月岡芳年、小林清親と並び「明治浮世絵界の三傑」に挙げられる豊原国周(とよはらくにちか)。しかし、今や国周は他の2人に比べて忘れられた存在となってしまった。今回はそんな国周の略歴と人物像について紹介する。
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目次
豊原国周とは?
生い立ち
国周は姓は荒川、俗称を八十八。天保六年(1835)6月5日、江戸京橋五郎兵衛町(現在の中央区八重洲二丁目)に次男として生まれる。父は大島九十といい、河童が尻を指さしている彫り物があるというイナセな男。母は同心の荒川三之丞の娘、八重。長吉という長兄が「大島なんて苗字は気が利かない」といったことから母方の荒川を名乗るようになったという。幼い頃の国周はガキ大将で、近隣から毎日のように苦情が寄せられて、父兄をてこずらせていた。
歌川国貞(三代歌川豊国)に弟子入り
兄が南伝馬町で押絵屋を開いたことをきっかけに押絵を近春(隣春の説あり)に学び、一遊斎近信または豊原周信という絵師を師として役者似顔絵を描くようになったとされる。その後、14歳の時に三代豊国を襲名していた歌川国貞に入門し、17年もの間、師匠のもとで学んだ。「国周」という画名は一説によると豊原周信と三代歌川豊国の名を合わせたものと言われている。
「大顔絵」のヒットで役者絵の第一人者に
国周が「写楽以来の第一人者」と評された代表作は明治二年(1869)に具足屋から刊行された大首絵のシリーズ。大首絵というと、東洲斎写楽の「三世大谷鬼次の江戸兵衛」がよく知られているが、国周の大首絵はさらに大きくほとんど実物大の顔の大きさにまで引き延ばされている。
役者絵で知られる国周だが、美人画でも佳作を残している。明治六年(1873)から太陽暦・一日24時間制が採用された後、多数刊行された二十四時をタイトルにつけた作品のなかで国周が出したのが「見立昼夜二十四時」である。
明治二十三年(1890)の国周晩年期に出されたこの作品は各時刻に1人ずつ女性を描いた24枚のシリーズ。このうち「午後一時」では、日本髪ではなく束ね髪で、左手中指には指輪をし、英語を学ぶという先進的な女性を描いている。一方で師匠の国貞が美人画で用いた、鏡に映る女性という従来の浮世絵のモチーフも使われた意欲作となっている。
浮世絵師番付にみる生前の国周評価
後世の研究家からは役者絵で知られる東洲斎写楽と比較して「写楽以来の第一人(小島烏水)」「写楽に迫るものであるかどうかはすこぶる疑問(高橋誠一郎)」と評価が二分している国周。生前の評価はどうだったのか?当時発行された浮世絵師番付で国周の評価の変遷をみてみよう。
『江戸歳盛記』慶応元年(1865)
人気浮世絵師トップ27人の名前が掲載されている史料。国周は第8位にランクイン。国周の兄弟子にあたる歌川貞秀(橋本貞秀、五雲亭貞秀)も第2位に選ばれている。第5位にランクインしている歌川国貞は、国周の師匠である初代国貞の義理の息子、二代目国貞のこと。第6位の歌川広重も初代広重は安政五年(1858)に亡くなっていることから二代目か三代目の広重と思われる。
『東京歳盛記』明治元年(1868)
人気浮世絵師トップ29人の名前が掲載されている史料。国周は第5位に選ばれている。第1位に選ばれたのは国周の兄弟子、歌川貞秀だ。国周の弟子、周延も28位にランクインしている。「芳」の字を使った歌川国芳の弟子、「国」の字を使った歌川国貞(三代目歌川豊国)の弟子が浮世絵界を席巻していたことがわかる。
『東京流行細見記』明治十八年(1885)
人気浮世絵師トップ23人の名前が掲載されている史料。国周はさらに順位を上げて第4位にランクイン。安定した人気を誇っていることがうかがえる。国周の他、上位には月岡芳年、小林永濯、落合芳幾と同時代に活躍した絵師の名が並ぶ。また小林清親は第15位に登場しており、現在の評価と逆転しているところは興味深い。
同時代人が語る他の絵師との比較
