浮世絵版画の彫師や摺師は浮世絵師のことをどう思っていたのだろうか?戦前の浮世絵専門誌『浮世絵芸術』のなかで、光線画で知られる明治期の浮世絵師・小林清親と仕事をした摺師のインタビュー記事が掲載されていた。その貴重な証言から清親の実像および光線画の制作現場にせまってみた。
スポンサードリンク
目次
小林清親とは
弘化4年8月1日〈1847年9月10日〉、本所御蔵屋敷頭取の子として江戸に生まれる。父の死により15歳で家督を相続。幕臣として維新の動乱期を過ごし、明治7年(1874)から絵の道へ。英国人ワーグマンや河鍋暁斎、柴田是真などから絵を学ぶ。翌々年、従来の浮世絵に光と陰影を取り入れた「光線画」と称される風景版画を発表し人気を得る。「清親ポンチ」と呼ばれる戯画・風刺画を新聞に描いた。
摺師・西村熊吉
生前の小林清親と仕事をし、インタビュー記事で貴重な証言を残したのは西村熊吉という摺師。熊吉は文久元年(1861)、芝浜松町四丁目(現在の東京都港区浜松町二丁目または芝大門二丁目)で生まれた。兄の西村栄五郎を師匠とし、10歳にも満たない明治元年(1868)には摺りを教わり始めたという。熊吉という摺師が他にもいたからか「甚熊」と称していた。
明治十年(1877)には独立、一軒摺場を持たされた。その年には西郷隆盛による西南戦争が勃発。熊吉によると清親の版画も出版した版元・具足屋が「戦争絵」でずいぶん儲かった。また、遠州屋又兵衛という扇問屋から河鍋暁斎、歌川房種などの「戦争絵」を扇貼にして売り出したところ、いくら摺っても間に合わないほど人気が出たそうだ。
熊吉のインタビュー記事が『浮世絵芸術』誌上で掲載されたのは昭和八年(1933)。熊吉は70歳を超えていた。摺師人生65年のあいだ、熊吉は小林清親の他、歌川国芳、歌川国周、月岡芳年、水野年方、鏑木清方、伊東深水の版画も摺っており、鏑木清方については若い頃から知っていたという。
摺師が語る小林清親
インタビュー記事のなかで、摺師・西村熊吉は特に交流のあった小林清親について多くの頁を割いて語っていた。以下では、小林清親との出会いや仕事ぶり、人柄がうかがえる話を紹介する。
※引用部について:大文字で書かれていた捨て仮名(「っ」「ゃ」などの小書き文字)や旧字体の漢字、旧カナ遣いなど適宜読みやすいように直している。
小林清親との出会い、交流
清親さんはずいぶん絵師としても風変りのところのあった人だった。本所あたりの御家人だったんだが、上野戦争や、大阪京都でも戦争をした人だとか云っていた。漁師にもなんなすったそうだ。
初めて清親さんに遭ったのは浜松町の栄五郎のところでだった。ずいぶん身体の大きな人で、黄八丈の着物に、紺飛白の帯をしめて、ぬっと這入って来られたので、摺師の家へ剣術屋さんが何んに来たんだろうと思って吃驚したもんだった。
清親さんは、旅興行の剣術師の呼び込みもあったというだけに、子供の私が、初めて遭った時に、そう思ったのも無理はなかった。あとで聞いたら、御家人絵師の清親さんだという話だった。(中略)
清親さんは、西洋画を習った人だけに、筆さばきが悪くって、ずいぶん苦しい思いをさせられたものだ。自分でも「面白くねぇ」なんて摺場へ来ちゃ云ってたんだが、やりつけた日本絵師の描いたものと、初めてやる西洋式絵では、てんで見当がつかなかったんだ。
清親さんは、うんと西洋絵を見ているんだし、職人の方じゃ、彫師も摺師もまだ、あんな油描きなんか見たこともなかったわけだ。それだけに遠目にははっきり見せなきゃいけないものを、日本流にぼかしをかけたりして、がみがみ云われたりしたものだ。
小林清親と火事
以前も記事でとりあげた小林清親が火事現場を写生したときの詳細についても語っている。
それでも、ずいぶん呑気な先生でもあったんだよ。
あれは、明治の十四年だったか、神田の松枝町から出た火が浜町一二丁目まで燃えちゃったのは。絵道具だけ持った清親さんが、私のところへぶらりと来られて、当分世話になるという話だ。
「いったいどうしたんですかい」って聞いてみると、そら火事だというので家を飛び出して、倉と倉の間から、久松座の棟の落ちるのを一生懸命書いていたものだ。やっと書けたんで、家へ行ってみたら方向も何にもわからなくなってしまったんだ。そのはずだ家が丸焼になってしまって、家族の行方がわからなくなったんだから。それで火の無い方へと思ってぶらぶら私の家へやって来たんだ。
なんて云っていましたけ。いったいに、昔の人はのんびりしていたもんだ。
そんな清親の写生から生まれたのが、以下の火事の図である。
小林清親の人柄
清親さんは先生ぶらない温和しい良い方でした。仕事場へ来られちゃ私達相手にいろいろ話をされました。
「大錦を、今まで風でなしに油絵風に書き始めたのは私が元祖だから、摺る方もそのつもりで摺ってくれ」と申されたこともありました。
