尾形月耕 -独学の生涯現役絵師-

尾形月耕

月岡芳年・豊原国周・落合芳幾をはじめ、歌川派の絵師が大きな勢力を占める明治期の浮世絵界で、師匠を持たず独学で地位を築いた絵師がいた。その名は尾形月耕。今回は尾形月耕について、その生涯と逸話について紹介する。

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生涯

出自

尾形月耕は、安政6年9月15日(1859年10月10日)、江戸京橋弥左衛門町(現在の中央区銀座四丁目2・3番)の名鏡家に生まれる。本名は名鏡正之助。祖父の長兵衛は江戸屋敷や豪商への人材斡旋業と塵芥収集の利権を握り、「江戸の三長兵衛」と呼ばれるほど裕福な商家だった。しかし父・清二郎は明治9年(1876)、月耕17歳のときに亡くなり、家業の利権を失うと京橋弓町(中央区銀座二丁目3~5番)に移って提灯屋を営むようになる。

月耕の父は、谷文晁の弟子である長谷川文龍に師事し、祭礼などには絵筆をとったこともあるという。その父の影響を受けてか、月耕も幼い頃より錦絵や巻物などを見るのが好きだった。そのうち自分でも描き始めたと月耕本人が語っている。明治維新前の世情不安定な時代にあっても、絵に対する理解があった父からは「絵画は師匠によると型にはまっていけぬから独学せよ」とやかましく言われたという。

コラム:名鏡姓の由来
月耕の息子、尾形月山によると名鏡という姓には次のような由来があるという。

父の家は新田氏から出たもので、下総付近に住んで居た頃、元禄七年七月とかに時の将軍の鶴御成りと云って鷹狩に同地へ来られ、其宅に休息あり、庭の古池が殊の外将軍の御意に留り、名鏡の如しと仰せられ以後姓を名鏡と賜った。(亡父尾形月耕(上)より)

弟子の山村耕花らの記載によると、名鏡という苗字は一般の読みである「メイキョウ」ではなく、「ナカガミ」が正しい。

錦絵デビューは自費出版

独学だった月耕にとって絵の修行といえば写生だった。市中で行き交う芸者やイキな素人、本郷座という劇場などで山の手の風俗を写生し、なじみの松本という骨董屋に行っては甲冑をモデルに着せてポーズを取らせて写生した。徹底的な写生は絵の仕事が入るようになっても続くこととなる。

父が亡くなり提灯屋を営むなか、画業で身を立てる決心をした月耕だったが、親類からは「お前が幾許いくばく美人の顔や、人の頭を描いたところで何になる者か」と嘲笑半分に勧告されていた。数ある絵草子屋に出版を頼んでも、師匠もいない月耕は相手にされなかった。そこで版画の自費出版を思い立つ。彫料すべて自分持ちということで銀座煉瓦街の某絵草子屋に出版を依頼することができた。

「なにをこの青二才が・・・」と笑った職人は前金を受け取りながら一向に仕事をしない。半年以上してようやく出来上がり、市中の各店舗で売られるようになったという(一説によると、出版には河鍋暁斎の後押しがあったとされるが典拠は不明。前金だけ奪われて泣き寝入りし、別の店から出版したとの証言もある)。

このとき「大塔宮」「真田幸村」「征韓論」の三図が出版されたが、好評だったことから出版先の態度が一変し、絵の依頼を受けるようになったという。三図のうち確認できるのは「征韓論」のみ。月耕自身が錦絵を描いたそもそもの始まりと語る「征韓論」は下図の名鏡斎季邑筆『建白御評議之図』のことと考えられている。「名鏡斎季邑」の読みは不明だが、名鏡斎は本名の名鏡から来ているのだろう。

建白御評議之図
建白御評議之図

出版された明治10年(1877)は西南戦争が始まった年であり、「征韓論」は時流に乗ったテーマだった。月耕はデビュー作について「今見ると随分とおかしなものです。」と語るとおり、たしかに足の長さや遠近感など極めて不自然な点は多い。まだ西洋画からの影響を消化しきれていない。しかしながら、わずか17、8歳で自費出版までしたという事実は画業への並々ならぬ決意が感じられる。

