江戸後期から明治にかけて活躍した浮世絵師たちの逸話を集めていくなかでみつけた「浮世絵師あるある」。第2弾として紹介するのは「義理人情に厚いことしがち」。人情家だったり師匠思いだったりする一面をご紹介。前回の「浮世絵師あるある」はこちらから。
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目次
逸話を残した浮世絵師たち
今回逸話を紹介する浮世絵師は、歌川国芳・豊原国周・河鍋暁斎・月岡芳年の4人。それぞれの師弟関係を系図にまとめると以下のようにひとつに繋がる。
浮世絵界を席巻した歌川派の大絵師である初代歌川豊国の弟子に歌川国芳。国芳の兄弟子にあたる歌川国貞(後に豊国を襲名)の弟子である豊原国周。国芳の弟子・月岡芳年。河鍋暁斎は数え年7歳で国芳の弟子となるが、すぐに父親から狩野派の絵師に鞍替えさせられたため、系譜上は点線としている。
国貞・国芳世代は江戸後期から幕末、その下の世代が幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師である。それぞれの絵師についての詳細は関連記事をご参照。
豊原国周
国周が買い取った売れ残り野菜
「宵越しの金は持たない」江戸っ子気質の豊原国周(とよはらくにちか)。そのお金は自分のためだけに使っていたわけではなかった。彼の人情家の一面を垣間見る逸話が残っている。
国周さんが情深いのではこんな話があります。八百屋が売れ残りの野菜を持って「御師匠さん、今日は荷が余ったから買って下さい」と台所から言いますと怒った様な声で「全部置いて行け」と一語言うそうです。八百屋は少人数の御師匠さんの処だから全部置いて行っては迷惑だろうと思って「全部ぢゃ多すぎますが」と言うと「いやなら帰れ、明日から買ってやらぬ」と言うので仕方なく置いて行きます。
国周さんはそれで金がないとすぐ絵を描いて金を取り夕方払ってやるそうです。その買った野菜は近所の人に分けてやるのです。つまり慈善心に富んだ人なんですね。―「片田彫長と國周の逸事」より
河鍋暁斎
面倒見の良い暁斎
豊原国周ほどケンカするほど仲の良かった河鍋暁斎。暁斎も国周と同様、人情家の一面があった。
狩野派から破門の危機にあった小林永濯をかばい、行く当てのなくなった永濯を居候させた時期もあった。暁斎は永濯に日給を払って彩色を手伝わせ、仕事のなかで極意を学ばせた。永濯も恩義を忘れず、版下絵や肉筆の依頼があるたびに暁斎に報告をしに行った。話を聞いた暁斎は自分のことのように喜んだという。
またあるとき、かねてより顔見知りだった能面を作る面打師・出目某(注:出目家は代々面打師として知られた家系)に出会った。近況をたずねると、面打の仕事はさらに無くなって今はこうもり傘(洋傘)の柄の握りを彫刻してどうにか生計を立てているという。相手の窮状を知った暁斎は「君の手にそのようなものを彫刻させるとは情けない、ぜひ拙宅に来たまえ。話すこともあれば」と告げてその日は別れた。
自分で舞うこともあったほど能が好きだった暁斎。後日、出目某が暁斎宅を訪ねてくると、近所に家を借りて出目某を住まわせ、衣食の面倒まで見て面打の仕事をさせること3年に及んだという。
尊敬する師・歌川国芳
前述したように暁斎が歌川国芳のもとで学んだのは幼いころの一時期だけだった。しかし、国芳のことを終生尊敬しており、国芳が描いた絵を見るときは必ず一拝してから絵を広げて皆に見せたという。
暁斎はこのことを「画法が超凡なるを尊仰するのみにあらず、一旦師事せし恩を忘れざる為なり」と語ったとされる。
月岡芳年
来客をほうきで追い回した芳年
師匠・歌川国芳を慕うという意味では、国芳門下の月岡芳年も負けていない。次のような逸話が残っている。
