江戸後期から明治にかけて活躍した浮世絵師たちの逸話を集めていくなかでみつけた「浮世絵師あるある」の第三弾。今回のあるあるは「大人げない悪戯(いたずら)しがち」。浮世絵師の行った悪戯について、これまで記事に書きそびれていた逸話をご紹介。
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これまでの「浮世絵師あるある」はこちらから。
※以下、引用元が読点が極端に少ない/漢文であるなど読みにくかったものは原文のニュアンスを生かしながら現代語訳している。
月岡芳年、弟子を驚かす
以前の記事でも紹介した通り、月岡芳年は怪談好きで人を驚かせるのが好きだった。
芳年の内弟子だった熊耳耕年は、実際に芳年に驚かされた経験談を残している。「雨気を含んだ真闇のある夜」の話として次のように記していた。
もう寝やうとする時刻になって俄かに先生は
『おい皆、俺と一緒に来い』
と言って森本君、平山君(引用注:いずれも芳年の内弟子)と私を引きつれて外へ出かけました。私共は何処へ連れてゆかれるのか少しも見当がつきません。途々先生はポツリポツリと昔語りの怪談めいた話を語りながら歩くので臆病な私や平山君などはソロソロ背中のあたりがゾクゾクして来ました。やがて淋しい所へ来たと思ったら谷中の墓地へ連れて来られたのでした。先生は突然大きな声で
『ソラ出たア』
と叫んだと思ふと新墓に立ててある白張りの提灯がユラユラと風に揺いで居るのです。私はビックリして
『ワアーッ』
と叫んでいきなり先生の腰に獅喰みつくと
『何だ、弱虫奴、そんな事では困るぞ、ホラホーラ、火が燃えてるぞ』
と言って先生は掴ってる私を振り棄てて元来た方へと駆けだしました。平山君は泣き出すやら私は腰を抜かす、森本君は狼狽へるの大騒ぎを先生は遠くの方に居て手をたたいて大笑ひして見て居りました。
―「仙台の浮世絵師・熊耳耕年の“月岡芳年塾入門記”」より
お化けや幽霊が「出そう」な日時や場所を選んで、わざわざ提灯をしかけた、芳年の手の込んだ悪戯である。もしかしたら芳年一人によるものではなく、悪戯の協力者がいたのかもしれない。
幽霊を実際に見たという証言を残すなど幽霊の存在を信じていた芳年が、幽霊を怖がる弟子たちを笑うというのは一見矛盾しているようにも思える。
今回の逸話を“発掘”した堀川氏は「一見極端にも思える両面を結びつけているのは、芳年の内面における幽霊に対する意識の強さと距離の近さ」とし、「芳年がいかに幽霊とともに生活していたか」が伝わってくると指摘している。
河鍋暁斎、店に落書き
河鍋暁斎はお酒が入った状態で白い物を見ると何か描かずにはいられなかったようだ。以前の記事でふれた豊原国周の新居で大暴れした話も元はと言えば、暁斎の描かずにはいられない性分によるものだった。
暁斎の娘、河鍋暁翠が語った逸話も、お酒を飲んだ暁斎が白い物を見てしまったために起きた悲喜劇である。
ソレから白い物を御覧になると、急に描きたくなる御性分で、今川橋の理髪床で、張替えた障子が、陽にカンカンに乾してあるのを、通りすがりに御覧になって、描きたくなってたまらず床屋へ飛込んで、描かせろとおっしゃったのを、親爺が平蜘蛛に謝って、とうとう描かずじまい、あとで暁斎先生と聞いて、アア残念なことをしたとたいそうソレを悔んだそうです。
これは柳橋とか、湯島とかのお料理屋で、白張りの襖が嵌っているので、描きたい癖が出ましたが、亭主は暁斎先生とは知らずに描かれては大変と停めても留らず、とうとう猫じゃ猫じゃの踊りを描いて、その足跡は上壁から新しい畳の上へ、墨痕斑々、描きなぐられたので、亭主は呆れて物が言えなかったのを、言伝え聞伝えて、お客が猫じゃ猫じゃ見物に登り、大繁昌をしたというお話がありました。
