河鍋暁斎・豊原国周・小林清親、お酒が繋いだ三人の絵師

年齢は離れているが、幕末から明治という激動の時代で交流を持っていた河鍋暁斎、豊原国周、小林清親。そんな3人の絵師とお酒にまつわる逸話をまとめてみた。

スポンサードリンク

河鍋暁斎

天保2年4月7日(1831年5月18日)、現在の茨城県古河市に生まれる。幼少期には一時、歌川国芳に絵を学んだ。狩野派を学んで18歳で独立後は狩野派を脱した浮世絵・戯画・風刺画でも人気を博す。書画会で描いた絵が政権批判していると逮捕されるも翌年には釈放。以来、画号を狂斎から暁斎に改める。鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルを弟子にするなど国際人の一面もあった。

豊原国周

天保6年6月5日〈1835年6月30日〉、江戸京橋五郎兵衛町(現在の中央区八重洲二丁目)に次男として生まれる。歌川国貞(三代豊国)に10代なかばで弟子入り。明治になって激変する社会情勢のなかでも、役者大首絵シリーズを刊行するなど国貞から受け継いだ従来のスタイルにこだわり、自身の画風を発展。当時の役者絵を自身の独壇場とした。引っ越し117回という奇行、宵越しの金は持たない江戸っ子エピソード多数。

小林清親

弘化4年8月1日〈1847年9月10日〉、本所御蔵屋敷頭取の子として江戸に生まれる。父の死により15歳で家督を相続。幕臣として維新の動乱期を過ごし、明治7年(1874)から絵の道へ。英国人ワーグマンや河鍋暁斎、柴田是真などから絵を学ぶ。翌々年、従来の浮世絵に光と陰影を取り入れた「光線画」と称される風景版画を発表し人気を得る。「清親ポンチ」と呼ばれる戯画・風刺画を新聞に描いた。

逸話

河鍋暁斎と豊原国周の交流

暁斎と国周は4歳違い(暁斎が年長)だが、頻繁に会ってはお酒を酌み交わして絵について語り合う、歳の差など感じさせない友人関係だった。

彼の会心の飲友達といふのは、歌川国貞門下の一鶯斎国周(※注:豊原国周のこと)であつた。彼は本郷の大根畠に住し、国周は京橋木挽町の伊達候の邸跡に住してゐたが、本郷から京橋へ、京橋から本郷へといふゝうに、両人は屡々往来して傾けながら画談を交すのを無上の娯しみとしてゐた。ところが、それ程親しい間柄であるに関はらず、酔ふと必ず喧嘩する。それも口論では止まず。組み打ちを始めるのだから耐らない。斯うした揚句は、一方が怒つて戻つて行くのが例であつた。すると、翌日は必ず一方が詫びに訪ねて行く。そして酒となり、酔ふとまた喧嘩を始める。そして怒つて戻つて行く。すると、翌日は必ず一方がまた詫びに行く。そして酒となり、酔ふとまた喧嘩を始めるといつたやうな調子で、何時も両人の酒は礼に始り乱に終る。これには家族のものもいたく閉口したさうである。―「河鍋暁斎の事ども」より

スポンサードリンク

河鍋暁斎、豊原国周の新居で大暴れ

前述の通り、暁斎と国周は「ケンカするほど仲がいい」関係だった。普段の2人の様子について、月岡芳年の弟子である山中古洞によって書き残されている。

暁斎だけは永く国周を離れなかった、酔余の献酬にはいつも国周が意張り暁斎は多く温順だったと云ふ。―「芳年伝備考(第十二稿)」より

しかし、暁斎の酒癖も相当なものだったようだ。国周の新居お披露目会に現れ、「酔わば描く、描かば酔う」本領を発揮した暁斎について、国周自身が次のように語っている。

(前略)その後、わたしァ日本橋の音羽町へ新宅を拵へたことがある。(中略)いよいよ新宅開きとなった。音羽町といふところは、岡っ引なんぞが多く住まってゐたが、わたしは豆音(まめおと)さんといふ岡っ引の世話になって、着物なんか貰ったから、その礼廻りをした。帰ってくると、昔、今紀文といはれた山城河岸の津藤さん、猩々暁斎(※注:河鍋暁斎のこと)、石井大之進といふ、上野広小路へ出ている居合い抜きの歯抜き、柏原藩の橋本作蔵といふ、いまの周延なんぞが大勢来てゐた。