作家の淡島寒月は大正六年に刊行された『錦絵』第2号において自身の幼かった頃(明治時代)の思い出を語っている。このなかで国周をはじめ、小林清親・月岡芳年・落合芳幾・河鍋暁斎が当時どう評されていたかの証言を残している。これによると当時、役者絵に関しては国周の独壇場であったことがわかる。
(前略)欧化主義の最初の企ての如き、清親の水彩画のやうな風景画が両国の大黒屋から出版されて、頗る(すこぶる)売れたものである。役者絵は国周で独占され、芳年は美人と血糊のついたやうな絵で持て、又芳幾は錦絵としては出さずに、「あぐら鍋」「西洋道中膝栗毛」なぞの挿絵で評判だった、暁斎は萬亭応賀の作物挿絵や其他「イソツプ物語」の挿絵が評判であった。
月岡芳年の弟子だった山中古洞は、国周が仕事の依頼元である版元とトラブルを起こしたため、芳年がその仕事を請け負うことになったことを書き残している。
新富座で川中島東都錦絵を出す一寸前の事だつた。例の国周がまだ年端の行かぬ、可愛盛りの娘を連れ他出した事がある。呑ん兵衛心理は日本橋南詰(震災前村井の地下室と云はれた食堂の處)の縄暖簾矢太場ですつかりへゞつた果が、つひ真向ふの版元萬孫(大倉孫兵衛)へ娘を遣つて金三円の前借りを申込んだ。「使じゃ貸せない」を理由として店の者が突弾ねたのです。烈火の如くなつた国周が酒の勢ひもあつて、萬孫の店え怒鳴り込んで悪口雑言、「もう絵をかゝせない」「描てやらぬ」でその日は鳧(けり)がついた。新富座が蓋(ふた)を開ける真近に萬孫は狼狽し出した。今更国周に詫(わび)にも行かれない、四苦八苦の果が此時の似顔絵三枚続は人気ものゝ芳年え廻つて来た。菊五郎との関係も深い川中島を描くのだから、精気を凝らした芳年の得意は画面に顕れて物凄いものである。萬孫の店でも国周征服の意気組もあつて、さア来いと許(ばか)りに出版して見ると、案に相違して、殆ど売れなかつた。萬孫閉口の噂は其頃の一笑話となつた。
芳年も希代の実力者であるが、役者絵というジャンルでは国周の方が一枚上手の人気であったことがうかがえる。
豊原国周の逸話
チャキチャキの江戸っ子とも評される国周は数々の逸話を残している。今回はそのいくつかを紹介する。
北斎を上回る?驚愕の引越し回数
葛飾北斎は引っ越しを繰り返したことで知られているが、国周もとんでもない回数の引っ越しをしていた。国周本人が引越し回数について次のように語っている。
そこでちょっと話して置きますが、わたしは生まれたところを離れたから、今までに百十七回引っ越した。自慢ではないが、北斎は生涯の内に、八十餘度引っ越したといふけれども、引っ越しの方では、わたしが兄分だ。勿論その引っ越しは、一日の内に三度もやったことがあって、随分をかしかったから、引っ越したことだけは、ちゃんと日記に附けてある。-「國周とその生活」
本人談の117回という引っ越し回数は話を盛っている可能性もなくはない。しかし、一日で3回も引っ越したという国周が、一体どんな状況でそんなことになったのか?実はその経緯も逸話として残っている。
豊原国周嘗て浅草に住せしとき、某家主と争論して腹立紛れに即日引越さんとし、直ちに家財を車に積みて家を出でたり、然れども行く先の的あるにあらず、車を挽て所々を捜索し、本所に至りて一屋を索めて之に入る、然るに此家国周が意に満たず、また車を挽て深川に至り、格好なる家を見出して入らんとするに家賃甚だ高し、已むを得ずして此処を去てまた所々を捜索して市中を巡り、日没に至て漸く日本橋に一戸を得て之を取極めたり家財を擁して貸家の穿鑿(せんさく)をなし、併も一日に三度引越すが如きは蓋し世に稀なるべし -『画家逸事談』
大家と揉めた挙句、即日家財道具を車に積んで家を出て、気に入らないだの家賃が高いだので引っ越しを繰り返したという…
古本10冊に10倍以上の値段を払う
国周は「宵越しの金は持たない」江戸っ子。さらにプライドも高く、負けず嫌いだとわかる逸話が残っている。
あるとき、浅草広小路の夜店を見に出かけた国周。坊主の老人がやっている本屋で、田舎源氏というヒット長編小説の古本10冊を手に取り値段を聞いたところ「一朱と二百文だ」と言われた。国周はこれを聞いて「俺は日本一の国周だ。一朱に負けろ!」と店主に怒鳴ったところ、店主も負けずに「俺も日本一の石井清次郎だ。掛け値なしの値段でやっとる!」と言い返してきた。国周は面白い男だと感心し、懐を探って紙入に入っていた十三両を取り出して「だったら日本一の国周の肝っ玉を見てみろ!」と紙入ごと店主に投げ与えて、目当ての本を持ち去ってしまった。結局、値切っていたはずの国周は元の値段の10倍以上のお金を払う羽目になってしまったのだ。
