幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年と関係の深い遊女として名前が挙げられる「幻太夫」。しかし、その詳細について説明された資料は少ない。そこで今回は幻太夫について調べてみた。
はじまりは質問サイトから
そもそも幻太夫について調べるきっかけは、月岡芳年を調べるうちにネット上で遭遇した以下のような質問である。
https://okwave.jp/qa/q5069887.html
この質問サイトの回答はネットの範囲内で調べ尽くされていたが、最後の答えまでは行き着いていないようだった。ちょうど他の記事を書くために読んでいた資料に「幻太夫」について詳しく書かれていたため、ここでは幻太夫の詳細について記しておきたい。
神風楼時代(宮内/玉藻)
幻太夫の本名は石川田鶴(たづ)。一説には大阪桃谷の生まれで父の病死後に遊女となったとされる。明治十七年(1884)に32歳という新聞記事の記録が残っていることから、生まれは嘉永八年(1852)と思われる。月岡芳年とは13歳も年下ということになる。また、明治十一年(1878)頃には横浜高島町にあった神風楼に「宮内」という源氏名(「玉藻」という説もある)で遊女として登場したのは確かなようだ。
「宮内」はすぐに評判となり、ある財産家に引き取られた。一説には、この財産家は外国人だという話があるが、こちらも詳細はわかっていない。しかし、家庭に収まっていたのはわずかな期間だったらしく、明治十三年(1880)9月には、東京に移って新吉原揚屋町のなかで格式高い品川楼に姿を現していた。その少し前には半月ほど根津遊郭の八幡楼に顔を出していたが、腑に落ちない点があったらしく八幡楼で抱えることはなかったという。
品川楼時代(二代目盛紫)
品川楼では「盛紫(せいし)」という源氏名を名乗った幻太夫。品川楼には以前にも「盛紫」という女郎がいたため、幻太夫は「二代目盛紫」ということになる。
初代盛紫
なぜ幻太夫は「盛紫」の源氏名を継いだのか。それは初代盛紫が心中事件でよく知られた存在だったからだ。初代盛紫は新吉原の甲子楼で「雲井」と称し、後に品川楼に移って「盛紫」を名乗った遊女。西南戦争から凱旋して七等勲章を持っていた谷豊栄(とよさか)という警部補と恋仲になったものの、谷は2人の子供がいる妻帯者だった。一方の初代盛紫も借金を重ねていた。
心中事件は明治十三年(1880)10月1日に起きた。明治十二年(1879)6月の『改正官員録』内務省警視局の部に警部補(陸軍少尉試補)として「谷豊栄」の名前が載っており、翌月の『改正官員録』から名前が見当たらない。名簿から消えた理由は、盛紫に入れあげて品川楼に連日のお泊りで仕事も手が付かなくなった谷が、養父からは出入禁止の勘当となり、役所からも免職となっていたからだ。
谷は伝手をたどって内務省山林局に入るも、公金70円(当時の谷の月給は12円)を使い込み、再び免職となった。さらに10月20日までの公金返済を言い渡されて追い詰められた結果、前夜に心中について同意をしていた盛紫と品川楼で命果てたのだった。
後にこの事件を読み物にした「北廊花盛紫(さとのはなさかるむらさき)」によると、谷豊栄は旧姓を松田といい、長崎で学問を修めた後、常陸笠間に来て谷氏に婿入りしたとある。
新比翼塚
初代盛紫と谷豊栄を祀った「新比翼塚」が箕輪の浄閑寺にある。この石碑は品川楼の楼主である橡木(とちぎ)荘吉が建立した。「北廊花盛紫」同様に読み物となった「色吉原盛糸裲襠(いろもよしはらせいしのうちかけ)」によると、二代目盛紫を名乗った幻太夫も楼主・荘吉とともに新比翼塚を参拝している(※幻太夫の参拝当時は荒川区浄心寺に塚があったが、谷の遺族の意向により浄閑寺に移ったとされる)