「尾形月耕」の由来

錦絵デビュー後、絵の仕事を行っていたとの月耕本人の証言もあるが、今のところ記録として確認できるのは4年後の明治14年(1881)まで待たなくてはならない。この年、月耕は無線七宝の発明者で知られる濤川惣助の花瓶に尾形月耕名義で「日光御門人物ノ図」の絵付けを行い、第二回内国勧業博覧会に出品されている。

ここで気になるのが「尾形」の姓はどこから来たのかという点だ。息子の尾形月山は「尾形」の由来について雅号「月耕」の由来とともに次のように述べている。

非常な敬神家で、芝虎ノ門琴平神社に八年と云ふ永い間、日課として日参を怠らなかったが、時の宮司某が神前に於て一つの雅号を授けた、れが即ち常に多く用ゐたの「月耕」であった。

尾形の姓は多くの人から本姓と思はれて居るやうであるが、此姓を名乗ったのは、陶器界及び蒔絵に筆を執って居た当時、尾形光琳の末葉にして京都に住んで居た尾形周平、光悦氏より尾形家保存の為め尾形姓を襲ぐことを再三再四懇望され、遂ひに尾形姓を名乗るに至ったのである。尾形姓襲名を懇望されたことは、父にとって此上ない名誉なことであったのである。―「亡父尾形月耕(上)」より

日々お参りしていた神社の宮司から雅号を授けられ、陶器や蒔絵の仕事で付き合いのあった琳派の末流に尾形姓の襲名を請われた月耕。よほど人から慕われる人物だったのだろう。

二十代で人気絵師の仲間入り

明治15年(1882)に弓町から生誕地の弥左衛門町に移ると、翌年以降には新聞挿絵(「朝野新聞」「勉強新聞」「今日新聞」)や単行本挿絵(春陽堂、博文館、金港堂等との仕事)、錦絵「護良親王遭難之図」など絵師として本格的に仕事を行っていたことが確認されている。

明治16年(1883)に始まるボール表紙本の挿絵を担当した数は年間100冊から200冊とも言われる。月耕のライバルと目されていた歌川豊宣(初代歌川国貞の孫)が過労により、明治19年(1886)に28歳の若さで死んでしまったほど、その忙しさは過酷だったという。

明治18年(1885)の浮世絵師番付「東京流行細見」には、23名中7番目に月耕の名前がある。このとき、月耕は26歳。月岡芳年をはじめとする【歌川派】が大勢を占めるなか、独学の月耕が浮世絵師としてその名を知られた存在となっていたことがわかる。

明治18年「東京流行細見」
明治18年「東京流行細見」

錦絵、挿絵で円熟する画風

明治20年(1887)に桶町(中央区八重洲2丁目)に移り住んで以降、明治20年代の月耕は、水野年方とともに新聞挿絵の双璧として絶大な人気を得た。明治24年(1891)、32歳となった月耕は自らの名を冠した『月耕随筆』という錦絵シリーズを刊行するまでになる。

明治20年代から30年代半ばにかけて『花美人名所合』『美人名所合』シリーズのように美人画と風景画を取り合わせた錦絵の代表品を残している。

花美人名所合 滝の川乃紅葉
花美人名所合 滝の川乃紅葉
美人名所合 利根川鯉漁
美人名所合 利根川鯉漁 ※画像提供:五拾画廊

前述したモデルを使っての写生は、同じ時期に描かれた日清戦争の錦絵や『義士四十七図』シリーズといった戦争画・歴史画にも生かされた。

我軍大挙囲台南府陥劉永福之根拠
義士四十七図 冨森助右衛門正因
義士四十七図 冨森助右衛門正因

日本画家として

尾形月耕肖像
尾形月耕

月耕は挿絵や錦絵の仕事をこなすかたわら、日本画家としても活動した。明治17年(1884)には、アーネスト・フェノロサが中心となって結成された鑑画会へ参加し、翌年には第一回展に出品。その後も自ら結成に参加した日本青年絵画協会共進会を中心に展覧会への出品を行い、晩年まで受賞を重ねている。

