歌川貞秀 ー空飛ぶ浮世絵師のきわどい画業ー

五雲亭貞秀

横浜絵の代表的な浮世絵師の一人・歌川貞秀(五雲亭貞秀)。鳥瞰図を多く手がけたことから「空飛ぶ絵師」などとも称される。貞秀についてはこれまで「タンコブが特徴的な自画像」や「版元の要望を無視して彫師泣かせの密画を描く」「師匠・歌川国貞の後妻との折合いの悪さ」などのエピソードを書いてきた。今回は貞秀の画業を中心にご紹介。

空飛ぶ絵師・歌川貞秀

若くして歌川国貞門の筆頭格

歌川貞秀は文化四年(1807)下総国布佐(現千葉県我孫子市)に生まれる。本名・橋本兼次郎。生家が何を営んでいたかはわかっていないが、住まいは亀戸天神前にあったといわれる。歌川国貞(後の三代歌川豊国)の弟子となり、最初の作とおぼしきものに文政九年(1826)刊行の版本『彦山霊験記』がある。画号は玉蘭・玉蘭斎・五雲亭などを用いた。

文政十一年(1828)初代歌川豊国を顕彰するために建立された「豊国先生瘞筆之碑」には国貞社中の4番目に名が刻まれた貞秀。天保七年(1836)には読本作者・曲亭馬琴の古希(70歳)祝賀会へ師の国貞とともに「貞秀等弟子八九人を将て出席ス」と馬琴に書き残されており、20代ですでに国貞の弟子筆頭格であったと思われる。

合巻の名手

版本の挿絵などで活躍していた貞秀は天保九年(1838)から自作自画の合巻(長編物を載せるために何「巻」かを「合」わせて1冊とした形態の版本)を刊行している。ただし、初期の自作は他の作者からの“パクリ”が多く、合巻の作者としては盗人呼ばわりされていたとか(※出典不明)。

しかし、時を経た嘉永六年(1853)には江戸後期の代表的な浮世絵師である三代歌川豊国・歌川国芳・歌川広重が「豊国 にがほ(似顔絵)、国芳 むしや(武者絵)、広重 めいしよ(名所絵)」と書かれた浮世絵師番付『当代全盛高名附』のなかで、「貞秀 かふくわん(合巻)」として並び称されている。この頃には合巻といえば貞秀という評判を得ていたのだろう。

旅行好き

富士山登山

貞秀の画業を語るうえで旅行好きであったという要素は欠かせない。西洋画を所蔵し、西洋の遠近法を使用した俯瞰的な構図を試行錯誤していたが、富士山登山をきっかけにその特徴はより顕著になっていたという。

貞秀の富士山登山の論拠となるのは『三国第一山之図』という三枚続きの画中に書かれた「登山成就時玉蘭斎貞秀写」である。検閲済みであることを示す名主による改印が2つあることから、描かれた年代が弘化四年から嘉永五年(1847~1852)と特定できるため、その頃に富士山登山を行ったものと思われる。

『三国第一山之図』(文化遺産オンライン)

また『富士山真景全図』では約1メートル四方の大画面に富士山を火口から同心円上に広がる裾野までを真上から描いた。さらに火口部にはもう1枚の紙が折りたたまれ、起こし絵のように立体的に立ち上がる仕組みになっている。

このように天空からの視点「鳥の目」でリアリティをもって描かれた数々の作品により、現代において貞秀は「空飛ぶ絵師」と称されることとなる。

『富士山真景全図』(部分)
『富士山真景全図』(部分)

開港した横浜へ

安政六年(1859)、通商条約により横浜が開港すると、歌川芳虎、三代歌川広重とともに「横浜絵」を描く代表的な浮世絵師の一人となった貞秀。制作数でいえば芳虎に劣るものの、浮世絵師の誰よりも早く「横浜絵」の制作に精力的に取り組んでいる。貞秀は「横浜絵」で外国人の風俗を描き、横浜の港や町の眺望を前述の「鳥の目」で描いた。この時期は横浜を訪れるだけでなく、現地に住んでいたとする説もある。