話のうちに、次に書くものの気持なんかもよく話してくれましたので、仕事にかかっても楽しみながらやれました。
絵師と摺師というものの立前に対してもよくわかっていてくれたと思います。どことなしに、なつかしみのある人で、もの事がちょくな方でした。みんなを可愛がってくれました。
それでいて、絵を描くのにはずいぶん苦心をしておられたらしいのです。あの頃は、源助町へんに間借をしておられたのでは無かったかと思います。
小林清親の自摺り説について
インタビュー記事の載った頃(昭和初頭)、小林清親は自分でも木版画を摺っていたとの説もあったらしく、「清親自摺説」について答えている。
「清親さんは熱心だっただけに、自分でも摺ったかって」誰かそんな話でもしていましたか。
清親さんの熱心さは、まぁ珍しいと云ってもいいほどのものでした。が、前に話したように、仕事場へ来て、次の段の工夫についての話などはありましたが、御自分で摺ったということは一度もありませんでした。
大錦に使う柾紙は、二年三年の経験では、とても駄目なものです。で、清親さんが自摺をしたということは、こうもあったろうという後世の人が作りあげたお話だろうと思います。
光線画制作秘話
小林清親の初期の作品は、これまでの浮世絵にない西洋画のような光と陰影を取り入れた版画で「光線画」と呼ばれる。西村熊吉もこの清親の「光線画」を何枚か手がけていた。その際のエピソードを各作品ごとに語っている。
浅草橋夕景(原文:浅草橋の夕景)
記事原文にある「浅草橋の夕景」という表題の小林清親の筆によるものはみつけられなかった。しかし、清親の弟子・井上安治が描いたものに「浅草橋夕景」がある。
余白には「画工 小林清親」と記されているが、画中の署名は「井上安次」となっている珍しい作品だ。この作品で浮世絵デビューを果たした井上安治。なにかの都合で清親に代わって安治が描き、余白は清親のものを流用したと考えられる。
話の内容からもおそらくこの井上安治の「浅草橋の夕景」を指しているものと思われる。
浅草橋の夕景というのは、眼鏡橋(萬世橋にあらず、浅草橋をかく云いしも後萬世橋を眼鏡というが有名になりしため浅草の眼鏡は神田の眼鏡にその名称をうばわれたり)を描いたものだ。
もうあの風景は、太陽が没してしまって、余映がさしていて、その余映の中を横に黒雲が流れているところだった。
私も若かったものだ。あの初摺は一箱(二百枚)だったが、いよいよ摺上ったので親方に見せたら、
「ほかに難は無いが、この余映が、黒雲の下のとこへ来て薄くなっている。又雲の上が濃くなってその上がだんだん弱くなっているのは間違っている」と怒られて
「そんなはずがあるものかおてんとさんは沈んでしまっても下にあるんだ、その余映だもの上へ行くほど薄くなるのが当り前だ」と親方に喰ってかかったものだ。
あんまり親方の小言が癪にさわったので、わざわざ、眼鏡まで夕日の入りを見に行ったものだ。その結果が、親方の前へ出で、「どうもあいすみません」だった。
親方はこの時、「絵師だって間違った色ざしをする時はあるんだから、気がついたら摺師はそこは直していいもんだ。だから、茫然として世の中を見ていちゃいけねぇ」と云われたものだ。このことはずいぶんに身にしみた。
やっとわびが出来たので第二摺にかかって、空の具合を前とは変えて摺った。
その後清親さんが参られての話に、初摺より二番摺の出来がよかったとほめて下すったものだ。
版画屋さんは初摺を難有がっているけれども場合によっては、こうした事もあるものだけに、絵としての価値については比較してみて善いものを良いとした方がよいと私は、思っています。
上に挙げた図版は国立国会図書館デジタルコレクションのもの。この話を踏まえてから他で所蔵する「浅草橋夕景」と比較してみると、摺りの違いがハッキリと識別できることだろう(リンク先参照)。
慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション(高橋浮世絵コレクション)
両国花火之図(原文:両国の川開)
こちらも「両国の川開」という小林清親の木版画はみつけられなかった。ただ、川開きが納涼の始まりを祝うことから【花火】がつきものだったことを考えると、「両国花火之図」がこれに該当しそうだ。インタビューのなかで言われる「潰し」は、いわゆる「ベタ」。ここでは空の暗い部分のことだろう。
川開きの絵では面白い思い出がある。あの空の潰しを摺るのに、本当に苦心させられた。
馬楝と云ったって、その頃は自分の手でなかなか買われなかったものだから、親方の古いのを使わせてもらっていた。
ところが川開の潰しは、とても古馬楝では歯が立たなかったものだ。で仕方が無いので年明きも近づいていたから、年前までの日限りで友達から一両貸してもらって、徒士町(※引用注:御徒町のこと)三丁目のマス屋(別称傳通院)へ行って、馬楝を買ったが、その当時で五十五銭出したものだった。
