葛飾北斎の娘・応為や河鍋暁斎の娘・暁翠、歌川国芳の娘・芳鳥、芳女など浮世絵師になった浮世絵師の娘が近年注目を浴びてきている。そんななか芸妓として生き、浮世絵に描かれた浮世絵師の娘がいた。
目次
新橋芸妓・若菜屋島次
島次の生い立ち
今回の主役、若菜屋島次は嘉永四年(1851)年11月、銀座二丁目のいろは長屋にて浮世絵師・歌川芳宗と妻・やすのあいだに第五子として生まれた。本名は鹿島しま。幼い時から三味線を始め、わずか13歳で常磐津の名取りとなった。その年には常磐津の師匠として看板を出したという。
明治元年(1868)、18歳の時に両親と相談のうえ、母親の実家の屋号を取った芸者置屋「若菜屋」を開業し、「島次」の名で芸妓となった。開業2、3年目で火事に遭い、一家は月岡芳年(父・芳宗の弟弟子)の家の2階を一時借りた後、金春の煉瓦長屋ができるのを待って移り住んだ。
現在、銀座八丁目の金春通りには銀座八丁目八番地(旧金春屋敷地内)で発掘された当時のレンガで出来た「金春通り煉瓦遺構の碑」が建っている。もしかしたらこのレンガは島次や芳宗の姿を目の当たりにしていたかもしれない。
父・歌川芳宗
島次の父・歌川芳宗は歌川国芳の弟子で、国芳から破門されること十数度、破天荒な逸話が残る浮世絵師だった。彩色が得意で安政六年(1859)頃に出された『十目視所十指々所花王競十種咲分』という浮世絵師十傑の名前が掲載されている史料でも「彩色 一松斎芳宗」とある。本名が松五郎だったことから師匠・国芳からは「松公」などと呼ばれ、国芳の版下絵の色差しや肉筆画の着色を行っていたようだ。
「じゃ松公、おまえ行って成駒屋の親方の背中へ描いてくれ」ということになり、芳宗は中村座へ通って油入りの絵の具で翫雀の肌に描いた。この刺青によって芝居の見物客から「成駒屋は団七のために刺青をした」との評判が江戸中にたちまち広がった。この時、芳宗は一日おきに中村座へ通い、その都度二朱金をもらってホクホク顔だったという。
弟・新井芳宗(二代芳宗)
歌川芳宗には11人の子どもがいた。その末っ子が二代芳宗こと新井芳宗である。名は周次郎。新井姓を名乗ったのは兵役逃れのために姉の嫁ぎ先だった新井家の養子に入ったからだと言われる。
火事により一家が月岡芳年の家に移り住んだ時、周次郎はまだ7、8歳。芳年から「周坊、お前もちゃん(父ちゃん)の真似をして絵かきになるかい。絵かきは面白いが、またつれえ商売だぜ。だから伯父ちゃんのようにみんな酒呑ん兵衛になるんだ」などと聞かされながら頭をなでてもらったりしていたそうだ。
後に芳年の弟子となり「年雪」という名を与えられ、父・芳宗の死後には二代芳宗を襲名することになる。年雪時代には芳年の経済的なピンチを幾度も父・芳宗に救ってもらった逸話が残るが、そのお金の元はたいてい姉・島次が働く「若菜屋」の稼ぎであったと思われる。
島次の評判
一家が煉瓦長屋に移り住んだ当初は寂しい街並みだったが、そのうち同業の芸者置屋も増えていき、明治十年前後には大小含めて300もの妓敷が建つようになった。
明治十一年(1878)、松本萬年と言う人が出した『新橋雑記』第二編では「新橋奩品」の部で四番目に島次を称える漢詩が添えられ、「歌妓列名」の部では芳野屋小玉と共に三味線の腕を賞されている。
明治十四年(1881)、ジャーナリストの野崎左文が出した『東京粋書』によると南金六町(現在の銀座八丁目7~10番)には若菜屋の他、5軒の芸者置屋があった。いずれも芸妓は自前の一人だったのに対し、若菜屋は島次・花吉・鶴代・まちの4名の芸妓を抱えていた。若菜屋が繁盛していたことがうかがえる。
島次の個人評としては「風格気韻高し」「頗る常磐津に絃曲に善し」「親に事て孝明ありし」と称えられる一方、「最も甘味を愛し、汁粉の若きは五六椀をペロペロと啜る」と甘い物に目がないところも紹介されている。本当に感心ですよと言うべきところを「カンスンですよ」というのが口癖で、「カンスンの妓」といえばその名を言わずとも若菜屋島次のことと皆わかったという。同書には「芸妓等級比較表」という各項目での芸妓ランキングが掲載されているが、複数の項目で島次は上位にランク付けされている。