当時50代だった貞秀。晩年に至るまでその好奇心は止むことがなかったようだ。合巻で文章にも長けていた貞秀は、後年自らの文と絵で『横浜開港見聞誌』という横浜の案内記を刊行している。

『横浜交易西洋人荷物運送之図』五雲亭貞秀/ボストン美術館蔵
『横浜交易西洋人荷物運送之図』五雲亭貞秀/ボストン美術館蔵

南は九州まで

元治元年(1864)刊行の版本『海陸道中画譜』のなかで貞秀は「大約名所を描くにも親しく実地を踏みて見ざれば其真景ハ写しかたしの事」と実際に現地を見なければ描けないとして、伊勢神宮参拝から大阪・中国地方・九州上陸を経て長崎まで訪れたと自ら書き記している。この長期旅行はその他の作品による記述から文久元年か二年の初め(1861年頃)と推測されており、貞秀が50代前半のことと考えられている。

繰り出される問題作

時代はさかのぼるが、天保年間から老中・水野忠邦による天保の改革の余波が出版界にも及び、浮世絵に対しても締め付けが厳しくなっていった。

すでに人気浮世絵師となっていた貞秀は、天保十四年(1843)3月に溪斎英泉・歌川国芳・歌川国貞・歌川広重・歌川芳虎とともに連名の証文を提出。好色本、役者や遊女・芸者の似顔絵といった風紀を乱すと思われていた絵の他、賢女烈婦伝や女忠節の類までも当世風に描かないことを誓約させられている。さらに誰の作品かは不詳ながら、誓約後の4月・5月の改印(名主による自主検閲)済のものもよからぬ絵柄があったため、売買を差止めされたという。(『大日本近世史料』18 )

これほど締め付けがありながら、貞秀やその他の浮世絵師たちは規制をかいくぐるようなきわどい絵を描き続けた。これは締め付けに不満を持っていた庶民の需要があったからに他ならない。当時の浮世絵事情が書かれた史料『藤岡屋日記』には「兎角ニむつかしかろと思ふ物でなければ売れぬ」とあるように、表に描かれているものとは異なる“裏の意味”を読み解くような難しさがなければ、むしろ売れなかったのである。

そんな事情もあってか、貞秀はその後もきわどい作品を出し続けている。

『源頼光土蜘蛛図』天保十四年(1843)

『源頼光公館土蜘作妖怪図』一勇斎国芳/ボストン美術館蔵
『源頼光公館土蜘作妖怪図』一勇斎国芳/ボストン美術館蔵
『源頼光土蜘蛛図』玉蘭斎貞秀/ボストン美術館蔵
『源頼光土蜘蛛図』玉蘭斎貞秀/ボストン美術館蔵

歌川国芳が『源頼光公館土蜘作妖怪図みなもとのらいこうこうやかたつちぐもようかいをなすのず』(以下、妖怪図)で源頼光の土蜘蛛退治伝説を隠れ蓑に、水野忠邦たちへの政治風刺画を描いた。巷では「妖怪たちは天保の改革の“被害者”だ」としきりに絵解きが行われたという。版元は取り締まりを恐れて自主回収、版木も削除したため、版元も国芳も処罰を免れた。

大評判となった絵に他の版元たちも追随。国芳の妖怪図に便乗して、同じ年に堀江町新道の板摺兼版元の久太郎は、土蜘蛛伝説の絵を貞秀に描かせて三枚続の小形にして2種類出した。1つは名主の改印がある土蜘蛛入りの図。もう1つは届け出をせずに無許可で土蜘蛛を削除して、絵解きが必要な妖怪が描き入れられた図。前者は店先に吊るして一組36文で売り、後者の妖怪入りの図は内密に一組100文で販売した。結局、無断出版が発覚して、版元の久太郎と絵師の貞秀は3貫文(一説には5貫文とも)の罰金刑を受けた。

『浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図』弘化四年(1847)か

『浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図』玉蘭斎貞秀/Tokyo Museum Collection
『浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図』玉蘭斎貞秀/Tokyo Museum Collection