異様な扮装、地獄太夫の再来
この心中事件があってから品川楼の初代盛紫の部屋には幽霊が出ると噂になっていた。その部屋へ飛び込んできたのが二代目盛紫の幻太夫である。初代盛紫の部屋に据え付けてあった鏡の前で毎晩のように何やら話しかけ、うやうやしく一礼する習慣を続けて、他の遊女から気味悪がられていた。
部屋の飾りつけも出で立ちも他の遊女たちとはずいぶん変わっていた。床の間に達磨の掛け軸をかけ、棚の上には観音菩薩・勢至菩薩・閻魔大王の像を置く。当時遊女では珍しかった切り下げ髪で、着物は打掛の背一面に阿弥陀像とその後光を錦糸で縫いつぶし、裾の方には天人が紫雲に乗って蓮の花を振りまく様子、中着にはドクロと卒塔婆、下着にも蓮の花の染め抜きという趣向だった。さながら室町時代に実在したと言われる遊女、地獄太夫の再来だと評判になったそうだ。
大松葉楼時代(幻太夫)
品川楼では楼主と噂になり、幻太夫は忽然と姿を消した。一説には楼主が幻太夫に手を付けたことを口実にして、前借りしたお金を幻太夫が踏み倒したとも言われている。その後は新富町界隈で待合茶屋を開業したものの、うまくいかずに店をたたんで、根津にあった大松葉楼で再び遊女として姿を現した。はじめは源氏名を使わず、本名の田鶴(たづ)を名乗っていた。
しかし、恋仲になった男との脱走騒ぎを起こし、捕らえられて罰金刑を受けた。しばらくは大松葉楼で謹慎となったが、再び客をとるようになってから、ある酔客に「本名の田鶴ではもう面白くない、幻の一字を贈るから改名せい」と言われてその場で幻太夫を名乗るようになったという。品川楼時代と変わらず「仏臭い」もので身を包み、根津遊郭に出入りしていた骨董屋は仏臭いものを手にすると「これは幻好みだね」というのが決まり文句だったとか。
月岡芳年との関係
ここでようやく月岡芳年が登場する。二番目の妻、お楽さんと別れて根津に居を移した芳年。同じく根津の大松葉楼にいた幻太夫の評判を聞きつけ、明治十六年(1883)頃にはせっせと通っていたものと思われる。ただし、明治十六年というと後に芳年の妻となる坂巻泰と翌年には結婚をする間柄の時期。坂巻泰の連れ子である小林きんが「根津に松葉楼と申す女郎屋がありまして、その家の主人とは眤懇(じっこん)でもあり、お抱えの幻太夫に通いまして私も時々連れられて行ったことをおぼろげに覚えています。」と語っていることから、本気で入れ込んではいなかったようだ。
芳年はこの幻太夫のために額画を描き、成田不動に奉納した。額には成田山新勝寺の本尊である不動明王が描かれていたという。成田山新勝寺には月岡芳年が描いたとされる扁額が複数現存しており、そのなかに不動明王が描かれているものがある(山岡鉄舟の書が添えられている)。不動明王の横には「東京根津大松葉楼」の文字が見えることから、幻太夫のために描いた額画で間違いないだろう。
そんな芳年と幻太夫の関係は、ある日を境にパタリと止んだ。これには淫らな理由があったと言われている。ある時、芳年が幻太夫の身体の一部に対して「ある行為」を強要した。幻太夫は結局、その要求を受け入れて芳年を許したのだが、文字通りタダでは済まなかった。翌日に幻太夫から当時としては高額な「金百円」という請求が来たのだ。
その頃の芳年は「絵入自由新聞」から1か月40円を受け取る高給取りだったが、百円の請求は飲めなかった。自然と大松葉楼から足が遠のいたのだった。弟子の新井芳宗はこの頃を振り返り「先生も、あの時は少し卑怯だったよ」と笑いながら述懐したという。