技芸 | 姿色 | 品格 | 風致 | 老練 | |
第一 | (春本) お郁 |
まつ | (若菜屋) 島次 |
千代松 | (春本) お郁 |
第二 | (若松屋) 鈴八 |
愛子 | 春吉 | (宝来屋) 玉八 |
(若松屋) 鈴八 |
第三 | はま | (中村屋) 小鶴 |
(宝来屋) 玉八 |
(松屋) 小辰 |
(新小川) お山 |
第四 | 米吉 | (松屋) 小辰 |
まさ | (増見屋) 清吉 |
いろ |
第五 | 小菊 | (宝来屋) 玉八 |
小勝 | やま | (新玉川) 小時 |
第六 | 奴 | 小照 | 小照 | 小金 | 小濱 |
第七 | (若菜屋) 島次 |
千代松 | (新小川) お山 |
小今 | ふく |
第八 | 小その | (増見屋) 清吉 |
(松屋) 小辰 |
甚子 | (若菜屋) 島次 |
※第百八十四まであるが第九以下は省略
島次は無邪気さが第一の呼び物、次に常磐津の三味線が玄人をうならせ、座敷扱いが上品とあって割烹店に呼ばれるのはもちろん、貴顕紳士の家庭にまで招待され、重宝がられた。特に大隈重信はひいき客の一人だったという。ちなみにランキングに登場する玉八(本名:小林菊子)は、後に元老となる西園寺公望の妾となったという。
芸妓引退後の島次
明治十一年に母、十三年に父と立て続けに親を亡くし、菩提を弔いつつ芸妓を続けていた島次だったが、明治二十四五年(1891、92)頃、41、2歳で綺麗サッパリと家業の芸者置屋をやめた。若菜屋の看板を譲ってくれとの依頼もあったが、これは私一代のものだからと抱えていた芸妓や使用人に証文をまいて暇を取らせた。
若菜屋の跡は同業の辰中村に貸して、自分は芝公園の常行院地中に仮小屋を作って引っ越した。芸妓をやめた後の島次は、辰中村から月40円といわれる賃料をもらいながら増上寺の世話人として東奔西走し、後に東京都北区滝野川に隠遁。関東大震災で辰中村は焼けてしまったが、跡地を現在も続く千疋屋が建て増しをした。借地権はまだ島次にあったので、千疋屋は島次が死ぬまで毎月20円を支払っていたはずだという。生涯何不自由なく暮らしていたようだ。
浮世絵になった若菜屋島次
月岡芳年「皇都会席別品競 竹川町花月」
若菜屋島次は評判の芸妓とあって、浮世絵にも描かれている。月岡芳年の「皇都会席別品競 竹川町花月」で右に描かれている女性が島次。名前は「若菜や志満次」と表記されている。描かれたのは明治十一年(1878)。
背景を担当しているのは、芳年の弟子であり島次の弟でもある歌川年雪(後の二代芳宗こと新井芳宗)。ちなみに絵の舞台となっている新橋竹川町の花月は、同じ年に豊原国周も「開化三十六会席」のシリーズで描いているが、描かれた芸妓は島次ではない。
歌川芳虎「新橋芸妓(三枚揃)」
月岡芳年と同じく、歌川国芳門下の歌川芳虎も明治四、五年頃に島次を描いている。芳虎は武者絵を得意とした絵師だが、島次が描かれているのは花見に興じる新橋の芸妓を集めた三枚続きの美人画。一番右の萌黄色の着物を着たのが島次である。名前は「志満次」と表記されている。
豊原国周「新橋日吉町喜多川楼之図(三枚揃)」
役者絵で明治の浮世絵界を席巻した豊原国周も島次を描いている。「新橋日吉町喜多川楼之図」という三枚揃の内、右端に描かれたのが若菜屋島次。
名前は「金春わかなや志満次」と表記されており、芸妓時代の源氏名は「志満次」表記が一般的だったのかもしれない。前述した「頗る常磐津に絃曲に善し」の評判を反映してか、三味線の弦を調整している姿で描かれている。
その他、島次が描かれた浮世絵は以下の通り。
・艶盛唄婦揃(三枚揃)歌川芳虎(明治五年)
・東京名所美人揃 今戸より隅田川の景 歌川広重三代(明治十四年)
(実物や写真をお持ちの方、その他にもあるよという方、ぜひご一報ください)
若菜屋島次の逸話
珊瑚の簪(かんざし)事件
当時、秋元の殿様(注:館林藩知事だった秋元礼朝と思われる)から寵愛を受けていた小萬という美形の新橋芸妓がいた。小萬は古渡りの(注:室町時代以前に日本に伝来した)珊瑚の簪を殿様から頂戴して差しており、花柳界で評判となっていた。