ある友人が根津宮永町の芳年の家を訪問すると、芳年は一人の来客をほうきを振り上げて追い回していた。友人が芳年を押しとどめてその理由を問うと、芳年は「俺に絵を描かせようと思って、師匠(歌川国芳)より俺の方が上手だなんてぬかしやがった。太い野郎だから今とっちめてやろうと思ったんだ」と言ったという。
芳年の根津時代といえばすでに芳年は浮世絵、または新聞挿絵で名前を知られた存在になっていた。独自の画風も確立しており、「師匠より上手い」はお世辞ではなかったかもしれない。しかし言った相手が悪かった。出典元(「大蘇芳年のことゞも」)には結末まで書かれていなかったが、芳年はこの人物からの絵の依頼を受けることはなかっただろう。
歌川国芳
国芳、絵草子屋のピンチを救う
最後は国芳の一つ話をご紹介。江戸堀江町(現在の日本橋近辺)に海老屋林之助が営む「海老林」という倒産のピンチを迎えていた絵草子屋があった。明日にも閉店かという日、泉岳寺で御開帳(※)があると聞くと、店主の林之助は家族の衣類を質に入れて多少のお金を得て吉原へ向かうという。
家の者には気でも触れたかと責められたが、林之助は聞く耳を持たない。当時の流行絵師となっていた歌川国芳が吉原の某遊郭にいると聞きつけ、そこへ訪れて手持ちのお金を使い果たし、国芳とともに豪遊した。
翌朝、林之助は国芳に絵草子屋の窮状を語り、いわゆる忠臣蔵で討ち入りに参加した赤穂浪士四十七士の逸話を描いた「義士銘々伝」の出版という回復策を考えているという。話を聞いた国芳は即座に絵を描くことを快諾し、その場で数枚の草稿を描いた。店主は仕上がった下絵を受け取ると、すぐに彫り摺りを行い、『誠忠義士伝』というシリーズものの錦絵を出版。絵は国芳、文章は一筆庵こと渓斎英泉が担当した。
四十七士が眠る泉岳寺の御開帳というタイミングで発売された『誠忠義士伝』は予想以上の反響をよぶ。最終的に四十七士の他、塩冶判官(浅野内匠頭)や高師直(吉良上野介)らを加えて51枚のシリーズとなった本作は8か月で8000セットを売り上げた(51×8000=40万8000枚)。経営が傾いていた絵草子屋「海老林」は一気に持ち直した。
他の版元もヒットを当て込み、四十七士に関する錦絵を出版したものの、『誠忠義士伝』のようなヒットにはならなかったという。一人勝ちの繁盛ぶりは「誠忠で小金のつるを堀江町 ぎしぎしつめる福はうちはや」と歌に詠まれるほどだった(「ぎしぎし」は「義士」に、「うちはや」は多くの団扇絵を手がけ、後に団扇問屋になった海老林の「団扇屋」にかかっている)。
吉原で国芳と遊んで出版にこぎつける海老屋林之助のしたたかな戦略もさることながら、その義理を果たした国芳もまたあっぱれである。
※注:この逸話の出典元である「浮世絵師の逸事(七)歌川国芳の義士銘々伝」では、泉岳寺で【赤穂浪士の150年忌】が行われたのを契機とした話としている。しかし年次の計算が合わないため、より信憑性の高い史料『藤岡屋日記』嘉永元年の記載にもとづき【泉岳寺の御開帳】とした。
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参考資料
『浮世絵芸術』第3巻5号「片田彫長と國周の逸事」近藤市太郎(1934)
『役者絵の極み 豊原国周の世界』中野区立歴史民俗資料館(1996)
『画鬼暁斎読本Ⅱ 暁斎 逸話と証言』河鍋暁斎記念美術館ブックレット(2015)
『絵画叢誌』第354号「画癖 河鍋暁斎(下)」石井研堂(1917)
『太陽』第9巻第2号「猩々暁斎」高橋太華(1903)
『河鍋暁斎翁伝』飯島半十郎(1900頃)
『書画骨董雑誌』第337号「大蘇芳年のことゞも」原風庵主人(1936)
『此花(大阪版)』第12枝「浮世絵師の逸事(七)歌川国芳の義士銘々伝」(1910)
『近世庶民生活史料 藤岡屋日記 第3巻 弘化三年-嘉永三年六月』鈴木棠三編(1988)
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