戦前の浮世絵専門誌『浮世絵芸術』のなかで、版木を彫る彫師の近親者が幕末明治期の浮世絵師・豊原国周(とよはらくにちか)について語っているインタビュー記事が掲載されていた。人気の役者絵と江戸っ子気質で知られた国周について、実際に接してきた関係者が語る逸話を紹介する。
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目次
豊原国周とは
天保6年6月5日〈1835年6月30日〉、江戸京橋五郎兵衛町(現在の中央区八重洲二丁目)に次男として生まれる。歌川国貞(三代豊国)に10代なかばで弟子入り。明治になって激変する社会情勢のなかでも、役者大首絵シリーズを刊行するなど国貞から受け継いだ従来のスタイルにこだわり、自身の画風を発展。当時の役者絵を自身の独壇場とした。自称引越し117回という奇行、宵越しの金は持たない江戸っ子エピソード多数。
彫長こと片田長次郎
昭和9年(1934)の『浮世絵芸術』のインタビューに答えていたのは、片田長次郎という彫師の関係者。片田長次郎は「彫長」「片田彫長」などと称し、幕末から明治まで活動していた彫師だった。記事を書いた近藤市太郎によると、「彫長」は下記の系譜図の通り三代まで続いたが、大正8年(1919)には三代目が亡くなっており、片田家の妻子に話を聞いたという。
三代目彫長は全身刺青をした江戸っ子で嘉永4年(1851)生まれ。大正8年8月17日に69歳で亡くなった。彫師をやりながら、明治20年以後には「文英堂」という版元となる。最盛期には弟子が50人ほどいたという。このころには絵師として梅堂国政、梅堂小国政(竹内柳蛙)、尾形月耕らが店を出入りしていた。そのなかでも豊原国周とは特に気が合ったらしく、兄弟のような親交があったという。
彫師近親者が語る豊原国周
大正14年(1925)に著された『浮世絵師伝』によると、豊原国周の人物像として次のように書かれている。
彼は生来任侠にして奇行に富む、ただ如何なる故にか、妻を離別すること四十人以上、転居実に八十三度に及びしとぞ(中略)一男二女ありしも画系を継がず、門人数名あり(後略)
「彫長」の関係者が語る国周の逸話も、これを裏付けるものとなっている。
※以下、引用部中の旧字体・旧かなづかいは改めている。
江戸っ子気質
国周は「江戸っ子」と言われてイメージする人物像そのままだったようだ。
国周さんは痩せた品の上らない人でした。生来の江戸子気質と申しますか気前がよく、宵越の金は絶対に持ちません。巻き舌で、機嫌買いで、その上大酒のみで、酒を飲まなければ絵を描かず、絵の金を取るとすぐ吉原へ行って遊んでしまう。
引越し好き
自称117回もの引越しをしたという国周。国周を語るうえで欠くことのできないエピソードのひとつだが、ここでも具体的な引越し魔ぶりが語られている。
それから引越の非常に好きな人で、一番多かった時は大の月三十一日間に四十三度、一日の内に激しかったのは三度でした。と言うのは引越して来て近所の空気が気に入らなかったり、座ってみて座り心地が悪いとすぐ越してしまう。よくそんなに貸家があったものだと疑うかも知れませんが、酔って歩いて居てもいつも貸家ばかり探して居た。ですから常々の散歩は貸家探しの為と言ってよいかも知れません。
いつも困るのは急な用事が出来て、国周さんの所へ行きますと、昨日まで居た家が空家になって居る、で驚いて近所の人に聞くとすぐ先の処へ越してしまって居るのです。
妻と離別すること40回以上の理由
妻を変えること40回以上と自称する国周だが、「彫長」関係者もそれをよく承知していたらしい。引越し魔であることの話の流れから次のように語っている。
そんなわけで家財なんぞも殆んどなく、女房も居つきません。もっとも最初の奥さんに一人娘があり、その娘さんが可愛いのでちゃんとした女房を貰わなかったと言う噂でした。そのかわり庸女房とでも言いますか、何から何まで世話する女がいつも居て、それがみんな長続きしません。国周さんの気持が分らなかったのですね。