負けん気の強い島次は「ヘン、旦那なんか取らずとも、それくらいの珠は私だって差して見せる」と、小萬に負けない五分珠(約1.5センチ)の古渡りの珊瑚を高値で手に入れて、簪にしてお座敷へ差して出ていた。
そんなある時、守田座で観劇の付き合いがあり、箱屋(注:三味線の箱をもって芸者の供をする男)の新公を連れて出かけた。その帰りに、迎えに来た座付きの茶屋女中が出した草履の鼻緒を直した拍子に何者かに自慢の簪がすられてなくなっていた。
帰途、相乗りの人力車のなかで箱屋の新公は「姐さん決して心配なさいますな。すられたのは練り物細工のニセ簪で本物はこの通り私の懐にあります。実はスリ仲間が若菜屋の姐さんが素晴らしい五分珠を差しているから、いっちょアレを頂戴しようじゃないか。誰が一番早くひとくじ引けるか腕試しをしようと張り合いになっているって話を小耳に入れやした。そんな間違いがあっちゃ、おそばに付くこの新公のツラにも関わると思ったので、姐さんにも内緒でイカサマのまがい物を一本こしらえて人込みというと私が姐さんにも知らせず取り替えておいたんです」と言って島次を驚かせた。
ところが島次は一晩考えて余計なことをしてくれたと思い、起きるとすぐに新公を呼び出した。「昨夜の簪のことね、よく考えてみるとお前大変なことをしておくれだった。スリ仲間があの珠をニセ物と知って悔しまぎれに『島次という芸妓はなんという見掛け倒しの女だろう。これを見ねぇ』とニセ簪を持ち廻されて口から口へと悪い噂の種を広められるに違いない。今ごろはもうその噂がまかれている頃だと思うと私は一晩中寝れなかった。早く小安の親分に頼んで手をまわして、あのニセ簪をスリから取り戻しておくれ。これは昨夜の手早い若い衆への御苦労分だと引き替えに渡してもらうんだよ」と五両紙幣を帯の間から出して新公に渡した。
小安の親分とは当時の島次の情夫だった男で、親の代から名の知れた侠客だった。当時のスリ仲間は盗んだものを一度は彼らの親分の手に渡す慣習があった。当時の新橋界隈の親分が誰かはわからないが、小安の手によってニセ簪を無事取り戻すことができ、島次は安堵したという。まさに「盗人に追い銭」の形になってしまったが、島次のプライドを感じさせる逸話だ。
島次の役者買い
当時、一流の芸妓は生涯に一度は名のある役者を買わなければならないという慣習があった。島次も一度は買わないと沽券にかかわる。買うなら一番の役者に限るというので、当時の東京で一番と言われた彦旦那こと五代目薪水の坂東彦三郎を買うことになった。
風習として役者買いのお座敷は2時間のもので、当時の彦旦那を買うには五十両もかかったという。島次は取持ちを守田座の御茶屋・丹波屋の主人にお願いして、その日を迎えた。酒や肴を丹波屋に用意して待っていると、彦旦那が番頭衆をぞろぞろ引き連れてやってきた。島次と初対面のあいさつが無事済むと、斡旋した幇間連中が飲めや歌えやと騒ぎだす。
少し酔いがまわった彦旦那は得意の常磐津を唸りだした。すると島次も三味線で応える。両者意気投合して、すっかり宴会は常磐津一色となり、買う買われるどころではなくなった。
彦旦那「おい丹波屋、もう2時間過ぎたろう」
丹波屋「えぇもう過ぎました」
彦旦那「じゃあ座敷をかえてくれ、今度はワシが主人で島次姐さんがお客だ」
そう言うと幇間連中は人数を増し、新たに十数名の芸妓を呼んで大騒ぎした。さすがは彦旦那だと島次もこの時は「カンスン」したという。ちなみに島次は九代目市川団十郎も買おうとしたが、芝居の暇がちょっとないと体裁よく断られてしまったとか。
強盗に遭った島次
島次が芸妓をやめて芝公園の常行院地中に住んでいた頃、堀田瑞松という木彫家を「旦那」にしていた。堀田は明治天皇の御前で彫刻をしたり、三条実美をひいき筋にしたりと当時名の知れた人物だった。いわゆる通い婚で堀田が何日かに一度、島次の家に通っていたが、堀田が来ない日は女中のお玉と寄席に通っていた。
