仏」に北斎が使っていた印章と同じデザインの印が押されている。
誓教寺は日本橋矢ノ倉(現在の中央区東日本橋)に創建されたが、江戸幕府の政策により現在の場所に移転。昭和はじめの区画整理による世田谷区千歳烏山への移転を拒否。境内の縮小を余儀なくされて現在に至る。そんな紆余曲折が御朱印にある「元浅草 誓教寺」に凝縮されている。
アクセス
所在地:東京都台東区元浅草4-6-9
最寄駅:JR上野駅、メトロ田原町駅
上野駅から錦糸町駅行きの都バスに乗車、元浅草三丁目で下車後、徒歩5分
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参考資料
「絹本着色骸骨図」台東区ホームページ
「紙本墨画淡彩達磨図」台東区ホームページ
誓教寺パンフレット
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