『浮世絵師伝』に記載がある、国周に「一男二女」がいることを「彫長」関係者は知らなかったそうだが、国周の性格を知るうえで意外な一面と言えるかもしれない。
ひいき役者
役者絵を多く手がけた国周だが、お気に入りの役者はいたのだろうか。
役者では左団次さんが贔屓で、左団次さんも国周さんを贔屓にして居ました。その外では音羽屋さんでした。
左団次とは初代市川左団次のこと。音羽屋は歌舞伎役者の屋号で、ここでは尾上菊五郎のことだろう。明治中期になると九代市川団十郎、五代尾上菊五郎、初代市川左団次による「団菊左」時代となり、歌舞伎は盛況だったという。
国周は演者を描くだけでなく、自ら演じることにも興味を持っていたようだ。『浮世絵百家伝』によると、壮年の頃の国周は「周魚」を名乗り、歌舞伎役者の声色や舞踏の真似事をしていた。
芸名「松魚」を名乗った友人の歌川国清(注:二代目国清と思われる)らとともに【水魚連】という一団を作って茶番狂言を演じていたという。これを見た人々からは専門芸術家を圧倒すると好評を得たそうだ。
豊原国周の絵仕事
「彫長」は彫師としても版元としても国周に接しており、その家族も国周の仕事ぶりを垣間見ていた。「彫長」近親者から聞き書きした近藤市太郎は次のように国周の絵仕事について書いている。
描画法
なお国周はコンパスを使用して、顔、胴、手足の比率を出し、右手の指三本の間に同時に三本の筆を挟み、線の長短太細に従って使い分けたと言う。最初人物の裸形のデッサンを描き、順次下着より描き加えて描いて行ったとも言う。
この頃は版元が校正摺を出して色分けをなす様な事はせず、最初から彩色絵一枚を彫師に送って居たものらしく、事実「錦絵の彫と摺」の筆者はこの色分け法は明治二十年頃全廃したと言っておられるに照して明かであろう。
国周の役者絵の写生に関して、私は質問したのであるが要領を得ぬ。中見(引用注:役者が舞台に出る前)の時にスケッチするとも言い、舞台上に於て演技せられて居るままを客席で写生するとも言い、或は、役者の男衆を家へ呼んで衣装を聞き、顔面の表情は暗記して居て描いたとも言う。
『錦絵の彫と摺』は、石井研堂によって昭和4年(1929)に書かれた本。このなかで明治20年頃を境に、どういう色分けで版木を彫るかは絵師の指示ではなく、「差し上げ」と呼ばれる彩色画を元に彫師まかせになったと記されている。
絵仕事へのこだわり
版元は来月興行の芝居の外題を知ると同時に、国周の所へ行き、例えば中幕の何の場面の如何なる処を描いてくれと注文するが、各版元の注文の場面が一致した場合は、国周の独断に任せる。又版元の注文が国周の芸術的感興を呼び起さぬ様なものであれば彼は決して筆を取らず、版元の意にも従わなかった。
又美人画の様な場合は彫師の技術の巧拙によって版元に絵を渡さなかった。誰れが彫るかと版元に聞いて、某々が彫ると言っても、その彫師の技の拙劣なる事が判って居れば彼は筆を取らなかったと言う。
彼は身貧にして気高く、自己の芸術を黄金の奴隷にしなかった所に彼の気骨がうかがわれて嬉しい。徳川期に於て、版元が異状な勢力を有して居た時に於ては、画家は全く版元の権力の前に下らざるを得なかった。画家が版元に借財をして居た為である。しかし聞く所によれば国周も又多分の借財を版元にして居たらしいが、それにしても自己の芸術を金の為に左右しなかった所に彼の性格の美点が存すると考えられる。
版元に借金をしていても、自分の意に沿わなければ筆をとらなかったのはいかにも国周らしい。版元も芝居好きの国周が切り取る場面に一目を置いていたことがうかがえる。
画稿料
版元もつとめていた三代目彫長。国周に払っていた画稿料はいくらだったのか。
(引用注:三枚続は)彫長は親交の間柄であった為に平均四円五十銭から五円の間であったと言う。しかし一般版元は六円-七円を支払って居たらしい。