そんな寄席帰りの夜、日課にしていた寝しなのお酒を長火鉢で温めていたところ、鍵をかけずにいた表戸から若い男が声もなく入ってきた。男は、中折れハットを深くかぶり、書生羽織にヨレヨレの小倉袴、左手には仕込み杖をぶらさげていた。さては強盗だなと覚悟を決めた島次は声をかけた。
島次「あなたはどなた?そして夜中に何用です」
すると男は仕込み杖から刀を抜いて右手に振り下げた。
男「党派のために少し金子(きんす)がいる。三百両ばかり貸してもらいたい」
島次「あ、お足ですか、実は三百や五百のお足は持っておりますが、見た通りの女所帯、不用心なのでそれはよそへ預けてあります。もし何なら奥のタンスには品物が皆いっぱい詰まってますから、選り抜きお持ちください。光り物は怖いから鞘へ納めてくださいな」
そう言うと、島次は湯飲みを差し出しながら酒をすすめるのだった。
島次「それにしてもちょうどいいところです。あなたお銚子がよくつきました。まぁひとつ召し上がれ」
男「せっかくだ」
そう言うと男は片膝立てて座り、刀を納めて湯飲みを手に取る。島次は湯飲みにお酒をなみなみと注ぎ、「もひとつ」とすすめるまま男は三杯ほど呑んだ。
男「予の品は不用だ。しからば帰ろう、失敬した」
そう言うと男は何も盗らずに意気揚々と帰って行った。島次は玄関まで送り出して錠を掛けると、恐怖が追い付いたのか身体が震え出した。玄関の次の間には女中のお玉が腰を抜かしていたという。
翌朝、近所の愛宕下に住む弟の二代芳宗の元へ駆け込んで、昨晩の話を語って聞かせた。
島次「それでもその書生さんがね、出ていくと東照宮の門口に相棒がいて、その人たちに言うことがよかったね。『なかなか偉い女だ、出来てる奴だ』ってさ、この私がさ。お前の前だけどね、その泥棒って書生がね、よく見るとなかなか凄いほどのいい男で、長火鉢の前にこう斜に構えて酒を呑んでる格好がまた素敵だったよ」
もう強盗に入られた恐ろしさはどこかへ消し飛んでいた。
信心深い島次
若菜屋を廃業した後、島次が熱心に取り組んだのは念仏と写経だった。朝夕にお経を唱えるのを日課とした。島次が晩年、瀧野川養老院に献納したという大巻物がある。それは西の内紙という手すきの和紙を数百枚継ぎ合わせたものに「南無阿弥陀仏」の六文字を隙間なく書き埋めたものだった。その一部は弟の二代芳宗の手に残っていたが、現在の所在はわかっていない。
関東大震災の折、地震だと皆が戸外に出て騒いでいた一方、島次は姿が見えなかった。増上寺の修行僧が島次の家に様子を見に行くと、「何事も仏の御心次第です。南無阿弥陀仏」とただお経を唱えることに専念して家の中に座っていたという。
またある時、島次がお仲間たちと入谷の朝顔市を見物するため朝早く出掛けたことがあった。朝顔を見終えて、今度は不忍池の蓮でも見に行こうと帰途に着くと付近で有名な鬼子母神の前を通りがかった。仲間の一人が「ここがそれ、恐れ入谷の鬼子母神だね」とダジャレのもとになった場所を指すと、島次は鬼子母神ならお参りせねばと、一行から離れてお堂の前で頭を地につけて合掌した。そこまではよかったが「ナーム恐れ入谷の鬼子母神様」とマジメに大声で唱え出した。日頃、島次が信心深いことを良く知る仲間は笑いも出来なかった。仲間のひとりは「えらい!さすがに島次だ」と感心したという。
深川の志満寿桜
深川不動尊に「志満寿ざくら」という石碑があった(現在は社殿改装に伴い、撤去されている)。碑面には「明治十五年三月」という建立の年月と「寄附 新橋芸妓 若菜屋島次」と施主の名がある。石碑裏面には次のような文言が彫られている。
新橋金春巷の歌妓若菜屋島次、本姓は鹿島氏、実名をしまと呼ぶ。近世江湖に丹青の名ありし故人一勇斎国芳翁の高弟、一松斎の芳宗の長女にして、天性温和、加ふるに至孝、慈善風に絃歌を鬻ぎ、父母の老臂を助くる事季あり。身を花柳の塵裡に置くも、心に無垢の信を失せず。曩に亡母の忌辰に際し、上野養育院に若干の金を投じ、且常に不動尊の威徳に浴し感應措に處なきより、聊か恩謝の為め、今回櫻樹数十株を其境内に栽培し、永く尊前の香薫に換んとすと。嗚呼、此樹の盛り久しからんは、明王深く納受ましまし、併せて亦泰山府君も共に庇護あらん事、更に疑を容ざるなり。
應需 假名垣魯文