―『明治開化綺談』「父暁斎を語る」より
歌川国貞の夜盗
歌川国芳の兄弟子でライバル関係にもあった歌川国貞(三代豊国)。
明治19年(1886)に著された『香亭雅談』によると、国貞も以下の様な悪戯をしかけたと書き残されている。あるとき国貞は「婦人が賊に遭う」という絵を依頼された。しかし、どういう絵にしたものか構想が浮かばない。国貞は夕方に出かけたまま、しばらく戻ってこなかった。
国貞の妻が夜遅くまで夫の帰りを待っていると、盗賊が戸を開け押し入ってきた。妻は気が動転して何もできず固まってしまった。まもなく盗賊は顔をあらわして、おもむろに「恐れることなかれ、恐れることなかれ」と言う。妻が横目で確かめると、その盗賊こそ帰りを待っていた夫・国貞だった。妻は二度驚いて泣いてしまった。
その日の明け方、国貞は依頼された絵を仕上げた。その図様は巧妙で依頼人は大いに喜び手厚い謝礼を出したという。
―『香亭雅談』より現代語訳
ただし、国貞の弟子である豊原国周は、この話は事実かどうか怪しいと否定している。
この話はよく知られた話ではあるが、(事実かどうか)疑わしい。三世豊国は「謹慎」の人だから、たとえ画道の用意のためとはいえ、こんなことをする道理がない。これに反して初代豊国なら、あるいはそんなことがあったかもしれないが、この話は誤伝であろう。
―『浮世絵師歌川列伝』「三世豊国伝」より現代語訳
まじめな性格と伝わる国貞(原文では「謹慎」とあるが、意味合いとしては「謹厳」の方が近いだろう)。逆に絵のためなら、やむなく実行したかもしれないとも思えるがどうだろうか。
もっとも、ライバルの国芳にも似たような話があり、国貞と混同された可能性もある。河鍋暁斎が語ったとされる逸話は以下の通り。
又暁斎の話に、国芳は、突然塾生を押しころがし、其吃驚したる顔を熟視し、これだこれだと会心の様子を為すことが有ったが、これ、国芳が、びッくりした面相を画くモデルを得んが為めの手段であったさうだ。
―「浮世絵雅談」より
歌川国芳のとろろ
最後は歌川国芳の逸話のなかでも一番といっていい「バカバカしい」悪戯話をご紹介。
国芳は職人肌で金離れがとてもよく、また派手なことを好み、お祭ともなれば三日も四日も前から仕事を休んで騒ぎ、花柳界に流れて行くことも珍しくない。弟子とともに吉原へ行き、弟子は金一分の花魁を買っても、自分は二朱(注:一分の半値)の新造(注:客をとったばかりの若い遊女)から買ってやるということはなかった。
ある夜、弟子二、三人とともに吉原へ。しかし国芳は相手をした遊女が意にそぐわなかったとみえて、少しヤケ気味で早く切りあげ、自分だけ抜け出して帰ってきた。
翌日の夕方、急に「とろろをこしらえよ」と国芳が命じたので、弟子たちはおおかた一同にふるまうのだろうと、手分けしてゴロゴロガラガラと芋を摺り下ろして摺鉢一杯にとろろをこしらえた。国芳はそれを自分で食べるでもなく、弟子にふるまうでもなく、澄ました顔で机の下にしまい込んだ。そのまま仕事を終え、夕食を食べてしまうと昨夜の続きに行こうとの仰せ。弟子たちは大喜びで再び吉原へ出かけることになった。
国芳は大きな竹筒を提げていた。師匠に物を持たせるのは不本意であるため、同行の弟子たちは私が私がと言っても「これはお前っちには預けられねぇ」と強情に譲らない。とうとう竹筒を提げたまま昨晩の妓楼に到着。ゴタゴタしているうちに竹筒は遊女たちの目の届かないところに隠し置かれた。