別れた後の明治十八年(1885)、芳年は新聞「自由燈(じゆうのともしび)」に掲載された「燕子花起證一筆(かきつばたきしょうのひとふで)」という読み物の挿絵として幻太夫の姿を描いている(後述)。
小林清親との関係
幻太夫は、月岡芳年の他にも当時の著名人を客として迎え入れていた。そのうちの一人が月岡芳年同様、「最後の浮世絵師」と言われる小林清親だ。幻太夫から自分の着物に絵を描いてくれと迫られたエピソードが残っている。
両国の絵草紙屋・大平の依頼で描いた、明治十六年(1883)出版の『百面相』が好評で儲かったことから、大平からごちそうになった清親。さらに「先生これから別なところに案内しましょう」と人力車で連れて来られたのが、幻太夫のいる根津の遊郭だった。
大平が今夜は先生に面白いものをお引合せして驚かしてあげませうとて、或る部屋へ連れ込まれ、成程驚いた、それがまぼろしの部屋でありました。・・・部屋には仏壇あり、仏像あり、襖の張付けは例の蓮の花でその身は切り下げ髪に輪袈裟といふ巫山戯た(ふざけた)行粧で勤めをして居たのです。この部屋で再び大いに飲み上げたが、大平がしきりに画家扱ひするので、遂に打掛を書いてやる約束が成り立ち、後日白無垢へ墨絵でかいたのは羅漢の像で世間で骸骨をかいた様にいふのは誤伝であります。―『浮世絵志』第16号より
もしかしたら幻太夫は月岡芳年にも描いてくれとせがんで額画が制作されたのかもしれない。
三菱の総帥との関係
出会い
芳年が挿絵を担当した「燕子花起證一筆」のなかで、幻太夫がさらに大物の客をとっていたことが描かれている。根津遊郭のなかで大八幡という貸座敷にいた薄紫という遊女の常連客に、三龍会社の岩垣という人物がいた。ある日、客を遊女のもとへ案内する引手茶屋の手違いで大八幡ではなく、大松葉楼に連れて来られた岩垣。そこで相手として出てきたのが幻太夫だった。大曲駒村によると、この出会いは明治十八年(1885)頃の話だという。
幻太夫の猛烈アタック
名を隠して遊郭に来ていた岩垣だったが、幻太夫はすでに品川楼の二代目盛紫時代に出会った相手。すぐに岩垣の身元がバレてしまった。その夜はお開きとして皆に小遣いを渡して去った岩垣。岩垣を太客として取り込みたい幻太夫は、岩垣の駿河台にあった屋敷宛や茅場町の会社宛に何度も誘いの手紙を送った。しかし岩垣はこれを拒み、当時の人気力士だった大鳴門灘右衛門と劔山谷右衛門の二人を遣いに出して、二度も岩垣宛の手紙の発送中止を申し込んだという。
小指の葬式
あきらめきれない幻太夫は最後の手段に出る。左手の小指を切って薬用の小瓶に入れて岩垣の会社に送りつけたのだ。これなら岩垣も驚いて何とか折れて来るだろうと幻太夫は待っていたが、一向に動きがない。こらえきれずに幻太夫が駿河台の屋敷へ乗り込むも門前払いされ小指の入った小瓶も突き返されてしまった。後に引けなくなった幻太夫は、突き返された小指の葬式を挙げて、着飾って岩垣のいる駿河台の屋敷へ葬列で突撃する準備中というところで「燕子花起證一筆」は終わっている。実際に小指の葬式が行われたかどうかは定かではない。
種明かし
「燕子花起證一筆」で描かれた三龍会社の岩垣というのは、もちろん仮名で三龍は三菱、岩垣は岩崎を指している。三菱財閥の初代総帥、岩崎弥太郎のことだとする噂があったが、弥太郎は明治十八年(1885)に亡くなっており、出会いの年を考えるとあてはまらない。そこで明治十八年当時35歳だった岩崎弥之助(弥太郎の弟)説を唱える者もいる。
伝えられたところによると、スキャンダルを恐れた岩崎弥之助から、小指の形見金として千円が幻太夫に与えられたという。遊郭の苦界から抜け出すには十分な大金だった。
幻太夫のその後
上海に飛んだ?