けれでもわたしも醉ってるから、二階へ上って、つい寝てしまふと、何だか下でがたがたするから、目を覚まして、降りてって見ると、暁斎め、酒に醉ったもんだから、津藤さんの着てゐた白ちゃけた被布を脱がして、びらを画いた丼鉢の墨ン中へ、そいつを突込んだ。津藤さんはにがい顔をしてゐると、暁斎はそれを引きずり出して、被布中一面に河童さんを画いちまった。あれも酒がよくないから、みんな変な顔をしてゐると、今度は唐紙へ何か画くてェんで、畳屋の台を二つ三つ庭へ並べ、その上へ二階の上り口に建てゝあった”かんせき”の新しい襖を敷いて、机にしたもんだ。さうしてその上で絵を画くんだから、芸者が墨を持って立ってゐるのもいゝが、拵へたばかりの襖の上を、どしどし歩くから、ボコボコ穴があく。そこでわたしも、あんまり乱暴で見かねたから、傍へ行って、暁斎坊主、ひどいことをするな、よしなさい、といったが、酔ってるから、つっけんどんにやったんだらう。

さうすると暁斎め、持ってる筆で、わたしの顔をくるりと撫でて、真っ黒にしてしまったから、わたしも怒る。歯抜きの石井大之進は、暁斎の奴、反っ歯だから、おれがそいつを抜いてやる、とりきむし、周延の橋本作蔵は刀を抜いて斬ってしまふ、と飛びかゝったから、暁斎め、驚いて、垣根を破って逃げちまったが、その時分中橋の紅葉川の跡がどぶになってたんで、そこへ落っこちたから、まるで溝鼠のやうになったのは、わたしの顔へ墨を塗った報いだと笑った。

けれでも暁斎は、あれほどになるだけ感心なことには、その後わたしの家へ尋ねて来たから、それなり仲が直ってしまったが、周延が刀を抜いた時には、どうもひどい騒ぎで、往来も止まるくらゐだった。―「國周とその生活」より

解説
刀を抜いた橋本作蔵とは、国周の弟子である楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)のこと。大正元年(1912)に周延が亡くなった時の訃報記事によると、浮世絵師としては歌川国芳や三代歌川豊国(歌川国貞)等に絵を学び、豊国死後は国周の弟子となったという。西南戦争の絵で名をあげ、洋装の女性を描いた美人画でも大評判をとった。

小林清親の仲裁

ケンカを繰り返していた暁斎と国周だが、その2人と交流があった絵師の小林清親が、ケンカの仲裁に入ったこともあるという。小林清親から聞いたとされる話で、次のような証言が残っている。

(前略)これは明治何年の事か遂聞き洩らした。清親翁自身の口から私は聞いたのだが…。先づ、明治十年の事として置かう。若し間違つても、明治は十五年とも降らぬ筈だから、其辺で勘弁して置いて貰ふ。明治十年の事とすると、この時、暁斎は四十七歳、国周は四十三で何れも初老から中老格に進んだ処で、末つ子の清親三十一歳と云ふ漸く而立(じりつ:数え歳三十歳のこと)そこそこの齢に達した時に当る。

一体、国周と暁斎の間には、それまで何う云ふ交際があつたか不明だが、国周と清親は親しい間柄、その上清親と暁斎も師弟に近い親密さであつた。或る時、国周が年中着たなりの様子で、『北国の雷様』などゝ渾名されて居た―これは強ち国周ばかりでない、清親や暁斎とても同じ事であつたが―程なのをあはれみ、或る絵草紙問屋が肝煎となつて、国周の為めに一つの画会を開いて呉れた事がある。会場は、その時浅草田甫に在つた国周の仮宅であつた。清親は、その画会に国周から頼まれて席画を画く事になり、いゝ序だと云ふので暁斎も誘つて行つた。

処が、国周と云ふ男は、貧乏して居ても一寸黒縮緬の羽織ぐらゐは着て、それに白扇をばち付かせると云ふ少しキザな風の性質、で折角二人が助太刀に赴いたにも拘らず悪く納つて居るので、これが暁斎の癇癪に触つた。其処へ軈て(やがて)酒が出て呑んで居るうち、何かの拍子で暁斎と国周の間に一寸と口論が起つた。と思ふと、往きなり暁斎が起ち上つて、『馬鹿野郎ッ』とばかり国周の横つ面を一つ張つた。

斯うなると国周も黙つては居ず、手近に在つた墨汁の鉢を取るよと見る間に、ハツシと之を暁斎に投げ付け、頭から墨汁の洗礼を与へた。いやはや大変な泥仕合…イヤ墨汁仕合となつて、墨汁の海のやうな畳の上で両人が組んづほぐれつの大格闘。

