幕末期から明治にかけて活躍した浮世絵師たちの逸話を集めていくなかでみつけた「浮世絵師あるある」をご紹介。
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落合芳幾
略歴
天保4年(1833)4月、日本堤下の編笠茶屋に生まれる。歌川国芳の弟子。7歳下の弟弟子である月岡芳年との競作『英名二十八衆句』で描いた「血みどろ絵」で知られる。役者絵に西洋の陰影表現を加えるなど新たな表現を模索。明治に入ると交遊のあった山々亭有人らと『東京日日新聞』、『東京絵入新聞』を創刊し、実際に起きた事件を題材にした「新聞錦絵」の先駆者となった。
妊娠中の新妻を亡くすも執念の写生
安政二年(1855)10月2日に安政江戸地震が発生。芳幾はその際、倒壊し炎に包まれた吉原遊郭内の惨状を実地まで出向いて写生し、版元を動かして直ちに三枚続きの錦絵として出版した。続々と注文が殺到し、こうした作品だけでも7、8種類ほど描いたといわれる。その売り上げは一説には「ニ十杯(四千組)」を記録したといわれ、その画名は一気に広まった。
しかし、その吉原では妊娠中の新妻が亡くなっていた。芳幾の実家の稼業である編笠茶屋(遊郭に入る客に、顔を隠すための編笠を貸した茶屋)を手伝っていた妻は、吉原に遊びに行く客を稲本楼という遊郭へ送っていた最中に地震に遭い、倒れた建物によって亡くなったという。
芳幾が手がけた安政江戸地震の作品は現存が確認されていないが、大地震という非常時にお上の許可を得ずに出版したことが想定され、無落款・無署名の可能性が高い。東京大学地震研究所が所蔵する「安政二稔十月二日 夜亥朱刻大地震焼失市中騒動図」のような作品であっただろうと推測されている。
この体験が、後にニュースを錦絵にした「新聞錦絵」を手がけるヒントになったのかもしれない。
河鍋暁斎
略歴
天保2年4月7日(1831年5月18日)、現在の茨城県古河市に生まれる。幼少期には一時、歌川国芳に絵を学んだ。狩野派を学んで18歳で独立後は狩野派を脱した浮世絵・戯画・風刺画でも人気を博す。書画会で描いた絵が政権批判していると逮捕されるも翌年には釈放。以来、画号を狂斎から暁斎に改める。鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルを弟子にするなど国際人の一面もあった。
自宅が焼けるところを写生
弘化三年(1846)1月15日午後3時ごろ、小石川片町(文京区西片一丁目)から出火、激しい西北の風にあおられて焼け広がり、佃島まで延焼した。この大火を丙午(ひのえうま)の大火、あるいは被害の大きかった地域から江戸本郷の大火という。
この時、本郷三丁目には江戸幕府のために鳥を用意する越前屋という人がいた。飼っていた雁・鴨・鶴・孔雀といったあらゆる鳥をカゴに入れて避難したものの、避難場にも火がまわり、このままでは鳥が焼け死んでしまうとカゴを開けて鳥を逃がした。いっせいに飛び立った鳥たちの翼には炎の光に輝き、暁斎はその見とれるほど美しい光景を写生した。ところが明るい方へ向かう習性の鳥たちは、すでに日が落ちた空から火の立つ方へと飛んでしまい、煙に巻かれて舞い落ちてしまったという。
常火消の同心(幕府直轄の火消の役人)だった暁斎の父親の住む火消屋敷も本郷三丁目にあり、この大火によって焼かれていた。人々が家財道具を運び出すなどの手伝いをするなか、硯(すずり)と筆と紙だけを持ち出し、積まれた荷物にまたがって自宅が燃える様子を写生していた暁斎。その様子を見た、ある親族から「他人さえ駆けつけて荷物を運び出すなど力を貸しているというのに、一人だけのんきに絵を描いているのは何事だ」と怒られてしまったそうだ。
当時の暁斎は14歳。写生の重要性を歌川国芳から教わった後、狩野派に再入門していた頃だった。以下の画像は、河鍋暁斎の自伝が掲載された『暁斎画談』の外編より、写生の記憶を元に新たに描き起こされた絵である。
小林清親
略歴
弘化4年8月1日(1847年9月10日)、本所御蔵屋敷頭取の子として江戸に生まれる。父の死により15歳で家督を相続。幕臣として維新の動乱期を過ごし、明治7年(1874)から絵の道へ。英国人ワーグマンや河鍋暁斎、柴田是真などから絵を学ぶ。翌々年、従来の浮世絵に光と陰影を取り入れた「光線画」と称される風景版画を発表し人気を得る。「清親ポンチ」と呼ばれる戯画・風刺画を新聞に描いた。
火事の写生で離婚
明治十四年(1881)1月26日の夜8時ごろ、東京の神田区松枝町(現在の千代田区岩本町)から出火した火事が北西の強風にあおられて延焼。翌朝の8時ごろには両国、夕方には越中島まで燃え広がるほどの大火だった。
両国大火と呼ばれたこの大火事に、小林清親は洋服のポケットに写生帖をねじ込んで浜町や浅草橋などで火事の光景を写生してまわった。半月後の2月11日夜にも神田区で大火が起きており、同じように写生を行っている。
これらの写生を元に木版画を刊行した(以下の画像参照)他、明治四十年(1907)の東京博覧会には火事の様子を描いた肉筆画を出品した。肉筆画は、当時の東京市長・尾崎行雄の希望により東京市庁に飾られていたという。
ところが火事の写生をしているあいだに、米澤町(現在の中央区東日本橋)にあった清親の自宅は焼けて跡形もなくなっていた。清親にはこの時すでに妻子がいたが、以前から妻の実家では家計を度外視して自分の芸術のためにひた走る清親に不満をもっていた。そして火事の写生に行った清親に愛想をつかし、ついに離婚となってしまったそうだ。
おまけ
火事を写し取ろうとする執念は、上に挙げた絵師だけにとどまらない。「富嶽三十六景」で知られる葛飾北斎も、自宅まで延焼する大火に遭ったときには家財道具は一切もたず筆一本握って逃げたという。
時代は下って明治から昭和にかけて活動した、責め絵や幽霊画で知られる伊藤晴雨は、自画自伝のなかで火事や殺人の現場にいち早く駆けつけて写生する自分の姿を描いている。
現在のように写真や映像資料をすぐに見ることのできる環境ではなかった時代にあって、火事現場は貴重な絵の修行の場になっていたのかもしれない。
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参考資料
『暁斎画談』瓜生政和
『河鍋暁斎翁伝』飯島半十郎
『浮世絵志』第27号「清親の伝記」大曲駒村
『京都造形芸術大学紀要[GENESIS]』第20号「浮世絵師・落合芳幾に関する基礎的研究」菅原真弓
東京大学図書室小野秀雄コレクション
ARC古典籍ポータルデータベース
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