「燕子花起證一筆」では、小指の葬式準備中で終わっており、その後の幻太夫の足取りは途絶えたかにみえた。しかし、一説によると明治十九年(1886)頃、大松葉楼で一緒につとめていた3、4人の同輩の遊女たちをそそのかして、上海に渡って密かに遊女となっていたという。幻太夫の性格面からすると信憑性があるようにも見えるが、これについては真偽を含めて定かではない。
信州上田での目撃情報
雑誌『東京新誌』第1巻第6号(昭和二年発行)のなかで飯島花月が地元の信州上田(長野県上田市)で幻太夫と出会ったという目撃情報を書いている。
それによると、明治二十年(1887)10月頃、信州上田の海野町にあった上村旅館に歳34、35歳の妖艶な女性が単身で宿泊したという。宿帳には本名の「石川田鶴」と書き、名刺も持っていた。当時、上田松本間の第二号線路の開墾中だったが、その技師長をしていた岸俊雄という工学士がすぐ近くに宿泊していた。いつしか幻太夫と岸の二人はいい仲になり、まもなく近所の座敷を借りて同棲するようになったという。その後一年足らずで上京して人材斡旋業についたとされるが、詳細はわかっていない。
この頃に信州上田連歌町の大石という写真店で撮影された当時の幻太夫の写真がある。これは飯島花月が入手したもので、前述した雑誌『東京新誌』第1巻第6号に掲載されている。
撮影時の年齢は35、6歳頃。遊郭にいた頃の切り下げ髪は短く切られ、櫛巻きに束ねていたという。後述する浮世絵に描かれた幻太夫とは印象が異なるものの、くっきりした二重まぶたからのぞく強い視線ときりっと結ばれた口もとが往時をしのばせる。
大松葉楼への恩返し
幻太夫のいた大松葉楼は、根津から洲崎へ移転した(幻太夫が大松葉楼を出たのはこの移転のどさくさに紛れてのことだったと推測される)。洲崎移転後、楼主がことごとく事業を失敗し、大松葉楼は廃業となった。明治二十三、四年(1890、91)頃、団子坂の借家住まいとなった楼主のもとへ幻太夫が現れ、「これは昔の借金だからお返しする」と言ってまとまったお金を置いて行ったという話が伝わっている。
浮世絵に描かれた幻太夫
波乱に満ちた幻太夫だが、その出で立ちや交遊から人々のあいだで評判になり、浮世絵師によって何度もその姿が描かれている。そのうちのいくつかをここでご紹介。
月岡芳年「全盛四季冬 根津庄やしき大松楼」
3枚揃の真ん中の図に描かれた幻太夫。芳年と関係を持っていた時期に描かれたとされる。着物の柄に目を向けるとドクロをかたどった白猫であることがわかる。これは芳年の師匠、歌川国芳が描いた「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」に登場するドクロを参考にした可能性がある。
豊原国周「今古誠画 浮世絵類考之内」
背景を三代歌川広重、人物を豊原国周が描いている。切り下げ髪の幻太夫が手に持っているのは、僧侶が虫を殺さず追い払うのに用いる払子(ほっす)。着物の背に描かれているのはブッダの弟子である羅漢の一人と思われる。
三代歌川広重「根津花屋敷松葉楼全盛揃之図」
根津松葉楼で売れっ子だった9人の遊女が描かれた3枚揃の浮世絵。幻太夫は国周の描いたもの同様、切り下げ髪に払子、背中には羅漢像という姿で描かれている。
小説に描かれた幻太夫
『伽羅枕』尾崎紅葉
明治二十三、四年(1890、91)頃、幻太夫が大松葉楼の楼主を再び訪ねて、しばらく仮住まいしていた頃に尾崎紅葉が幻太夫を訪問。その懺悔談を取材してできたのが小説『伽羅枕』だ。小説とはいえ、取材で聴いた話が多少は加わっているとみていいだろう。
『妖花』杉本章子
まさにこれまで取り上げてきた幻太夫の半生を描いた小説。品川楼からの幻太夫の軌跡を追う話となっている。ヨコハマ流から吉原流へと変貌を遂げ、手練手管を身に付けながら立ち回る姿はどこか痛快でもあり哀しくもある。
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参考資料
『浮世絵志』第14号「芳年と幻太夫(上)」大曲駒村
『浮世絵志』第15号「芳年と幻太夫(中)」大曲駒村
『浮世絵志』第15号「芳年と幻太夫を読みて」下町山人
『浮世絵志』第16号「芳年と幻太夫(下)」大曲駒村
『浮世絵志』第17号「芳年と幻太夫を読みて」梅本塵山、飯島花月、山中古洞
『浮世絵志』第18号「芳年と幻太夫を読みて」古堀栄
『東京新誌』第1巻第6号「北廓花盛紫」飯島花月
『歴史と旅』1998年10月号「強力読物 妖艶幻太夫一代記」東野りえ
『書画骨董雑誌』第72号「月岡芳年の芸術と其一生」鰭崎英朋
『成田山新勝寺の絵馬 成田山史料館図録 第2集』成田山史料館(1979)
『浄閑寺と荷風先生』浄閑寺編
『改正官員録』明治12年4月~9月
『読売新聞』1880年10月2日朝刊
『読売新聞』1880年10月3日朝刊
『読売新聞』1880年10月6日朝刊
『自由燈』1884年7月22日「幻太夫の拘引」
「燕子花起證一筆」は小説として新聞『自由燈』に連載されました。原作を読みたいので、いつの新聞なのか教えていただけますでしょうか。
「燕子花起證一筆」は、明治18年6月30日から同年8月2日まで連載されています。
ご参考になれば幸いです。