清親も見て居られない。そこで、日頃の大力を以て両人を引分けた。両人は夢中で争つて居たが、何時かしら敵手とは少し手心の違ふ力で押へ付けられたので、不審に思ひフト其人間の顔を見ると、敵手は変つて清親だつたので、『ナーンだお前清親だな。道理で馬鹿力があると思つた』で両人とも真つ黒けの顔の中の眼ばかり光らせて口アングリ。

当人同士の顔ばかりならそれでもよいが、中裁人たる清親も勢ひ側杖を喰つて、これも顔まで墨黒々。それはいゝが、この大騒ぎに驚いたのは会員となつて当日集つて来たお客様だ。墨汁の飛沫が遠慮なし四方に飛ぶので、いずれも尻に帆掛けて散り散り。喧嘩が済んだ跡は、まるで蛙合戦の跡の泥田のやう、天地蕭々としてお客の影はたつた一つもない。三人更に顔を見合せてヤレヤレ。

で、冷え切つた酒に酣を付け、泥田の畔の辺から残肴を集めて又『兎に角一杯、今は済まなかつた』はいゝ気なもの…。この頃は、清親も相当に酒を飲んだ。暁斎は云はずもがな、会主国周も斯うなると会の事なぞ何処吹く風であつたとは、誠に年甲斐もない連中だつた。―「清親と国周と暁斎」より

剣術の腕前もあり、六尺(約180センチ)以上の背丈があったといわれる大男の小林清親でなければ、このケンカは止められない。大の大人が墨まみれになりながら喧嘩をするのだから、後始末をする関係者も大変だったことだろう。

酒が繋いだ師弟?河鍋暁斎と小林清親

独立心が強く、特定の師匠を持たなかったといわれる小林清親だが、一時は河鍋暁斎のもとで絵を学んでいたようだ。暁斎が酒好きなら小林清親も一升・二升は平気という大酒飲み。お互い相通じるものがあったようで、両者のお酒にまつわる逸話が残っている。

(前略)清親が暁斎を最初に訪ふた真意は、素より就いて其画学を受けようとしたに外ならないのであるが、其人格にも憬慕する処が多分にあつた為めと思ふ。両者の間には、余程同気相求むる底のものがあつた。だから清親を迎へた暁斎は、大手を開いた歓んだ。

清親は最初、暁斎に向つて絵の手本を画いて呉れと懇に頼み込んだ。時に、暁斎の返事が面白い。よろしい画いて遣ろう、然し只は不可だよ、来る度に酒を携へて来なけりやなあ…と云ふのである。詰まり、酒さへ買つて来れば、何時でも手本は画くと云ふのである。

或る日の事である。仰の通り清親は一升の貧乏徳利を提げて暁斎を訪ふた。処が暁斎は先づ其酒を筆洗の中に明けて終ひ、夫で筆を洗つては画き、画いては洗ひ、終つて其墨汁のやうな筆洗の酒を皆飲んで終つた。斯うして清親はよく暁斎を訪ふたが、それは主として二人で酒を呑まうが為めであつた。清親のポンチ画には、暁斎から脱化したものが多いのは当然で、一脈相通のものであるが、然し其処には不教不学底の、所得体得に類する趣きが存するを見免し難い。―「清親と暁斎」より

墨汁まじりのお酒を平気で飲んで口のなかを真っ黒にしている暁斎。その姿はまさに「画鬼」そのものであっただろう。暁斎にとって、お近づきの印としてのお酒は重要なアイテムだったようで、弟子入り志願をした書生が何も手土産を持ってこなかったことに「怒声雷の如く」叱り飛ばしたという逸話も残っている。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
よろしければ応援クリックをお願いします!
にほんブログ村 美術ブログ いろいろな美術・アートへ
にほんブログ村

参考資料

『画鬼 暁斎読本II』河鍋暁斎記念美術館編
『書画骨董雑誌』第251号「河鍋暁斎の事ども」岡田梅邨
『浮世絵芸術』第20号「國周とその生活」森銑三
『浮世絵志』第12号「清親と暁斎」
『浮世絵志』第26号「清親と国周と暁斎」安政老人
『浮世絵志』第27号「小林清親」大曲駒村
『浮世絵志』第30号「芳年伝備考(第十二稿)」山中古洞
『没後百年 楊洲周延 明治美人風俗』平木浮世絵財団編
『画家逸事談』木田寛栗