浅草周辺は絵師の墓が集中している。今回は南浅草・西浅草エリアを中心に、蔵前駅から上野駅までを歩きながら、絵師の墓碑を巡る散歩道を開拓してみた。
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目次
蔵前神社
まずは蔵前駅を出て、すぐ近くにある蔵前神社からお参り。蔵前神社は、京都の石清水八幡宮をお迎えしたのが始まり。江戸時代には境内で勧進大相撲を開催。宝暦・安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年のあいだで23回行われた。天明二年(1782)、大関谷風が小野川に連勝記録を63で止められた一番は名勝負と話題になった。寛政年間には大関雷電らが活躍したという。
こうした背景から財団法人大日本相撲協会(現・公益財団法人日本相撲協会)から奉納された玉垣が残っている。
また境内には初代歌川豊国の弟子、歌川国安が描いた浮世絵「文政七年之春御蔵前八幡宮ニ於而 奉納力持」のパネルが飾られている。これは力士ではなく、蔵前神社の前身・御蔵前八幡宮で力自慢の素人が力持ちの技芸を奉納した場面を描いたもの。
蔵前神社は古典落語「元犬」「阿武松」の舞台ともなっており、平成二十二年(2010)には元犬像が奉納建立されている。社務所では御朱印を拝受。
西福寺(勝川春章の墓)
蔵前神社から歩くこと5、6分で勝川春章のお墓のある西福寺へ。勝川春章は役者似顔絵を得意とする勝川派の祖であり、葛飾北斎の師匠としても知られる浮世絵師。お墓はお寺を入って左手にある。墓石正面には春章の法名「勝誉春章信士」、墓石向かって右には辞世の句「枯ゆくや今ぞいふことよしあしも」が刻まれている。
西福寺は徳川家と縁の深いお寺。天正二年(1574)徳川家康によって静岡市に建立。慶長十三年(1608)には家康の命により二代秀忠が江戸駿河台に松平西福寺として創建され、寛永十五年(1638)に現在の地に移ったとされる。お寺の門に徳川家の「葵の御紋」が使われているのも納得。
残念ながら大正時代の都市計画による境内の狭小化、関東大震災や戦争による被害を受け、当時の伽藍は残っていない。現在のお堂は平成四年(1992)に建て直されたものだそうだ。浄土宗のお寺のためか御朱印は行っていないとのこと。
龍福院(小林清親の墓)
西福寺から歩いて十数分、小林清親の墓がある龍福院へ。過去二度訪れた際は閉門されていたため、門の脇から恐る恐る入ってお参りさせていただいたが、今回はお彼岸の時期だったからか開門されていた(この門も実に良い)。小林清親は浮世絵に洋画表現を取り込んだり、新聞黎明期にポンチ絵を描いて活躍した絵師。
小林家の墓は現在公開されていないが、本堂向かって右側に大きな「清親画伯之碑」が建っている。石碑の裏側には法名の「真生院泰岳清親居士」の他、生没年月日などが刻まれている。
※普段は龍福院で御朱印を頂けるが、コロナ禍の影響でしばらくお休みしているとのこと(2020年3月21日時点)。前回訪問した際の御朱印は関連記事参照。
誓教寺(葛飾北斎の墓)
龍福院から歩くこと数分、葛飾北斎のお墓のある誓教寺へ。毎年4月18日に行われている北斎忌で訪問して以来となる。お彼岸だからか、他にも葛飾北斎の墓をお参りする方が何人かいらして、ご住職が熱心に案内・説明をしてくださった。
誓教寺や北斎のお墓、北斎忌の詳細については関連記事で詳しく触れたのでここでは割愛(残念ながら2020年はコロナ禍の影響で北斎忌は中止とのこと)。
光明寺(鳥山石燕の墓)
誓教寺から目と鼻の先、ワンブロック隣が鳥山石燕のお墓のある光明寺。光明寺は、慶長六年(1601)摂取山遍照院として開山。大正十五年(1916)には西光寺と合わさって光明寺となったとのこと。
鳥山石燕は妖怪画で知られる大巨匠。弟子には喜多川歌麿や歌川派の祖・歌川豊春がいたとも言われている。
鳥山石燕のお墓は場所がわからず、ご住職に尋ねてご案内いただく。墓所に入ってすぐの大きな墓石。墓石に書いてある文言が読めそうで読めず・・・。庫裡にて何種類(6種類か8種類くらい)かあったなかで石燕の妖怪画の雰囲気が出ているこちら(下記写真参照)を拝受。
善照寺(勝川春好の墓)