また個展の開催、海外展覧会への出品も当時としては積極的に行った。描いた作品は、江戸期や明治当時の風俗、歴史画が多い。※外部リンクで作品閲覧可能

出品年 出品展覧会 出品作
明治18年(1885) 第一回鑑画会 『仏師運慶の図』
明治26年(1893) 第二回青年絵画協会共進会 『稚児遊戯図』(一等褒状)
明治26年(1893) シカゴ・コロンブス万国博覧会 『江戸山王祭』
※東京国立博物館蔵
明治27年(1894) 第三回青年絵画協会共進会 『演劇見物』(銅牌)
※東京藝術大学蔵
明治27年(1894) 富山市設博覧会 『汐汲踊図』(銅牌)
明治28年(1895) 第四回青年絵画協会共進会 『江戸川夏景』(一等褒状)
明治29年(1896) 第一回絵画共進会 『七夢』(一等褒状)
明治29年(1896) 日本美術協会秋季美術展覧会 『水火』(銅牌)
明治30年(1897) 第二回絵画共進会 『武将作歌』(銅牌)
明治30年(1897) 第三回絵画共進会 『菅公詠詩図』(銅牌)
明治31年(1898) 第四回絵画共進会 『文化年度日本橋』
明治31年(1898) 第五回日本絵画協会展 『江戸の花』(銀牌)
明治32年(1899) 第七回日本絵画協会展 『蝉丸』(銅牌)
明治33年(1900) 第八回日本絵画協会展 『用明天皇道行』(銀牌)
明治33年(1900) パリ万国博覧会 『浅草寺』(銅牌)
※関東大震災で焼失
明治35年(1902) 第十二回日本絵画協会展 『大物浦』(銀牌)
明治36年(1903) 第五回内国勧業博覧会 『元禄美人図』(褒状)
明治36年(1903) 歴史風俗画会展覧会 『東叡山文珠楼』(審査員出品)
明治36年(1903) 日本美術協会第三十四回美術展覧会 『喜怒哀楽』(銀牌)
明治38年(1905) 日本美術協会 『享保四季風俗』(銀牌)
明治39年(1906) 歴史風俗画会展覧会 『誠(嫉妬)、虚(虚泣)』
(二等賞銀印)
明治43年(1910) 日英博覧会 『奥沢九品仏来迎会』(銀賞)
※東京藝術大学蔵
大正元年(1912) 第六回文展 『山王祭』(三等賞)

明治31年(1898)に岡倉天心が東京美術学校を退き、日本美術院を設立すると月耕は日本美術院の正員となった。同年には日本美術協会の『曾我夜討』が明治天皇の御買上となっている。

明治37年(1904)には築地に移住。転居先は榎本武揚が建て、後に明治前期を代表するジャーナリストである福地源一郎(福地桜痴)が住むも、福地が選挙に立候補する際に資金作りで手離した通称「紫陽花屋敷(あじさいやしき)」。

家族と弟子たち

家庭生活では、明治21年(1888)に先妻のとよと離婚。紀州家御典医・田井俊斎の娘で月耕の弟子となっていた田井喜久(耕転)と再婚し、田井姓を名乗るようになった。この頃から【田井】と【月】をかたどった印章も使われている。長男の正子(まさつぐ)、長女の玉子(たまこ)も月耕の弟子となり、それぞれ月山(はじめは月三)、玉耕という雅号で日本画家となった。

月耕印章の一例(田井月耕)

名声が高まるとともに月耕には弟子が増えていった。弟子の雅号には、月耕から「耕」の一字を授けられた者が多い。入門時期別に分類した月耕の門下生系譜図は以下の通り(『Bien 美庵』Vol.45を元に作成)。

尾形月耕の弟子たち
尾形月耕の弟子たち
コラム:尾形月耕の弟子と月岡芳年
月耕門下生のうち、坂巻(月岡)耕漁は月岡芳年の後妻の子供。はじめは月岡芳年の弟子(雅号:年久)だったが、義理の息子であることを黙って入門したことが露見し、芳年夫婦の間が変になったことから月耕の門に移ったとの逸話が残る。

