曾我蕭白 -無頼の奇想派-

長らく忘れられた絵師だったが、辻惟雄の『奇想の系譜』で取り上げられたことをきっかけに近年再評価されている曾我蕭白(そがしょうはく)。今回は、その生涯と逸話について取り上げる。

奇想の系譜 (ちくま学芸文庫)
奇想の系譜

来歴

生涯

曾我蕭白は生前に残された資料が少なく、その生涯について不明な点が多かった。しかし、明治に入ってから蕭白についての聞き取り調査を行った日本画家の桃澤如水、昭和に入ってから『奇想の系譜』を著した辻惟雄らによって大きく研究が進んだ。

現在までにわかっているその実像は、早くに両親を亡くし、生まれた京都を住まいとしながらも伊勢(三重県)、播州(兵庫県)など各地を巡って作品を残す絵師であった。伊勢も播州も木綿の産地であり、実家の丹波屋が紺屋(染物屋)であれば、そのつながりを頼ったのではないかと推測されている。

誰に絵を学んだかも明らかな資料は出てきていない。しかし、はじめは近江国(滋賀県)の絵師、高田敬輔(たかだけいほ)に学び、後に曾我派の祖・曾我蛇足を慕って、自ら「蛇足十世」と名乗ったとする説が有力だ。蕭白の主な出来事については以下の年表の通り。

和暦 西暦 年齢 出来事・作品
享保15年 1730 1歳 京都の商家、丹波屋の吉右衛門・ヨツ夫妻の子として生まれる。本姓三浦氏。
元文5年 1740 11歳 5月15日、江戸にて兄が死去。
寛保元年 1741 12歳 このころから12・13歳か14・15歳ころまで、三重県久居市の米屋に奉公していたという伝承が残る。
寛保3年 1743 14歳 2月29日、父・吉右衛門死去。
延享3年 1746 17歳 1月19日、母・ヨツ死去。
宝暦8年 1758 29歳 この年から伊勢地方(三重県)遊歴。「竹林七賢図襖」(焼失)「小野妹子・迹見赤檮(とみのいちい)図」「布袋図」「鷹図押絵貼屏風」「折檻故事図屏風」「鳥獣人物図押絵貼屏風」
宝暦9年 1759 30歳 「十六羅漢図」(焼失)「久米仙人図屏風」
宝暦10年 1760 31歳 「林和靖図屏風」
宝暦12年 1762 33歳 このころから播州高砂(兵庫県高砂市)に滞在か。「神馬図絵馬」
宝暦13年 1763 34歳 「雲龍図」
明和元年 1764 35歳 このころ、伊勢地方を遊歴。「雪山童子図」「旧永島家襖絵群」「唐獅子図」「群仙図屏風」
明和3年 1766 37歳 「達磨図衝立」京都への帰途、奈良で「波濤群鶴図屏風」を制作か。
明和4年 1767 38歳 このころ、播州高砂再遊。この頃、播州には蕭月・蕭湖という2人の弟子がいたとされる。「牽牛図絵馬」「松に孔雀図・許由巣父図襖」「洋犬図」
明和8年 1771 42歳 このころ、三度目の伊勢遊歴か。
安永4年 1775 46歳 この年の『平安人物志』に、円山応挙・伊藤若冲・池大雅・与謝蕪村とともに載る。20人中15番目に掲載。住所は京都上京と記される。
安永6年 1777 48歳 8月11日、息子夭折。「蘭亭曲水図」
天明元年 1781 52歳 1月7日死去。京都上京の興聖寺に墓碑がある。

同時代の絵師たち

京都に住む文化人の氏名、住所、職業が掲載された『平安人物志』。曾我蕭白の名が載る安永4年版の『平安人物志』には、円山応挙、伊藤若冲、池大雅と妻の玉蘭(ぎょくらん)、与謝蕪村、呉春といった後世に名を残す絵師たちも掲載されている。蕭白の生きた時代の京都がいかに優れた絵師を輩出していた場所だったかがうかがえる。

『平安人物志』安永4年版
『平安人物志』安永4年版
『平安人物志』安永4年版
『平安人物志』安永4年版

蕭白は7歳年上の池大雅と親しく、後述する「そば」の逸話を残している。また3歳下の円山応挙はかなり意識する存在だったのか、蕭白は「画を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」という言葉を残している。写生を重んじ、姿かたちを「絵図」として描いた応挙として、どこか皮肉ったような発言だ。

コラム:曾我蕭白の自画像?

