江戸末期の人気浮世絵師、歌川国芳の墓のある東京小平市の中将山大仙寺に行ってみた。
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大仙寺の歴史
大仙寺は昔から今の場所にあったわけではなく、以下のような経緯をたどって場所を移している。歌川国芳が葬られた時は浅草に大仙寺があったことになり、お墓もお寺と一緒に現在の小平市に移っている。
文禄4年(1595):正善院日堂上人が江戸八丁堀(現中央区)にお堂を構えて布教
正保元年(1644):浅草八軒寺町(現台東区寿)に寺領を移転
昭和20年(1945)3月10日:東京大空襲により焼失
昭和23年(1948)5月:現在の東京都小平市に再建
寺名の由来
日堂上人が佛門に入る前、中将位にあり、大仙と号していたので、この官名と号から人々が親しみをこめて中将山大仙寺と呼んだことに由来。(大仙寺パンフレットより)
浅草時代の隆盛
浅草時代のこの寺は、宗門最高寺院の貫主などを多数輩出したことから出世寺と呼ばれた名刹であった。また、学僧の寺としても、役僧の隠居寺としても名高い寺であった。参道入口に柳の大樹があったところから、通称柳寺とも呼ばれ、また子安鬼子母神の守護寺として庶民の信仰を集めていた。(大仙寺パンフレットより)
歌川国芳の墓
本堂裏にある歌川国芳の墓は、本名である井草芳三郎の「井草」家の墓。隣接している「鷲津家之墓」は、国芳の家系が女子ばかり生まれて遂に井草家は継がれず、今の鷲津家に至ったとのこと。
国芳には2人の娘がいて、ともに父国芳の門人として浮世絵の作画活動をしていたことが確認されている。長女の「とり」こと、歌川芳鳥女は若くして亡くなり、次女の「よし」こと、歌川芳女は田口其英を婿養子に迎えるが男子には恵まれなかったようだ。
飯島虚心の『浮世絵師歌川列伝』によると、井草家の墓石には右側から以下の通りに書かれている。
墓石正面
「円性院元意、文化十一年甲戌三月十日」
「一勇斎国芳 深修院法山信士、文久元年辛酉三月五日」
「深達妙夢信女、安政三丙辰八月廿七日」
「信性妙意、文政九丙戌十一月廿六日」
墓石右側
「深行庵妙修信女、慶応四戌辰年五月二十四日、国芳妻」
このうち、画号である「一勇斎国芳」が添えられた「深修院法山信士」が歌川国芳。飯島虚心は「円性院元意」が国芳の父親、「信性妙意」が国芳の母親、「深達妙夢信女」は国芳の先妻、「深行庵妙修信女」は国芳の後妻だとしている。墓石横に設置されている墓誌にも一番右に国芳の戒名の「深修院法山信士」と命日「文久元年三月五日」、画号「一勇斎国芳」、享年「六十五才」が記されている。
御朱印
観光地化されていない、地元に根付いたお寺という印象の大仙寺。お寺に入って右手の庫裡(くり:住職の住居)で御朱印をお願いすると、快く書いていただいた。
日蓮宗のお寺とあって中央には「南無妙法蓮華経」。ご本尊は、図中央に「南無妙法蓮華経」の題目、その周囲に十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)を書き、これによって『法華経』の真実を図示したという十界勧請大曼荼羅(じっかいかんじょうだいまんだら)。
アクセス
東京都小平市上水南町2-11-20
最寄駅:JR国分寺駅北口より徒歩20分
立川バス:JR国分寺駅(北口)より
・昭和病院行き・大沼団地行き・花小金井駅南口行き「上水南町」下車徒歩5分
・回田循環行き・回田本通り入口行き「上水南町」下車徒歩5分
京王バス:JR国分寺駅(南口)・武蔵小金井(北口)・府中病院より
・小平団地行き「文化学園大学」下車徒歩4分
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参考資料
『浮世絵師伝』井上和雄編(国立国会図書館デジタルコレクション)
佐竹永海は近江彦根藩主・井伊直亮(なおあき)・直弼(なおすけ)に仕え、明治期まで生きた画家。お芳の夫となる永喜については調べがつかなかったが、再婚した鷲津一角については『漫談明治初年』のなかで一角・お芳夫婦に部屋を貸していた田中巴之助が証言を残していた。お芳についても興味深い話があったので、ここに紹介する。
お芳が大蘇芳年こと月岡芳年のことを笑っていたというのは、おそらく芳年がまだ小僧だった頃から知っていたからだろう。横浜に居留していた外国人に春画を売っていたというエピソードは、まさに「芸は身を助く」そのものだ。