向島百花園にある月岡芳年翁之碑の解読に挑む

東向島の向島百花園には、幕末から明治にかけて活躍した絵師、月岡芳年の七回忌に建立された月岡芳年顕彰碑(月岡芳年翁之碑)がある。この石碑は月岡芳年の生涯が記された一次資料となっている。芳年の概略を記した碑文を参考資料の助けを借りて、解読にチャレンジしてみた!

スポンサードリンク
月岡芳年伝 幕末明治のはざまに

石碑(表)

月岡芳年翁之碑
月岡芳年翁之碑

明治三十一年(1898)5月に建立されたという石碑に刻まれた碑文は、流麗な草書体で書かれており現代人には解読不可能な部分があまりにも多い。

碑文を文字起こしするにあたっては、実際の石碑のアップ写真と後述の参考資料とを見比べながら、最も碑文の文字の形に近く、最も日本語として意味が通るものを選び取ってみた(原文の響きを損なわない程度に旧字体や旧仮名遣いは現代のものに置き換え、句読点・かぎ括弧・改行を加えており、適宜読み仮名も加えた)。

月岡芳年翁之碑

絵画は写生を以て本旨とすれど、写意ならざるべからず。其の意を得ざるときは精神乏しく、見るに足らざるなり。倭絵(やまとえ)の写意は、はやく巨勢(こせ)家ニ、三代間に新機軸を出して、当時賞せられき。

近き世も称誉せらる諸流の達者少しとせざるが中に、芳年ぬしは天保十年江戸新橋丸屋町に生まれ、通称米次郎とよび、父を吉岡兵部といふ。後に故ありて、ぬし月岡氏を襲(つ)ぐ。甫(はじ)めて十一歳、一勇斎国芳の門に入り、十八歳始めて錦絵の筆を揮(ふる)ふ。斯(この)道の先輩、その筆の凡ならざるを称せりと。

明治初年の頃、感ずる所有りて暫(しばら)くその版本を謝絶す。この間、困苦ほとほというべからざるに至るも、心敢えて関(とざ)さず、ただ古(いにしえ)を師として、むかしの名匠の筆意及び写生法を専(もっぱ)らに臨みて怠らず。如此(かくのごとく)するもの両三年、漸(ようや)くにして、かの『井伊閣老遭難の図』を作りて出版す。ここに於いて画風一変、大いに世人の眼を驚かし、ほしいままに其の名を博す。されば、ぬしの揮毫を得むと欲するもの多く、各新聞数紙、挿絵の如き、ぬしの筆を加ふるものを以て栄としたりきと。これいはゆる写意を得たるものといはむか。

ぬし居常門生に謂へらく、「余や猶(なお)荘なり。古名家の遺蹟を見るごとに、余が未熟を責む。今十数年を経過せば、世にのこすべきものあらむ」と。なほ座右其(その)粉本を供し、寝ても枕辺にこれを具しておこたらず。実に斯(この)道に精神を尽す、そもそも力(つと)めたりというべし。

惜しい哉(かな)、天ぬしに年を假(か)さず、明治二十五年六月九日不帰の客となる。時に年五十四。

ぬし別号おおし。始め玉櫻といい、また一魁斉。後年重病に罹りて、其(その)命旦夕に迫りしも、幸いに全快す。故に改めて大蘇とよぶ。最晩年にいたり咀華亭、また子英とも号せり。

世間に行なわるる出版物、枚挙に遑(いとま)あらざれど、其著(そのいちじる)きなるものは『百撰想』『日本名将鑑』『日本略史図絵』『新撰東錦絵』『芳年漫画』『芳年略画』『芳年武者无類』『三十二相』『三十六怪撰』『月百姿』などの類なりとす。

ことし、ぬしのために在世の概略をかかげ、石に勤して後代にしめさむとすること、かくの如し。

明治三十年十二月

正三位 公爵二条基弘 題字
小杉榲邨 撰書
吉川黄雲 彫刻

碑文を読み解くと、天保十年(1839)に吉岡米次郎として生まれ、何らかの理由で月岡姓を継いだこと、11歳で歌川国芳の弟子となったこと、18歳の頃には錦絵を描くようになったこと、明治初年の一時期に絵の仕事を一切断っていたこと、復帰後は画風が一変したこと、画号に玉櫻や一魁斉を用いており、重病からの復帰後は大蘇、最晩年には咀華亭、子英の画号を使っていたこと、明治二十五年(1892)6月9日に亡くなったこと等がわかる。

解説

巨勢家:平安時代初期から室町時代を経て、明治時代まで連なる絵師の一族、巨勢派のこと。琳派のような統一した画風を表す流派ではなく、あくまで初代の巨勢金岡(こせのかなおか)に始まる家系・一門の画系を指す。巨勢金岡は、中国伝来の唐絵を脱した日本独自の大和絵(倭絵)様式を確立した功労者と言われる。

