歌川国芳の猫たちが眠る回向院に行ってみた

常に数匹、多い時には十数匹の猫を飼い、猫の戒名の書かれた位牌で飾られた猫用の仏壇を自宅に設け、作画中も懐に子猫を入れていたという逸話が残るほど、大変な猫好きとして知られる江戸後期の浮世絵師、歌川国芳。そんな国芳の愛猫たちが眠るお寺、回向院(えこういん)に行ってみた!

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回向院の始まり

回向院
回向院正門

明暦三年(1657)に起きた明暦の大火(振袖火事)により、10万人以上の犠牲者の多くが身元不明で引き取り手のない状態となっていた江戸。そこで江戸幕府四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を弔うために「万人塚」という墳墓を設け、その菩提を弔うために念仏堂が建てられたのが回向院の始まり。

ここから「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」という理念のもと「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に関東大震災・東京大空襲などの被災者から諸動物までありとあらゆる生命が埋葬供養されている。

猫塚

回向院 猫塚
回向院 猫塚

国芳の生きていた時代にはすでに回向院の猫塚は存在し、国芳は何匹もの愛猫の供養をお願いしていた。

猫を弔うための猫塚が回向院に築かれることになったきっかけは下記のような逸話による(墨田区の説明を引用)。

猫を大変かわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。

ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。

江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。

猫塚と間違えられそうな猫のブロンズ像が設置されているのは、猫供養用の献花台。犬用の献花台も近くに設置されている。

回向院 猫用献花台
回向院 猫用献花台
回向院 犬用献花台
回向院 犬用献花台

御朱印

回向院 御朱印
回向院 御朱印

回向院の御朱印は通常の御朱印と江戸三十三箇所の四番札所としての御朱印の2種類がある。写真は通常の「本尊阿弥陀如来」の御朱印。

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その他のみどころ

山東京伝・山東京山の墓

国芳同様、大の猫好きで、猫の冒険活劇「朧月夜の猫草紙」で国芳と共作をしている山東京山。そして京山の兄であり、江戸期の大人の読み物を多数書いて活躍した山東京伝の墓が猫塚のすぐ裏手にある。墓石にはそれぞれ本名である岩瀬醒(京伝)、岩瀬百樹(京山)が刻まれている(写真手前から右に山東京伝、山東京山、岩瀬家の墓)。

ちなみに国芳と京山が共作した「朧月夜の猫草紙」は現代語訳され「おこまの大冒険~朧月猫の草紙~」として発売されている。

山東京伝・山東京山の墓
山東京伝・山東京山の墓

鳥居清長顕彰碑

鳥居清長顕彰碑
鳥居清長顕彰碑

鳥居清長は、鳥居派四代目として八頭身の美人画を確立したことで知られる浮世絵師。六大浮世絵師(鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重)の一人でもある。

清長の墓碑は以前から回向院にあったとされていたが、関東大震災や東京大空襲により所在不明となっていた。近年の調査で過去帳に名が記されていることが発見され、2013年に顕彰碑の建立に至った。

石碑正面には、清長の「大川端夕涼み」(平木浮世絵美術館蔵)に登場する女性が描かれたブロンズプレートが取り付けられている。

力塚

昭和十一年(1936)に歴代の相撲年寄の慰霊のために建立された石碑。

回向院と相撲の関係は古く、明和五年(1768)9月に回向院で初めて行われた相撲興行にさかのぼる。天保四年(1833)10月からは回向院境内の掛け小屋で年2回の定期場所が開催され、人々で賑わったという。

明治に入ると文明開化の影響で一時的に相撲人気が衰えるも、明治十七年(1884)の天覧相撲をきっかけに人気も復活。回向院での相撲興行は、明治四十二年(1909)に回向院境内北に建てられた国技館で天候に関係なく開催されるようになった。

現在は相撲興行自体は新国技館に移ったが、力塚は歴史を刻んだ回向院と相撲の関係を象徴する石碑となっている。

回向院 力塚
回向院 力塚

力塚の敷地内には、「角力(すもう)記」「東京相撲記者碑」という相撲の発展に寄与した相撲記者の慰霊碑も建てられている。

回向院 角力記
回向院 角力記
回向院 東京相撲記者碑
回向院 東京相撲記者碑
回向院 東京相撲記者碑
回向院 東京相撲記者碑

鼠小僧次郎吉の墓

鼠小僧次郎吉の墓(お前立ち)
鼠小僧次郎吉の墓(お前立ち)

大名屋敷から千両箱を盗んでは、町民の住む長屋に小判を置いて立ち去った義賊として名を馳せた鼠小僧は、江戸時代から人気だった。

計90回の盗みの後、ようやく御用になり処刑されたが、長年捕まらなかった運にあやかろうと墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んに行われた。

現在でも後方に控える墓石の身代わりとして設置されている「お前立ち」を削って、その運にあやかろうとする人が後を絶たない。

オットセイ供養塔

回向院 オットセイ供養塔
回向院 オットセイ供養塔

大正十五年(1938)に建てられた供養塔。「膃肭臍」と書いてオットセイと読む。大正時代に回向院のなかにあった見世物小屋にいたオットセイを供養するために建てられたとか。

みどころの場所

回向院のみどころを地図で図解。

回向院のみどころ
回向院のみどころ

アクセス

東京都墨田区両国 2-8-10

最寄駅:JR総武線両国駅(西口)より徒歩3分
地下鉄大江戸線両国駅より徒歩10分

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参考資料