その逸話を口述で残した月耕門下生の熊耳耕年も元々は月岡芳年の弟子だった。芳年の死後、耕漁に月耕門下生となることを相談し、芳年の未亡人(耕漁の実の母親)に断りを入れ、晴れて月耕の弟子になったという。

晩年まで精力的に活動していた月耕だったが、大正9年(1920)10月1日に牛込区新小川町(現在の新宿区新小川町)の自宅で亡くなる。満60歳だった。墓所は雑司ヶ谷霊園の1-東6-3。墓石は昭和43年(1963)に月耕の孫で画家の尾形礼正(あやまさ)氏によって建立されている。大正年間に建立された墓誌には息子の尾形月山の名前も見える。

尾形月耕墓
尾形月耕墓
尾形月耕墓誌
尾形月耕墓誌

逸話

苦手なもの

息子で日本画家の尾形月山は父・尾形月耕について以下のように語っている。

私は、天災的なもと来ては話を聞いたけでも震え上る性質であるが、これは皆父月耕の遺伝だと思ふ。月耕は雷、地震、風と来たら大の禁物で、是等の音が聞えると筆を執り所の騒ぎでなく、早速部屋へ閉籠り青くなったもので、車の音を雷、地震に間違へて画室を飛出すなんぞは始終有り勝ちのことであった。かつて井浦耕齢を随行として越後方面へ出かけ碓氷峠の隧道の音が雷のやうで気持ちが悪いから隧道の中で下車しやうと、いたく悩ましたと云ふ逸話がある。
―「亡父尾形月耕(下)」より

負けず嫌いの独学

すべて独学だったため、日本画を描く準備として絵絹や和紙に礬砂(どうさ:絵の具のにじみを防ぎ、紙の伸縮をおさえるために使う)液を引くことを知らなかった月耕。負けず嫌いであったゆえに、人にも聞けず苦労したようだ。

月耕はかつて師と云ふものにかず、全く独学独修で鍛へ上げたものである。何事にも細心の注意を払ふと同時に、すこぶる小心な人であった。夫れで却々なかなか強情な、負気ず嫌いの人であった。初めて絵絹を枠張りにする時、誰か其道の人に鳥渡ちょっと教へを乞へば好いものを、負気ず嫌いの性分として他人に聞く事すら出来ず、独りでいたく悩んで居た、或時のこと、三味線師の店頭を通り掛ると、三味線の皮が張込んであった。夫れを見て不図ふと、絹の張様に分別が付いた。帰宅早々絵絹を小さい釘で枠へ張附けた、それまでは好かったが、礬沙どうさをひく事を知らないものだから、寒天を水で煮てひいたところ、矢鱈やたらにピカピカ光って一向に張がなく、大いに閉口したと、能く座談に笑はして居た。
―「亡父尾形月耕(下)」より

白髪染め

尾形月耕は晩年に白髪染めをしていたという。その経緯が「証人」によって語られている。

まだ五十四、五歳の頃たいぶ白髪親爺になった。あるとき所用の途中、茅場町の鳥屋で昼食、ふと向うを見るとこれもひとりで食事中の老人、おやおや自分もああなってはと他人の老人振りに悲観、ところがよく見ると仕切の衝立ついたてが姿見になっていて、右の老人と見たのは、ほかならぬ画伯自身偶然の対面、これはこれはといよいよ悲観、そこで帰途わざわざ拙宅(引用注:著者の山本笑月のこと)に立ち寄り、一つこの白髪を染めて若返り、ますます画道に尽したいが、ほかの意昧で染めたと思われては困るから保証人になってくれとの話、大笑いで即決、当時画壇の斎藤別当と唄われた。
―『明治世相百話』「日本画壇の斎藤別当 尾形月耕翁白髪染めの証人

「白髪を染めて若返り、ますます画道に尽したい」とはいえ、わざわざ証人を立ててまで白髪染めをしたのはなぜだろうか。理由を知るにはまず月耕が例えられた斎藤別当を知る必要がある。