お金の話の出たついでだ。清親さんの絵は絵の具をたいしていらなかったが、摺手間はずいぶん喰っている。川開を一箱摺るのに私は七日かかった。
その頃、具足屋から親方が受取る摺代が一箱で一両一分だった。それを親方と弟子で七三に割ったものだ。七の内から飯代を親方に八銭払ったものだった、あの頃から五十年余りもたってしまったね。ずいぶん変わったものだ。
川開きは人気に会ったと見えてずいぶん売れた。たてつづけに十五箱(※引用注:三千枚)くらい摺ったから。
本町通夜雪(原文:本石町夜の雪)
これも前の2枚同様、「本石町夜の雪」と同じ表題の小林清親作品は見当たらない。しかし表題こそ違うが「本町通夜雪」を指している可能性が高い。【本石町】は現在の日本銀行本店近辺、【本町通り】は現在の江戸通りのことで日本銀行本店の近くを通っているからだ。
ここでも夜空の摺りについて語られている。
本石町の初摺も失敗している。紙がねせこみになっていたものか、それともすき方が悪かったのかして、どんなに工夫をしてみても星が出てしまって始末がつかなかったから、具足屋へ納めなかったものだ。
で云わば今初摺だと云って珍重がってでもいるものは、二番摺くらいのものだろうと思われる。
上に挙げた国立国会図書館所蔵の「本町通夜雪」を拡大してみると、実際に漆黒の闇だったはずの夜空に意図しない「星」が出てしまっている。これは摺師・熊吉が納品したものではないだろうが、それだけ難しい摺りへのこだわりがこの話から感じられる。
その他の館所蔵の「本町通夜雪」と見比べてみると「星」はしっかり「潰し」がされている(リンク先参照)。
慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション(高橋浮世絵コレクション)
大森朝の海
「大森朝の海」には小林清親の作に該当するものがある。2人の女性が小舟にのって養殖された海苔の摘み採りを行っているところが描かれている。
東京都大田区の大森海岸は海苔の養殖発祥の地とされている。現在は海苔の養殖こそ行われていないが、海苔問屋が多く残っており、海苔養殖の歴史を展示した「大森 海苔のふるさと館」が開館している。
大森朝の海というのがあった。手前のところに舟があって、左右にしびが有り遠くに帆船があり台場が見え、舟は立っている女と、かがんでノリをとっている女とがある。あの図だ。
あれは朝霧がかかった大森の景色だ。親方の子供に虎三郎さんという人があって、あの大森を是非摺りたいと親方に願ったものだ。ところが、
「いやいけねぇ、先生のものはお前にゃまだ早いや、熊にも今度は荷が重いと思っているくらいだ。」と云ってなかなか諾と云わなかったが結局
「まあ一生懸命やって見ねぇ。」ということになって、虎三郎さんが初摺にかかったもんだ。
当人は一生懸命だったには違いなかったんだが、どう間違ったか台場を濃く摺上げちまったもんだ。
親方は一目みるといきなり虎三郎さんの髷をつかんで引ずり倒して、ゴツンだった。みんなが、仕事場から駆け上ってやっとあやまったが、あの時はずいぶんがみがみ他が気の毒になるほど怒鳴りつけられたものだ。
私もその頃は髷をのっけていましたよ。髷姿も意気なもんでした。
こうしたことで、二番目は私が摺りました。あの遠見の台場はボカシではなく、ごく薄い墨で水との境界もあるか無いかくらいに摺ってあるはずです。
摺りの違うものを比べてみると、微妙な差ではあるが確かに台場が濃く摺られているものがある。濃い方は、もしかしたら「虎三郎さん」が摺ったものなのかもしれない。
まとめ
摺師の貴重な証言により、小林清親の木版画が摺師にゆだねられているところが大きいことがわかった。ときには絵師の間違いを彫師や摺師が直すことがあったこともうかがえる。特に清親の場合、西洋画の手法を木版画で表現するために職人たちも含めて苦心していた。一般的には初摺りが良いとされるものも、職人の試行錯誤のなかで二番摺りの方が良い出来だった例もあった。
小林清親の「自摺説」を否定するところでは「二年三年の経験では、とても駄目なものです。」と簡単には習得できない職人の仕事の自負心も感じられる。木版画を鑑賞するときには職人仕事に思いをきたすと、違った楽しみ方ができるかもしれない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
よろしければ応援クリックをお願いします!
にほんブログ村
参考文献
『浮世絵芸術』第2巻3号「摺師熊吉昔噺」西村熊吉談/本澤浩二郎筆記(1933)
『浮世絵芸術』第2巻4号「摺師熊吉昔噺 其二」西村熊吉談/本澤浩二郎筆記(1933)
『彫摺工系譜』(日本書誌学大系109(1)-(2))土井利一、後藤憲二編(2014)
『清親画帖』国立国会図書館デジタルコレクション
東京都立図書館TOKYOアーカイブ
コメントを残す