明治30年頃の1円は2万円ほどの価値があったという試算がある。これを参考に現在の貨幣価値に直すと、三代彫長が国周の描いた三枚続の絵に支払っていた画稿料はだいたい9万円から10万円、一般版元は12万円から14万円ぐらいということになる。
まとめ
豊原国周と彫師、版元、ときには友人として深い親交のあった三代目彫長。その親族が語る国周は、他の資料でも記される通り、江戸っ子気質で引越し魔でクセの強い人物だった。
絵仕事では妥協を許さない姿勢が、彫師・描く題材の選定からその描画法にいたるまで貫かれていた。それは友人の版元には「お友だち価格」で請け負ったとしても、たとえ版元に借金をしていても、自分の描きたくないものには筆をとらなかった逸話によっても垣間見えた。
ちなみに国周は五代尾上菊五郎(俳名:梅幸)の『梅幸百種』と九代市川団十郎の『市川団十郎演芸百番』という、どちらも100図からなる大規模な揃い物を描いている。いずれも明治26年(1893)から版行されたが、お気に入りの役者である方の『梅幸百種』は翌年に完結しているのに対して、『市川団十郎演芸百番』が完成したのは国周死後の明治36年(1903)だった。嫌いな役者に対してなかなか筆が進まなかったことが容易に想像されるのが何だか可笑しい。
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参考文献
『浮世絵芸術』第3巻5号「片田彫長と國周の逸事」近藤市太郎(1934)
『演劇学論集 日本演劇学会紀要』「西南戦争における報道メディアとしての歌舞伎 —日清戦争と対比して—」埋忠美沙(2016)
『彫摺工系譜』(日本書誌学大系109(1)-(2))土井利一、後藤憲二編(2014)
『京都造形芸術大学紀要 GENESIS』第18号「豊原国周研究序説」菅原真弓(2013)
『市川左団次』松居桃楼(1942)
『錦絵と彫と摺』石井研堂(1929)※1994年復刊
『版画礼讃』春陽堂(1925)※2版
『浮世絵師伝』井上和雄(1925)
『浮世絵百家伝』関根只誠編(1925)
『浮世絵芸術』第20号「國周とその生活」森銑三 ※明治31年の読売新聞「明治の江戸児」を再録
早稲田大学文化資源データベース
man@bow「明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?」
あッしゃア似顔かきだから、役者は皆附合うが、団十郎ッて奴は、初めッから気に食わねえ。いつだッけか、団十郎が暁天星五郎の芝居をしたことがあったから、あッしがそれと菊五郎の小栗馬吉を画いた。その時団十郎が、菊五郎とこへ行って、絵かきなんて者は、役者に金を出して、似顔を画くのが当り前だのに、国周はどうも横柄だ、とか何とか、ぶつぶついったッてえから、あっしも癪に障った。それから西郷隆盛の芝居をやった時、わざと団十郎の西郷を出目に画いて、少年隊には、団十郎の弟子を一人も画かなかった。すると団十郎が、それと気が附いて、なおぷりぷりするから、三枚続き一人立ちの団十郎は決して画かないと極めて、どこから頼まれても断ってたが、嵐吉六、今の坂東喜知六がそれを聞いて、あっしに意見をするし、板元の方でも、まア我慢して画いてくれ、というから、また画くようになった ―「国周とその生活」より
「西郷隆盛の芝居」とは、団十郎が西郷隆盛(役名:西條高盛)、菊五郎が篠原国幹(役名:蓑原国元)、左団次が桐野利秋(役名:岸野年明)を演じた『西南雪晴朝東風(おきげのくもはらうあさごち)』のこと。また「少年隊には、団十郎の弟子を一人も描かなかった」錦絵はおそらく七幕目の西郷陣営の場を描いた三枚続きのことだろう。たしかに団十郎の目は「出目」ぎみに描かれている。
しかし国周が描いた初代市川左団次と九代市川団十郎を並べてみると、「出目」具合は程度の差のようにも感じるがいかがだろうか。