曾我蕭白の代表作のひとつ「群仙図屏風」のなかで蕭白の自画像が描かれているという説がある。それは、六曲一双の屏風の右隻の一番右端に描かれた人物だ。

  1. 右端から絵全体をみつめている
  2. (絵)巻物を持っている
  3. 背景に煙のようなものが描かれている唯一の人物で、屏風とは別世界から現れたように見える

等の理由から自画像だというのだが、はたして・・・??

曾我蕭白「群仙図屏風」(部分)
曾我蕭白「群仙図屏風」(部分)

荒ぶる京の絵師 曾我蕭白

逸話

江戸時代から「狂人」と評されるなど、曾我蕭白には傲岸不遜(ごうがんふそん)、無頼(ぶらい)の絵師という逸話がついてまわる。ここでは、そんな蕭白のエピソードをいくつか紹介する。

野垂れ死にかけて拾われる

松坂近郊の豪農が帰り道に通った金剛坂下である青年が倒れていた。頭のあたりには頭陀袋と筆が放り出されている。その地の豪農が呼び起こして話を聞くと「おれは画家だが、腹が減ってもはや歩けなくなったから寝ているのだ」と言うので、捨て置くこともできず家に連れ帰った。拾われた青年、曾我蕭白はその家にしばらく留まると十畳の座敷の三方に梅を描いたという。(桃澤如水「曾我蕭白」より)

この時描かれたのが、「旧永島家襖絵」と言われている。当時、永島家ではちょうど家を新築しており、その襖絵を蕭白が手がけることになったのだ。襖絵は現在、三重県立美術館が44面を所蔵しており、現存する蕭白の絵としては最大規模を誇っている。

屏風に虹をかける

伊勢国久居藩を治める藤堂家から金屏風を注文された蕭白だったが、食客となって毎日酒を飲み御馳走を食っては寝てばかりいる。たまらず家老が催促すると、「それでは描く」と、大量にすらせた墨をすり鉢に入れ、紺青・金泥など高価な絵具を15両分加えて、しゅろ箒でかき回した。その箒で金屏風一双に湾曲した線を引き、そのまま勢いで家老の顔まで塗ったあげく飄然と立ち去ってしまった。家来がその姿を追おうとしたが後の祭り。すると金屏風の乾いた墨から七色の虹があらわれたのだった。(桃澤如水「曾我蕭白」より)

この時描かれた一本線の虹の金屏風は、現在まで所在が明らかになっていない。

しかし、世界有数のポップアート・コレクターで知られるパワーズ夫妻のパワーズ・コレクションのなかに、蕭白が「虹」を描いた「富士・三保松原図屏風」がある。当時の画題としては珍しい「虹」を描いた逸品で、この絵から生まれた逸話ではないかとする説もある。

曾我蕭白「富士・三保松原図屏風」(部分)
曾我蕭白「富士・三保松原図屏風」(部分)

伊勢地方での変わったふるまい

伊勢地方に滞在していたころの蕭白については、上記の他にも江戸期に書かれた書物に書き残されている。「蕭白と云う画師来ル是も柳屋へ入込ミしが、余り異彩のふるまい故、いかふ(一向)はやらず」(森壷仙『宝暦咄』より)、「毎々酔ヒテ肩輿(かご)の背面ニ乗り、輿中三絃ヲ弾キテ通行致セシ由」(森鳥長志『槃礴脞話(はんばくざわ)』より)とあり、いかに風変りな人物であったかがわかる。