弘化四年(1847)の3月18日から浅草寺にて御開帳があり、奥山に伝説上の巨人・朝比奈三郎の見世物人形が出される予定だった。ところが大造り見世物の禁令のため、日の目を見ないうちに寺社奉行所から興行の差止めを命じられる。上記の絵はこの朝比奈人形の見世物を当て込んで制作されたと思われる。

朝比奈人形の浮世絵については、前述の『藤岡屋日記』では【出版できずに差置き状態】、江戸後期の国学者・喜多村信節の随筆『きゝのまにまに』では【出版までは出来たが差し止められた】と記載が分かれている。誰が描いた“朝比奈人形の絵”か記載はないものの、貞秀が描いた絵も販売に何らかの支障が出たことは間違いなさそうだ。

『富士の裾野巻狩之図』嘉永元年(1848)

『富士の裾野巻狩之図』玉斎貞秀/ボストン美術館蔵
『富士の裾野巻狩之図』玉斎貞秀/ボストン美術館蔵

建久四年(1193)源頼朝が御家人を集めて富士の裾野で大々的に行った巻狩(鹿や猪のいる狩場を四方から取り囲んで追い込み射止める狩猟)を描いたもの。

この絵には明確に“裏の意味”があった。当時「来年には小金原(現在の千葉県松戸市)で将軍・徳川家慶の鷹狩が催される」と噂が立っていたのを当て込み、富士山を筑波山になぞらえて描かれたのだ。版元の山口藤兵衛の狙いは的中。あらかじめ5000組摺っていたが、3000組を追加で摺るほど売れに売れた。その様子は「小金とはいへども大金もうけしは ふじに当りし山口のよさ」と落首に詠まれたほどだった。

しかし、改印を行った掛名主・村田佐兵衛はあまりの評判に取り締まりを恐れて、販売からわずか2ヶ月足らずで版木を削らせて自主廃版とした。その折には「あらためがむらたと人がわるくいい」と皮肉った川柳が詠まれた(『藤岡屋日記』)。

『大内合戦之図』嘉永三年(1850)

『大谷合戦之図』玉蘭斎貞秀/ボストン美術館蔵
『大谷合戦之図』玉蘭斎貞秀/ボストン美術館蔵

貞秀は『大谷合戦之図』で、室町幕府三代将軍・足利義満の時代に有力な守護大名だった大内義弘が反乱を起こし、和泉の堺に籠城したものの義満の軍勢に攻め立てられて敗死した応永の乱を描いた。

この絵の燃え盛る城の景色が江戸城にそっくりだと評判となりヒット作に。すると版元がお上に呼び出され、販売済みの絵の買い戻し・版木の没収処分となった。このときはく売れて来たのに風が替つたかつるした絵まで片付る仕儀」という落首が出たという(『藤岡屋日記』)。

自画像に描かれたタンコブへの憶測

歌川貞秀(拡大図)
歌川貞秀(拡大図)

以前にも記事で取り上げた通り『東宰府天満宮境内之図 文池堂社中席書之図』に描かれた貞秀のタンコブ付きの自画像がある。

わざわざコブの形が目立つ横顔で描いたところを見るかぎり、タンコブは彫師のミスではなく意図的に付けられたと考えられているが、貞秀は実際にこのようなタンコブを持っていたのだろうか。

タンコブ自画像が描かれた絵には、名主による改印が2つあることから、描かれた年代が弘化四年から嘉永五年(1847~1852)と特定できる。

ここからは完全な憶測になってしまうが、この頃までに自主廃版を除けば記録に残っている限り、貞秀が幕府から処分を受けたのは「土蜘蛛」と「大谷合戦」で“前科二犯”。これを自嘲して(あるいは誇って)自画像にタンコブを2つ付けたと考えてみるとおもしろい。

絵師ランキング上位をキープ

殊に書画会の席などでは浮世絵師は軽蔑されたものであるが(中略)又当時浮世絵師の中で席画を画いたは、広重と玉蘭斎貞秀のみであつたとは泉竜亭是正といふ戯作者が能く話してゐた ー『日本及日本人』より

明治十年代の戯作者・泉竜亭是正せんりゅうていこれまさによると、貞秀は席画を得意としており、浮世絵師として大衆の要望に応える才は確かだったようだ。それは壮年期から晩年においても絵師番付で上位をキープし続けていたことに現れている。

