人気絵師になるには?江戸絵師に学ぶアピール方法4選

死後に才能を認められる絵師と生前から人気の絵師の違いは一体何だろうか?生前から人気のあった絵師たちのエピソードから自分の名前を売り込んだ方法を探ってみた!

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谷文晁の場合

谷文晁とは

江戸時代後期の人気絵師。1763年10月15日、現在の東京都台東区に生まれる。狩野派が覇権を握っていた時代に、中国の南宗画(文人画)を様々な流派の画風と合わせた「関東南画」を確立し、大名から豪商にいたるまで好評を博した。写山楼と呼ばれた画塾から多くの弟子たちを輩出している。

大晦日の扇大作戦

谷文晁がまだ世に名前が知られていなかった頃の話。扇に富士の絵を描いたものを数十本用意して、ある年の大晦日の晩にその扇を路上に落として廻った。元旦になり扇を拾った人々は「正月から富士とは縁起がいいや!」と大喜び。おのずとその扇に富士を描いた文晁の名前は江戸中に広まり、扇に使った費用はすぐ取り返せたという。

わざと忘れ物

文晁には、扇を使ったもう一つの作戦があった。それは夏に床屋などでわざと自分で描いた扇子を忘れていくというもの。間をおいて床屋に戻ってくる頃には、床屋が他の客に扇について褒めそやしているという寸法だ。

有名になってからも売名行為

名が知られるようになってからも文晁は、名前を売ることに余念がなかった。芝居を観に行ったら、家から遣いを来させて「文晁先生、入場口までお越しください」と場内アナウンスをさせたり、俳優に自分の名前が入った引幕を贈ったりしていたそうだ。

葛飾北斎の場合

葛飾北斎とは

江戸後期の浮世絵師。1760年10月31日、現在の東京都墨田区に生まれる。勝川春章に弟子入りした後もあらゆる流派の画法を学んだ。代表作、富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」はあまりにも有名。各分野に数多の傑作を残す。画号を改めること30回、引っ越しすること93回と奇行でも知られる。

評判を覆す巨大画パフォーマンス

名古屋にあった版元、永楽屋に招かれた北斎は代表作の1つ『北斎漫画』を手がけた。

北斎漫画 <全三巻> 第一巻「江戸百態」 (Hokusai Manga Vol 1)
北斎漫画<全三巻> 第二巻「森羅万象」
北斎漫画 <全三巻> 第三巻「奇想天外」 (Hokusai Manga Vol 3)

ところが心無い人々から「北斎はたしかに細かな絵は上手だけど、大きな絵は描けないだろう」と噂された。噂を耳にした北斎は腹を立て、「本願寺掛所の境内で大画を描くので御覧あれ 北斎より」という主旨の張り紙で広告した。現代で言うところの広告ポスターでもある、この張り紙は『北斎大画即書引札』として現存しており、名古屋市博物館が所蔵している。

当日は物珍しさもあって大盛況。120畳もある紙に即興で巨大なダルマの絵を一気に描きあげて「大きな絵は描けない」という評判を覆した。

北斎大画即書引札

「大達磨図」は戦災で焼けて現存しないが、江戸時代に著された『小治田之真清水(おわりだのましみず)』を、昭和になってから再編した『尾張名所図会附録』に、当日のパフォーマンスの様子が描かれている。

尾張名所図会附録より
尾張名所図会附録より
コラム:北斎の巨大画パフォーマンス
『本朝画人伝』によると、北斎の巨大画パフォーマンスは何回も行われていたという。

・文化六年(1809):江戸音羽(現在の東京都文京区)の護国寺で大達磨図を描く
・文化六年以降:本所合羽干場(現在の東京都墨田区)で巨大な馬図を描く
・文化六年以降:両国回向院(現在の東京都)で大布袋図、米一粒に雀二羽を描く
・文化十四年(1817):名古屋にて大達磨図を描く(前述のパフォーマンスのこと)

残念ながら、北斎の巨大画はどれも現存確認されていない。

歌川国芳の場合

歌川国芳とは

江戸後期の浮世絵師。1798年1月1日、現在の東京都中央区に生まれる。『通俗水滸伝豪傑百八人』という武者絵シリーズで名を挙げた。多くの弟子を抱え、落合芳幾、月岡芳年などの絵師を輩出。大胆な構図や現代に通じるユーモアのある戯画は現代のアーティストにも影響を与えている。