解説:斎藤別当
斎藤別当実盛のこと。平安時代末期の勇猛な武将と知られ、もとは源氏方だったが、主君だった源義朝が討たれた後は平家方についた。平維盛が源頼朝を迎え撃つ富士川の戦いでは、戦いの前に東国武士の勇猛さを説いたことから平家方が過剰な恐怖心を抱き、水音の羽音に驚いて敗走した遠因を作ってしまったとも言われる。

木曽義仲追討の際には義仲の倶利伽羅峠での奇襲に平家方が敗れて総崩れとなった。しかし実盛は一歩も退かず奮戦し首を討たれた。誰のものか判らなかった首は義仲の命により洗われると、みるみる髪が白髪に戻り、実盛の首とわかった。実盛は以前から六十歳を過ぎて戦場に赴くときは、老武者として同情を受けたくない、白髪を染めて若武者として死にたいと語っていたという。

そして、東京日日新聞(大正元年(1912)10月11日)の記事の中では、白髪染めに連なる月耕の絵に対する態度がうかがえる。月耕は名を成した後も、すでに息子の月山が入選を果たしている文展の第六回展に、審査員や特別枠ではなく一般枠で絵を出品して話題となっていた。

今回の文展入賞者中に尾形月耕氏の名を求めずとも老先生老先生で安穏たるべく、それになまじ出品などしてもしハネられでもせば可惜あたら人の笑ひを招きて老大家の名を傷つくる危険もあらば、他のその地位にある人は多く引込み思案となりて出品など想いも寄らざるに月耕氏その姑息をけ、その危険を冒して出品画に筆を揮へるは芸術家としての健気さ真に推称敬服に価するなり

月耕は白髪染めをすることで、斎藤別当と同じように「老大家」扱いによる同情や忖度を嫌い、「現役絵師」「現役画家」として評価されることにこだわっていたのではなかろうか。

まとめ

日本美術史のど真ん中である日本美術院に属していながら浮世絵系の傍流と見られ、尾形月耕の名前は現在埋もれてしまった。近年再注目される浮世絵師と比べると、絵の中の「際立つ個性」や「アクの強さ」あるいは人柄における「破天荒なふるまい」は月耕にはないかもしれない。

しかし、新聞挿絵・錦絵・日本画とさまざまな形で江戸から明治の風俗を描き残した月耕の功績は小さくない。調べてみる前は月耕は浮世絵師の認識だったが、活動分野は浮世絵師として括るにはもったいないほど幅広い。その幅広い分野で活躍したことが却って定まった評価を得られない一因になっているようにも思える。肉筆画の再発見、回顧展など画業全体を見渡す機会があれば月耕の評価も見直されるのではないだろうか。

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参考文献

『第二回内国勧業博覧会出品目録』(1881)
『早稲田文学』明治四十年四月の巻「三枚続征韓論」尾形月耕談(1907)
『錦絵』第36号「亡父尾形月耕(上)」尾形月山(1921)
『錦絵』第37号「亡父尾形月耕(下)」尾形月山(1921)
『浮世絵師伝』井上和雄(1931)
『明治期美術展覧会出品目録』(1994)
『浮世絵芸術』144号「尾形月耕-明治十年代から二十年代の活動を中心に-」岩切信一郎(2002)
『浮世絵芸術』165号「尾形月耕幻のデビュー作『征韓論』は、名鏡斎季邑筆『建白御評議之図』か?」堀川浩之(2013)
『浮世絵芸術』171巻「仙台の浮世絵師・熊耳耕年の“月岡芳年塾入門記”」堀川浩之(2016)
『Bien 美庵』Vol.34 忘れられた明治の画家を再評価せよ!!(2005)
『Bien 美庵』Vol.45 尾形月耕とその一門(2007)
『尾形月耕展 ―花と美人と歴史浪漫―』那珂川馬頭広重美術館編(2018)
国立国会図書館デジタルコレクション
東京文化財研究所 『美術画報』所載図版データベース