江戸後期を代表する浮世絵師のひとり、歌川国芳。多数の猫の絵を描き残しているのはもちろんのこと、猫好きであることを今に伝える逸話が多数残っている。そんな歌川国芳の猫好きエピソードを史料に書かれた話を元に紹介する。
目次
猫好きの山東京山と猫が主役の絵本を出版
戯作者(現在の小説家)の山東京山も国芳同様に猫好きだったらしく、原作:山東京山、絵:歌川国芳という猫好きコンビで天保十三年(1842)に「朧月夜の猫草紙」を出している(『浮世絵師歌川列伝』より)。この時、国芳44歳、京山73歳。
なお「朧月夜の猫草紙」は、「おこまの大冒険~朧月猫の草紙~」として現代語訳版が発売されている。
多い時には十数匹もいた国芳の飼い猫
国芳が猫を愛せしことは、よく人の知る所なり。関根只誠曰く、国芳は愛猫の癖ありて、常に五六頭の猫を飼いおきたり。採筆の時といえども、猶懐中に一二頭の子猫を入れおき、時として懐中の子猫に物語りして、きかせしことなどあり。(『浮世絵師歌川列伝』より)
国芳の猫好きは誰もが先刻御存じの事である。平素、その身の廻りに数匹、時に依ると十数匹を絡まして居ただけあり、彼らが一生中飼い殺しにした猫の数も決して少なくなかった。(『浮世絵志』第24号より)
一時、国芳の画塾に通っていた河鍋暁斎によって猫をふところに入れた歌川国芳の様子が描かれている(右側でまだ幼い暁斎に手ほどきをしているのが国芳)。
弟子総出で国芳の飼い猫大捜索
一日最愛の大猫、家を出でて行く所をしらずなりし。
国芳大いに驚き人を四方に馳せて、百方探索せしが、終に知れず愁傷甚だ深かりしと。(『浮世絵師歌川列伝』より)
国芳、猫専用の仏壇、位牌で猫を弔う
国芳の家には何処の家でも見る事の出来ない猫の仏壇と云うがあり、中には一々死んだ猫の戒名を誌した位牌が飾られ、従って猫の過去帳と云う珍物さえもあった。(『浮世絵志』第24号より)
国芳、猫がきっかけで弟子を破門
ある時、愛猫が亡くなった国芳は弟子の歌川芳宗に猫の亡骸を回向院(えこういん)まで運んで、和尚に猫を供養してもらうようお布施を持たせて使いに出した。猫が亡くなると毎度のことだったため、芳宗は不平も言わずにお布施と壷に入った猫の亡骸を持って出かけていった。
ところが、渡ればすぐ回向院という両国橋まで来て気が変わる。「こんな畜生がくたばったからと言って一々念仏唱えてもらうなんてバカバカしい。これだけお布施があれば女遊びもできらぁ。」と、芳宗は猫の亡骸を橋から捨ててしまった。
そこから芳宗は預かったお布施で床屋と湯屋(銭湯)で身だしなみを整え、付近で一杯飯を食べ、八丁堀あるいは蒟蒻島の遊郭で朝まで遊んでしまう。
翌朝、何食わぬ顔して国芳の家に帰ってきた芳宗。国芳から「ご苦労だった。で、猫の戒名は何だって?」ときかれて万事休す。芳宗は破門されたという。
この国芳の弟子、歌川芳宗の本名は鹿島松五郎、画号は一松斎。なかなか一癖ある人物だったようで、この後も十数回破門されては出戻っていたとのこと(『浮世絵志』第24号より)。
なお国芳が猫の供養をお願いした回向院や芳宗が猫を捨てた両国橋は今も形を変えて残っている。
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参考資料
『浮世絵志』第24号「一松斎芳宗父子(上)」大曲駒村
『錦絵』第36号「父を通して見た国芳先生」新井芳宗
『暁斎画談』瓜生政和、河鍋暁斎