実際の石碑をもっと近くで見てみたい方のためにアップの写真もご用意(画像の読み込みに時間がかかる場合あり)。

月岡芳年翁之碑アップ写真
月岡芳年翁之碑アップ写真

石碑(裏)

月岡芳年翁之碑(裏)
月岡芳年翁之碑(裏)

石碑の裏は、歌川国芳顕彰碑と同様、月岡芳年の弟子たちをはじめ、石碑建立に関わった関係者の名が刻まれている。

まったく出来の悪い写真だが、真裏からカメラを構えると木が生い茂っているため、木が邪魔しない全体写真を撮るにはこの角度が限界なのだ!(苦笑)

そこでせめて刻まれた文字が読めるように、もう少し近づいてアップの写真も撮ってみた。

月岡芳年翁之碑(裏)
月岡芳年翁之碑(裏)
月岡芳年翁之碑(裏)
月岡芳年翁之碑(裏)
月岡芳年翁之碑(裏)
月岡芳年翁之碑(裏)
月岡芳年翁之碑(裏)
月岡芳年翁之碑(裏)

以下、石碑裏面に刻まれた文字を書き起こしてみる(旧字体は常用漢字に変換した)。

寄附諸君連名

岡倉覚三君、やまと新聞社、東京朝日新聞社、博文館、春陽堂、條野伝平君、大根河岸三周君、尾上菊五郎君、三遊亭圓朝君、三遊社中諸君、若菜貞爾君、濱廼屋君

高野雲昇君、永井素岳君、剞劒師山本信司君、鈴木宗太郎君、松木平吉君、柳塢亭寅彦君、綱嶌亀吉君、関口政次郎君、細井嶺斎君、新富君、富岡永洗君、服部喜太郎君、玉の井君、中嶋藤兵衛君、浅床君、西川宗兵衛君

年方門人
小山光方、鏑木清方、大石雅方、笠原常方、田嶋定方
須藤宗方、西村景方、草野栄方、塩澤福太郎、吉本康方
中井智方、池田輝方、本間春方、大野静方、平松槌太郎

年英門人
伊東英泰、福手英宣、松下英業、笠井英昭、渡辺英素、寺田英光
柚木英尚、武石英郷、山川英茂、山本英春、山田英辰
天野英雅、鰭崎英朋、大野英起、都賀英寛、川合英忠

芳年社中故門人
年麿、中山年次、年秀、年一、年光
小林年参、稲垣年直、山崎年信、山田年貞、花輪年香、枝年祥

芳年門人
野坂年晴、金木年景、鈴木年基、尾崎年種、新井芳宗、松井年葉、尾崎年華、水野年方、稲野年恒、山中古洞、藤田年季、加藤年洲、服部年之、年琴女、桂年挙、年豊、年明、年広、年長、年重、富永年親、享斎年保、高橋年隆、年忠
木藤年延、武内桂舟、枝年昌、右田年英、年人女、西井菫斎、山田敬中、中澤年章、筒井年峰、田口年信、笠井鳳斎、斎藤年魚、坂巻年久、滑稽堂秋山、年清、年久、年丸、中村年邑、福嶋年丸、年正、年楳、年一、年光

明治三十一年戊戌五月建之

大甦芳年像(追善絵)
大甦芳年像(追善絵)

弟子と親族のみの名前が彫られた歌川国芳顕彰碑と違い、まず岡倉覚三(岡倉天心のこと)を筆頭に門人以外の関係者の名が並び、次に芳年の弟子である水野年方と右田年英の弟子という芳年にとっての孫弟子の名前が芳年の弟子たちより先に刻まれている。年方門人のなかには近代日本を代表する美人画家、鏑木清方の名前が見える。

芳年門人のなかには、芳年の追善絵で知られる金木年景、芳年の伝記『芳年伝備考』を書き残した山中古洞、親子二代に渡って絵師で芳年と交流のあった新井芳宗(二代目歌川芳宗)らの名前が刻まれている。また坂巻年久は、芳年の妻・坂巻泰の連れ子であり、後に月岡姓を継いで能画家となる月岡耕漁のことである。

スポンサードリンク

二代歌川芳宗

アクセス

東京都墨田区東向島3丁目18−3

最寄駅:東武スカイツリーライン 東向島駅 徒歩8分
京成電鉄押上線 京成曳舟駅 徒歩13分
都営バス 亀戸-日暮里(里22)百花園前 徒歩約3分

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
よろしければ応援クリックをお願いします!
にほんブログ村 美術ブログ いろいろな美術・アートへ
にほんブログ村

参考資料

墨東歳時記~茶亭さはら~「月岡芳年翁之碑」
『月岡芳年の伝記に関する諸問題』古川真弓著
『日本美術家墓所考』結城素明