酒宴で乱れ倒した後、いよいよお引けとなって各々の部屋へおさまる。大引け(注:妓楼が営業を終える消灯時間)ともなると、にぎやかな妓楼もさすがに静かになった。国芳は床の中から這い出して後生大事に隠してあった竹筒を取り出し、しきりに何やらしていたが、やがて灯りをブッと吹き消して元の床にもぐり込んだ。寝る気もなく一睡して眼がさめると、国芳は急に小便を催す。真っ暗な部屋をさぐり足で、障子に手をかけようとした拍子に、ツルツルとすべってもろに倒れ込んだ。
ガタガタビシビシとえらい音がしたため、部屋という部屋から客も遊女も出てきて、下からも店の者が駆けつけた。灯りをつけてみると、驚いたの驚かないのではない。部屋の入口一面がとろろの海、そのなかで国芳が「あイタ、あイタ」と腰を押さえて苦い顔。この騒ぎに国芳の相手をした遊女もやってきて「芳さん、どうしなんしたのぇ、オヤとろろじゃありませんかぇ、誰がまぁこんな物を」と呆れかえっている。店の若い衆も飛んで来て国芳を引き起こそうと踏み込めば、これまたツルツルとすべってスッテンコロリンと転んだのには可笑しいやら気の毒やら。
こんなところへとろろをぶちまけて悪さをしたのは何者だと怪しんで、一同がわあわあ騒ぎだす。遠く離れていた弟子たちもびっくりして追々集まってきた。「師匠、どうなさいました、や、これはとろろですね」と言いかけると、国芳は腰の痛みをこらえながら、それを言われては面目丸つぶれだと「あぁこれこれ」と目配せで制する。それを早くも見て取った遊女たちは「芳さんの悪戯でありんすね、何だってこんなつまらねぇ真似をしなんしたぇ」と化けの皮を剥がしてしまった。
国芳はしょげ返り「誤った誤った」とようやく弟子たちに助け起こされ、大散財してその夜は治まった。治まらなかったのは国芳の腰である。とろろですべったときに強く打ちつけたため、翌朝は腰が立たない。しかたなく妓楼から駕籠で玄冶店の自宅へ帰り、三日二晩は床につく羽目となった。
気に食わない遊女をすべらせてやろうと、弟子まで手数をかけて自らすべった「大痛事」は後に『とろろの芳さん』と吉原の通語になったという。
―「画人滑稽談」より現代語訳
外では「組頭頭取の芳さん」、弟子から「ひらひら」と呼ばれたという国芳。吉原では「とろろの芳さん」というありがたくない異名がついてしまった。
とろろがぶちまけられた状態は、河鍋暁斎が『書画五拾三駅』のシリーズで描いたような惨状だったかもしれない。
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参考文献
『浮世絵芸術』171巻「仙台の浮世絵師・熊耳耕年の“月岡芳年塾入門記”」堀川浩之(2016)
『香亭雅談』下巻 中根淑(1886)
『錦絵』第14号「浮世絵雅談」石井研堂(1918)
『文芸倶楽部』第8巻第3号「画人滑稽談」雲濤生(1902)
『江戸消防彩粋会十五年史』「一勇斎国芳」(2000)
国立国会図書館デジタルコレクション
江戸時代から唄われてきた俗謡。別名「おっちょこちょい節」。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』のなかで主人公の「吾輩」が最後に踊りたくなる節としても知られる。
一番の歌詞は妾女の浮気が旦那にバレそうになっている場面。旦那が急に家にやってきたため、どたばたしながら隠した間男を、女が「猫じゃ猫じゃ」とだまそうとしているという。歌詞については時代・地域によっていろいろなバリエーションがある。
猫ぢゃ猫ぢゃとおっしゃいますが
猫が杖突いて絞りの浴衣で来るものか
オッチョコチョイノチョイ
オッチョコチョイノチョイ
【参考動画】