お昼ご飯の休憩後、浅草通りを上野駅と逆方向に歩を進める。左に大きなお寺が見えたら左折。正面に見えるのは本山東本願寺。左側の電柱を気にしながら歩いて行くと見えるのが、次の目的地である善照寺への案内。
ここには先ほどお墓参りした勝川春章の弟子、勝川春好のお墓がある。この記事を書いている現在「勝川春好 墓」で検索するとアメリカのフィラデルフィアが表示されて驚かされるが、おそらくフィラデルフィア美術館で春好の描いた浮世絵が多数所蔵されているからだろう。
役者の顔を大きく描く「大顔絵」を描いて、東洲斎写楽にも影響を与えたとされる勝川春好。お墓はわかりにくい場所にあった。善照寺を道なりに直進し、墓所に入る手前で右折。江戸時代の歌人で国学者の清水浜臣(しみずはまおみ)の墓、向かって左脇にちょこんと鎮座しているのが春好の墓。清水浜臣の墓は東京都指定旧跡となっているため案内板があるが、春好の記載はなく見落としてしまいそうだ。
徳本寺(宋紫石の墓)
善照寺から道を挟んで真向かいにあるのが、宋紫石のお墓のある徳本寺。宋紫石は写生的な花鳥画を特徴とする沈南蘋の画風を江戸に広めた、江戸中期の南蘋派の絵師。
宋紫石のお墓の隣には、佐野善左衛門の墓もある。佐野善左衛門は、江戸幕府老中・田沼意次の息子、田沼意知を江戸城内で殺害。腐敗政治を行ったとされる田沼意次の権勢が衰えるきっかけを作ったことから「世直し大明神」と呼ばれ崇められた。
曹源寺(かっぱ寺)
徳本寺から浅草通りを戻り、菊谷橋の信号を渡って右折。かっぱ橋道具街通りのアーケードを散策しながら直進。3つめの信号を左に曲がって、しばらくすると右手に見えるのが「かっぱ寺」の名前で親しまれている曹源寺。合羽屋の喜八という人物が、洪水で困っていた住民のために私財を投げうって掘割工事を行うと、河童が工事の手伝いにやってきたという伝承があるとか。
境内にある河童大明神のお堂には「河童連邦共和国」の文字が入ったのぼりがはためいている。河童が独立連邦国家の道を歩んでいるという事実に驚きを隠せない。
堂内の参拝は事前の連絡が必要とのこと。今回はアポなし突撃状態だったので、堂内参拝はかなわず。お堂の外からお参り後、中を覗き見してから御朱印を拝受。またの機会に訪れたい。
源空寺(谷文晁の墓)
曹源寺から歩いて数分、谷文晁のお墓がある源空寺にやってきた。墓所はお寺から道路を挟んで隣の場所にある。
谷文晁は江戸後期の南画家で、画塾・写山楼で多くの弟子を育てるなど一世を風靡した。墓石には法名の「本立院生誉一如法眼文阿文晁居士」が刻まれている。
谷文晁の他にも歴史的人物のお墓が並んでいるが、なかでも浮世絵や歌舞伎でも取り上げられる「幡随院長兵衛」の墓も谷文晁の墓と共に東京都指定旧跡として名を連ねている。その他、日本全国を測量し、地図作りに貢献した伊能忠敬やその師の高橋至時のお墓もある。
下谷神社(横山大観の天井絵)
源空寺から浅草通りに戻って、上野駅の方に歩いて行くと左手に見える大鳥居が目印。下谷神社は奈良時代(730年)創建の東京で最も古いお稲荷さん。寛政十年(1798)に初代山生亭花楽が境内で江戸で初めての寄席興行を行ったとされる。
拝殿の天井には横山大観が描いた龍の絵が掲げられており、社務所で諸注意の説明と許可をいただければ、拝殿のなかを見学・天井絵のみ撮影が可能となっている(短パンや裸足での昇殿はできないので注意)。
お参りを済ませた後、御朱印を拝受。蔵前駅からここまで約12000歩。
地図と巡礼コース
これまでご紹介したスポットを一日で廻るのは意外とハードな道程だった。そこでレベル別にルートを挙げてみた。体力や時間、興味ある場所を事前に考えた上で組み替えてみるのもご一興。(時間はあくまで目安で、じっくりお参りしたり寄り道をしたりすると大きく変動する可能性あり)
3時間コース:蔵前駅→蔵前神社→西福寺→龍福院→誓教寺→光明寺→下谷神社→上野駅
4時間コース:蔵前駅→蔵前神社→西福寺→龍福院→誓教寺→光明寺→曹源寺→源空寺→下谷神社→上野駅
5時間コース:蔵前駅→蔵前神社→西福寺→龍福院→誓教寺→光明寺→善照寺→徳本寺→かっぱ橋道具街→曹源寺→源空寺→下谷神社→上野駅
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