この本屋の店主も気骨ある人物だったようで、紙入れに封をしてしまったまま、後年病気で死ぬ間際に紙入れのことを思い出して国周に返却したと伝わっている。(『画家逸事談』より)
負けず嫌いで高じて自己破産
そんな負けず嫌いの国周は、さらに派手なお金の使い方を自ら披露している。
隅田川下流の間部河岸と呼ばれたところに新築の家を建てた国周。その隅田川に時蔵という役者が屋根船2、3艘を浮かべて柳橋の芸者12、3人と遊んでいた。これを目撃した国周は「端役の役者が大層なマネしやがって」と金もないのに屋根船5、6艘で乗り出しドンチャン騒ぎをして張り合った。
またある時、加賀鳶の歌という人物が国周が牢屋に入れられたと噂を流し、国周の役者絵で世話になっていた宗十郎、小団次、半四郎、菊五郎という役者たちから国周のためと金をだまし取って使ってしまった。これを知った国周は「歌もいゝ顔の男だから赤い着物を着せるまでもない」と金を揃えて返済しに廻った。しかし、宗十郎はどうしても受け取らない。そこで国周は寿司折を配って、残った金は全て自分の酒代にしてしまったという。
そんなことが重なり、借金がかさんだ国周は新築の家も三百両で手放し、東京で二番目という身代限り(破産宣告)を言い渡されてしまった。転んでもただでは起きない国周。さらに一両三分出して、その身代限りの言渡し書に胡麻竹の額をこしらえて、住んでいた家の前に掛けた。こいつは面白いと世間では大うけだったという。(「國周とその生活」より)
墓
本龍寺(台東区今戸)
豊原国周は、明治三十三年(1900)7月1日に吉原土手下の仮住まいで亡くなった。享年66歳。
墓碑が台東区今戸の浄土真宗大谷派本龍寺にある。法名は「鶯雲院釋国周居士」。一周忌の際に建てられた墓碑は関東大震災で寺が焼け落ちた時に破砕されてしまった。現存する墓碑は昭和四十九年(1974)に遺族により立て直されたものだ。
お寺に入ってすぐ左手にある墓碑には、国周の辞世の句である「世の中の人の似顔も厭きたれば閻魔や鬼の生きうつしせん」が刻まれている。揮毫は浮世絵コレクターであり、国周に関する本『豊原国周役者絵撰集』も著している呉文炳(くれふみあき)によるもの。
アクセス
・銀座線浅草駅から徒歩13分
・都営バス東42甲「浅草七丁目」から徒歩2分
まとめ
役者絵に強みを見出した豊原国周。明治の世で独壇場となった役者絵は、江戸の風雅が残り、役者そのものの魅力を打ち出していくという当時の人々が求めた画風であった。それがゆえに当時の役者を知らない後世では評価が二分され、やがて忘れられた存在となった感が否めない。しかし「見立昼夜二十四時」の美人画のように役者絵のみならず、画業のなかで新たな試みもなされており、国周のさらなる研究が待たれる。その画業の全貌が見えた時、再評価が進んでいくだろう。
また今回紹介したエピソードは伝えられたもののうちの一部にすぎない。国周の奇行の多さは、一方では彼の人柄や当時の世相を伝え知る貴重な史料ともなっている。同時代の絵師である月岡芳年や河鍋暁斎、小林清親とのエピソードも残されており、別の機会に触れていきたい。
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参考資料
『京都造形芸術大学紀要 GENESIS』第18号「豊原国周研究序説」菅原真弓(2013)
『画家逸事談』木田寛栗編
『浮世絵芸術』第20号「國周とその生活」森銑三
『最後の浮世絵師 豊原國周展』図録「伝えられた国周の肖像」岡本祐美
『浮世絵師伝』井上和雄
『錦絵』第2号「私の幼かりし頃」淡島寒月
『浮世絵志』第24号「芳年伝備考(第七稿)」山中古洞
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