もがいた下積み時代

歌川国芳は、高名な浮世絵師の歌川豊国に弟子入りしたが、師匠からの引き立てはなく、長く売れなかった時代を過ごした。歌川派の枠にとらわれず、葛飾北斎に会いに行って、画法について教えを乞うこともあったという。

現在の五百羅漢寺

大出世作となる『通俗水滸伝豪傑百八人』の初期作で、人物の顔が同じになったことに気づいた国芳は、本所五ッ目(現在の東京都江東区)の五百羅漢寺に行き、膨大な羅漢像を模写して創作の参考とした。現在、五百羅漢寺は東京都目黒区に移転しており、国芳が見たであろう羅漢像も現存している。

梅の屋鶴寿というパトロンの存在

国芳には、売れなかった時代から世話になったパトロンがいた。それが狂歌師の梅の屋鶴寿(うめのやかくじゅ)だ。国芳の江戸っ子な性格を愛し、衣服や食事を提供して常に国芳を助けたという。国芳没後の十三回忌に三囲神社に建てられた石碑のなかで、国芳と鶴寿の親密ぶりは「兄弟の如し」と記されている。

解説
狂歌師:狂歌とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した短歌のことを言う。よく知られた狂歌としては、日本史の教科書でも登場する「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」など。狂歌師はこういった狂歌を詠む人。

嘉永六年(1853)6月28日に梅の屋鶴寿は、両国柳橋の割烹店河内屋にて書画会を主催。国芳は、この書画会で30畳もある大きな紙に対して、浴衣を脱いで筆代わりに墨を付け、水滸伝に登場する「九紋龍史進」の像を一気に描きあげて喝采を浴びたという。

河鍋暁斎の場合

河鍋暁斎とは

江戸末期から明治にかけて活躍した絵師。1831年5月18日、現在の茨城県古河市に生まれる。幼少期には一時、歌川国芳に絵を学んだ。狩野派を学んで18歳で独立後は狩野派を脱した浮世絵・戯画・風刺画で人気を博す。鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルを弟子にするなど国際人の一面もあった。

青山の一等地を買える値段でカラスの絵を出品

明治十四年(1881)に開催された第二回内国勧業博覧会にて、河鍋暁斎は4つの作品を出品した。そのうちの一点が「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」だ。当時の内国勧業博覧会では、出品作に値段をつける必要があった。そこで暁斎は「金百円」とつけた。

当時の百円といえば、青山の一等地を買える値段。このため、暁斎に対して「カラス一羽に百円は高すぎだ」と言う人がいた。これに対して暁斎は「百円はカラス一羽の値段ではない、多年苦学してきた値段だ」と返したそうだ。

この作品の素晴らしさと値段をつけた真意に感銘を受けたのが、江戸時代から菓子商を営む榮太樓(現在の榮太樓本舗)主人の細田安兵衛。さっそく言い値の百円で購入を申し込み、暁斎の面目は保たれた。「百円鴉」と話題になったこの絵は、日本画の最高賞である妙技二等賞牌を受賞し、暁斎は「鴉の暁斎」と評判となった。「鴉図」の注文を多く受けるようになった暁斎は、カラスをかたどった印章を使ってカラスへの感謝の意を表した。

現在も「枯木寒鴉図」は榮太樓本舗が所蔵しており、東京富士美術館で開催の『暁斎・暁翠伝』で展示されている。

枯木寒鴉図

この話には後日談がある。百円を手にした暁斎は榮太樓を訪ね、「実際に百円が欲しくて付けた値段ではない。購入してくれて面目が立った」と言って、返金した。細田氏は喜んで暁斎をもてなし、帰り際の暁斎に「これは画料ではなく、その心意気に対して差し上げるものだ」と言って、再び百円を渡したという。

それぞれ個性的な方法で世の中に自分の絵をアピールした絵師たちだが、いずれも実力を持ち合わせていたからこそ成功したのは言うまでもない。

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参考資料

『錦絵』第15号「浮世絵雅談」石井研堂
『錦絵』第15号「逸話の北斎」
『「北斎だるせん!」公式図録』名古屋市博物館編
『尾張名所図会附録』編・岡田啓、野口道直、画・小田切春江
『本朝画人伝』巻二「谷文晁」村松梢風
『本朝画人伝』巻三「葛飾北斎」村松梢風
『画鬼 暁斎読本』河鍋暁斎記念美術館編