さくら花さかり久しと守るらん
幾世動かぬ星のちかひに
仮名垣魯文は島次の父・芳宗との付き合いもあって、碑文を書くお役目となったのだろう。碑文によると、島次が深川不動尊に桜の木を寄進したことを記念して建てられた碑であることがわかる。この時、納められた桜は五十株ほどだったという。植えられた桜は関東大震災までは残っていたが、昭和六年(1931)当時にはもう跡形もなくなっていた。
石碑のあった頃の記事が他サイトにあるのでご紹介。
https://www.kikaku-sembei.co.jp/2018/07/24/fukagawanosusume-14/
(というわけで深川不動尊様にはぜひ石碑の再配置をお願いします)
仮名読新聞社は入口の扉をあけると梯子段があって、これを昇ると直ぐ編集局のやうに覚て居ます。(中略)この編集局の壁一重隣が社長室である。此の社長室へ納まつて居る仮名垣先生も亦こつ〱と何か書いて居るのです。時に依ると此処へ馴染の芸者などが話し込みに来て、遂にはお酒盛が始まるやうな事がありました。折々此処で御近付きになつた雄弁家の芸者は後になつて知つたのですが、若菜屋の島次姐さんといつて、当時新聞の挿画を描いて居た芳宗画伯の姐さんだつたさうです。―『増補 私の見た明治文壇1』より
墓
余命を知った島次
昭和元年(1926)11月に島次は喜寿(77歳)のお祝いをした。当時、島次は76歳だったが「私は来年の11月までは生きられない身体だから、一年繰り上げてやる」と訪問客に語ったという。
招待された客のなかに芝増上寺の管長がいた。
管長「来年まで生きないとは不審じゃ、あんたはご自分の寂滅する日を覚知されているか」
島次「えぇよく自分には分かります。私は来年の4月に御仏に召されます。それも浄土宗の御祖師円光大師様(注:法然のこと)の御命日25日の朝に目を損します」
管長をはじめ、この話を聞いた者は半信半疑だったが、島次は予告通りの昭和二年(1927)4月25日午前10時に眠るように息を引き取った。その死に顔は笑みを浮かべており、呼べば今にも答えて起き出そうな気配に見えたそうだ。
画像の肖像は、弟の新井芳宗(二代芳宗)が晩年の島次を描いたもので、いつも二代芳宗のかたわらに掛けてあったと言われている。
墓石
若菜屋島次の墓は両親の墓と同じ西巣鴨の良感寺にある。両親の墓の隣に位置する大きな墓石が島次の墓で、正面向かって左に刻まれた「超勝院法譽仙嶋大姉」が島次の法名だ。
墓石の左右側面にはそれぞれ「祠堂金弐拾五圓也 加藤嶋子」「祠堂金拾五圓 加藤嶋子」とある。島次はいつの頃からか、加藤姓を名乗っていたことから「加藤嶋子」は島次のことを指しており、かなりの金額をお寺に納めた上で生前にお墓を建てていることがわかる。さらに墓石正面の向かって右には若くして亡くなった兄弟姉妹とおぼしき法名が刻まれており、信心深い逸話が残る島次の足跡を偲ばせる。
まとめ
破天荒な浮世絵師・歌川芳宗の娘は新橋の芸妓「若菜屋島次」だった。三味線の腕ときっぷの良さで人々に愛された島次は、浮世絵にも描かれた。島次が稼ぎ出したお金は父・芳宗を助けるだけでなく、弟の二代芳宗を通じて月岡芳年の経済的援助にもなっていた。残された浮世絵や現在も残る遺構でその足跡を偲ばせる。
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参考資料
『浮世絵志』第24号「一松斎芳宗父子(上)」大曲駒村
『浮世絵志』第25号「一松斎芳宗父子(中)」大曲駒村
『浮世絵志』第26号「一松斎芳宗父子(下)」大曲駒村
『浮世絵志』第26号「一松斎芳宗父子を読みて」
『浮世絵志』第28号「「一松斎芳宗父子」を読んで」新井芳宗
『東京粋書』野崎左文(明治14年)
『増補 私の見た明治文壇1』野崎左文
『増補 私の見た明治文壇2』野崎左文
『都新聞』明治36年8月27日(第5618号)「浮世絵昔ばなし」新井芳宗
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早稲田大学図書館古典籍総合データベース