『俳優画師高名競』嘉永二年(1849)42歳

画像は雑誌『浮世絵』第18号に所載の嘉永二年版「俳優画師高名競」。貞秀は歌川国芳や歌川広重らに続き、5位にランク付けされている(ちなみに行司格に葛飾北斎や三代歌川豊国(歌川国貞)がいる)。天保年間から自作の合巻を手がけていたため、この頃にはすでに合巻作者としても知名度があったようだ。

『十目視所/十指々所 花王競十種咲分』安政六年(1859)頃 52歳

十目視所/十指々所 花王競十種咲分

この年に五ヶ国通商条約の取り決めにより、横浜が開港。横浜開港の年で既に「蘭画」を手がける絵師として貞秀の名前が挙がっているのは、次第に「横浜絵」を多く手がけることになることを暗示している。新しい画法や事物を積極的に取り込もうとする性格が見て取れる。

『江戸歳盛記』慶応元年(1865)58歳

この頃には「横浜絵」の制作は減り、時事的な出来事を昔の出来事になぞらえて描く報道的な絵が増えたと言われている(例えば将軍・徳川家茂の上洛を源頼朝の上洛になそらえて描いた図を数種類制作している)。そんなジャンル替えを行っても人気は健在だったようで、鳥居清満の次の2位にランク付けされている。

『東京歳盛記』明治元年(1868)62歳

明治元年、ついに貞秀がトップにランク付けされた絵師番付。すでに師の三代歌川豊国(歌川国貞)も亡くなり(元治元年(1865)死去)浮世絵界の世代交代が進むなか、長老格の現役絵師として活動していることがうかがえる。

まとめ

冒頭で挙げた「版元の要望を無視して彫師泣かせの密画を描く」「師匠・歌川国貞の後妻との折合いの悪さ」といった貞秀の逸話は、自分を貫き我が道を行く性格を物語る。

その性格をさらに裏付ける逸話として、初代豊国の継承者がいるにも関わらず、師匠の歌川国貞が「二代」豊国を名乗った際、弟子たちも国貞の「貞」を名頭にしたものを師に倣って「国」の字に改名するものが多いなか、師の行為を快く思わなかった貞秀は改名せずそのままで通したという話もあった。

貞秀の画業を振り返ってみると「自分を貫き我が道を行く性格」がリアリティのある鳥瞰図の追求、さらには取り締まりに臆することなくきわどい絵を描き続けた原動力になったのではないだろうか。

貞秀の没年は明らかではないが、明治十年頃に日本橋にあった絵草子問屋の丸鐵で「此頃はやつぱり若い者流行で困る」と愚痴を言っていたとの証言から、明治十一、二年以後(72、3歳)ではないかと考えられている(『浮世絵界』)。最後に記憶された貞秀の言葉が若い絵師への苦言というのは何とも貞秀らしい。

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参考資料

『ワイドビューの幕末絵師 貞秀』神戸市立博物館(2010)
『馬琴書翰集成』柴田光彦、神田正行編(全4巻 2002-2004)※参照は第3巻
『横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀』神奈川県立歴史博物館(1997)
「横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀」横田洋一
『江戸の風刺画』南和男(1997)
『芸術新潮』1997年11月号「浮世絵師・五雲亭貞秀 「ただいま富士山上空なり!」」(1997)
『大日本近世史料』18 (市中取締類集 18 書物錦絵之部 1)(1988)
『藤岡屋日記』第3巻 三一書房(1988)
『浮世絵界』昭和12年12月号「歌川貞秀の別号と草双紙」津金巨摩雄(1937)
『日本及日本人』8月15日号「浮世絵と板画の研究(二)」樋口二葉(1931)
『未刊随筆百種 第11』「きゝのまにまに」喜多村信節 著 三田村鳶魚 校訂(1928)
『浮世絵志』第4号「浮世絵師の自画像」大曲駒村(1929)
『錦絵』第43号「明治の浮世絵師 五雲亭貞秀」(1920)
『浮世絵』第18号「俳優画師高名競」(1916)