使いの僧を追い返す

蕭白が京都に住んでいた頃、本願寺の門主が蕭白に絵を注文するために使いの僧を出した。この使いの僧は本願寺門主の命をうけたことで得意げになり、蕭白の家の戸を叩き「我は本願寺門主の使いなり。蕭白はいないか。」と尋ねた。これを聞いた蕭白は家の中から大声で「どこの坊主か知らぬが不遜(ふそん)なるぞ。ただ(敬称もなしで)蕭白とばかり呼ばれる蕭白はここにはおらん!」とののしって追い返したという。(安西雲煙『近世名家書画談』より)

ちなみに他の文献では、この話の続きがある。使いの僧が先ほど聞こえてきたのは蕭白の声に似ていると思い直して引き返し、「先生はいないか。」と尋ねた。すると蕭白はすぐに出てきて対応したという。(白井華陽『画乗要略』より)

安い作画料を拒否

備前国(現在の岡山県・兵庫県の一部)の殿様が蕭白の画才を聞きつけ、金屏風に何か描いて欲しいと依頼。蕭白は依頼に応じて一気呵成に描き上げた。この屏風を気に入った殿様は銀子7枚を渡そうとすると、蕭白は「数枚の銀子では我が大手筆に報いるにあたわず」と受け取ろうとしなかった。殿様は安い作画料を出してしまった自分を恥じて、さらに銀子50枚を足して渡した。(堀成之『今古雅談』より)

絵師と危うく刃傷沙汰

ある年の夏の京都。絵師の勝山琢舟らと涼みに行っていた蕭白は、琢舟が佐野の船橋の絵に本来ないはずの欄干(参考画像:欄干のない佐野の船橋)を描いたことを非難し「京の絵師の名折れなり。描き直されよ」と言った。琢舟は「(狩野)探幽の図にならって描いたのだ」と譲らない。口論となると、ついに蕭白は脇差を抜いて琢舟に斬りかかり、周りの者が止めに入った。(朝岡興禎他『古画備考』より)

※参考:葛飾北斎「諸国名橋奇覧 かうつけ佐野ふなはしの古づ」
※参考:葛飾北斎「諸国名橋奇覧 かうつけ佐野ふなはしの古づ」

池大雅から自家製手打ちそばに誘われる

蕭白と普段から親交のあった池大雅はある時、そば粉を手に入れた。さっそく大雅は、我が家に来たら手打ちそばをごちそうすると蕭白を誘った。そば好きの蕭白は日を待たずに大雅を訪問。蕭白・大雅ともに時を忘れて話し込み、そばのことはすっかり忘れてしまった。

日暮れ時に大雅は「お腹が空いてしまった。キミもそうだろう。」と言って妻の玉蘭に茶粥を用意させて振るまう。さらに話に夢中になっていると、夜もふけてしまった。帰ろうとする蕭白に大雅は「この闇夜に提灯(ちょうちん)がなくてはと思うが、我が家にはこれしかない」と、行燈(あんどん)を持たせた。蕭白はこれを提げ行燈にして家に帰った。結局、その日は2人ともそばを食べずじまいだった。(安西雲煙『近世名家書画談』より)

まとめ

不遜なエピソードをたくさん残している曾我蕭白だが、そこにはどこかに仕えて禄(給与)をもらうでもなく、伊藤若冲のように商いで得た資本があるわけでもない、「自分の絵(画才)のみで食っている」というプライドが見て取れる。

変わり者な逸話が目立つなか、池大雅との交流や円山応挙へのまなざしなど、同時代を生きた絵師との関わり合いがお互いの作品に影響し合ったのではないかと夢想すると滋味深い。

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参考資料

『三重大学教育学部研究紀要』第65巻「桃澤如水の蕭白画博捜」山口泰弘
『蕭白ショック!!曾我蕭白と京の画家たち』図録 千葉市美術館・三重県立美術館編
『近世名家書画談』安西雲煙
『今古雅談』堀成之
『古画備考』18巻 朝岡興禎他
『画乗要略』白井華陽他

「平安人物志データベース」国際日本文化研究センター