月岡芳年を陰で支えた女性たち

幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年。近年、展覧会が開かれるなど再び注目を集めるようになってきている。今回は、そんな芳年をめぐる女性たちからその実像に迫ってみた。

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月岡芳年伝 幕末明治のはざまに

最初の妻

月岡芳年は、明治に入る前に最初の妻を迎えていた。妻の名前はおせん。清元(清元節、浄瑠璃から出た三味線音楽の一種)の師匠の娘で、芳年より一歳上の幼なじみだったと言われている。その頃の芳年は、まだ桶町(現在の八重洲二丁目・京橋一、二丁目)に住む貧乏絵師。そんな貧乏生活を妻の機転で乗り切ったエピソードが残っている。

懇意にしていた屋根屋次郎兵衛という人物が亡くなり、葬儀に行くことになった芳年。着ていく服がないと困っていると、そこに客がやってきた。その客に浴衣を着せてわざわざ銭湯に行かせると、着ていた服を拝借して会葬を済ませたという。芳年の妻は、何も知らずに銭湯から帰ってきた客に、酒を出してお茶を濁し、芳年が帰ってくるまで時間稼ぎをしていたそうだ。

芳年の弟子、新井芳宗によると弟子入りした明治四年(1871)には、最初の妻は芳年の家にいなかったらしく、死別か離別かはハッキリしていない。

コラム:芳年の最初の妻・おせんと師匠・歌川国芳
おせんは住んでいる場所(京橋桶町)から桶町小町と噂の高い美人だったという。芳年・17歳、おせん・18歳の頃、幼なじみの二人はいつのまにか人目を忍んで愛の囁きを交すようになったが、芳年は浅草に住む師匠の歌川国芳の家で内弟子となることになった。

すると芳年はなんだかんだ理由をつけては桶町へと出かけていった。これに気付いて心配したのは国芳だった。ある日、芳年は国芳に呼ばれて何事かと師匠の前に出ると、国芳は芳年に向かって厳かにこう言った。

「おい米!(注:芳年の本名は米次郎)お前は一体絵が好きなのか女が好きなのか。俺は全て承知している。実は数ある弟子の中でお前を楽しみにしていたのだ。それが近ごろの態は何だ、まるで春先の猫みてぇじゃねぇか。そんなことで立派な絵かきになれると思うか。」

師匠の言葉に改心した芳年は画道の精進を誓った。ここから芳年は寝食を忘れるほど努力を重ねていった。そして2、3年が過ぎ、芳年・20歳、おせん・21歳の時に国芳が仲に入って二人を一緒にした。これには二人ともただただ感激の涙にむせぶばかりだったという。

超貧乏時代を支えたお琴

芳年は明治五年(1872)に強度の神経衰弱となる。作画活動がままならなくなった超貧乏時代を支えたのはお琴さんという女性だった。お琴さんの詳しい出自はわかっていないが、名家の出ではなかったようだ。その頃の芳年の貧乏ぶりは、借家の床板を燃料にするために剥がし土間があらわれるほどだったという。お琴さんの実家への仕送りも滞ったままだった。

明治六年(1873)、35歳の芳年は神経病から回復し「大蘇」の号を用いるようになった。復帰後のヒット作となった「井伊大老遭難之図」は、「これが失敗したら田舎落ちだ」と語っていたほど芳年自身の再起をかけた渾身作だった。お琴さんも成功を願って「日蓮様」に心願込めたお参りをしていたという。

井伊大老遭難之図
井伊大老遭難之図

しかし、すぐにお財布事情が良くなったわけではなかった。「先生のご病気がよくなったら」と待ってもらっていた支払いも滞る。親元へも送金できず進退窮まったお琴さんは、芳年のことを想いながら泣く泣く千葉近くの親元へ戻って行った。お琴さんはその後、10年しないうちに亡くなってしまうのだが、幽霊となって芳年のもとに現れたという逸話が残っている。

お琴さんは病死間際に「芳年先生のところにお礼に行きたい」と言っていた。芳年のもとに現れた幽霊は袖で顔を覆い隠していたが、幽霊として現れた時間や着物の縞柄が一致していたことでお琴さんの幽霊だろうと思い至ったそうだ。弟子の山中古洞の話では、芳年がこの幽霊を描いた絵があったが、火事で焼けてしまったという。

姉のように慕った芸妓屋かめ屋の女将

明治十年(1877)前後、芳年が姉のように慕っていた女性が芸妓屋かめ屋の女将だ。女将は芳年の6つ年上で、芳年のことを「年さん」と呼び、弟のように面倒をみていたという。弟子の山中古洞は次のようなエピソードを書き記している。

或る日のこと例の如くかめ家を訪れたが、先生は門を潜る前から絶えず腹を叩いて居るのに女将不審に思ひ、「年さんお腹でも傷むのですか」と聞くと、「いや腹が空いて堪らない」、それからタラ腹御飯の御馳走に預ったことさへあったと云ふ。

ー『錦絵』第35号より

なんとも図々しい「女たらし」ぶりである。

二番目の妻、お楽

芳年が南金六町十四番地(現在の中央区銀座八丁目)に居を移した翌年の明治十年(1877)、西南戦争勃発によって、その戦況を知らせる戦争画・人物画の需要が増え、芳年の画名も広く伝わるようになった。この頃、松本楓湖の訪問を受け、宮内省からの御下命で風俗画の絹本を描いている。

ようやくお金に余裕ができた芳年は多年の恩に報いるため、実家に帰って行ったお琴さんに20~30金を贈ったという。さらに丸屋町(現在の中央区銀座八丁目)五番地に新居を構えた。そんな”ノリノリ”の芳年に嫁いだのは板新道(現在の中央区日本橋馬喰町一丁目、日本橋横山町)の芸者だったお楽さんだ。芳年は39歳になっていた。

しかし、西南戦争が終わると浮世絵界も「不景気風」が吹くようになった。江戸っ子気質の抜けない芳年の散財もおさまらず、お楽さんは持ち物や衣装を質にいれて失い、栃木あたりに身売りの別れを告げることになってしまった。

明治十二年(1879)、芳年41歳で南金六町へ戻り、さらに半年で根津宮永町(現在の文京区根津一、二丁目)に移り住んだ(お琴さんが幽霊となって現れたのもこの根津時代である)。芳年が長く住んでいた現在の中央区あたりから離れた場所に居を移したのは、お楽さんのいた花柳界で「芳年さんも罪だわね」「みんな裸にされっちまうんだもの」と噂になって居づらくなったのではないかと弟子の山中古洞は記している。

最後の妻、坂巻泰

芳年が引っ越した根津宮永町の家(内藤お屋敷跡)は一棟を三軒で住むように区切られていた。表玄関は交際も稀で人の出入りが少ない人が使っていた。中の三間が芳年や内弟子が住む男所帯、奥の二間が坂巻という老婦人の住居だった。その老婦人を2、3歳の娘を連れて訪ねてくる女性がいた。彼女こそ後に芳年夫人となる坂巻泰である。老婦人は坂巻泰の伯母だった。

略奪愛なのか単に泰夫人離縁後の出会いなのかわからないが、明治十七年(1884)に2人は結婚する(芳年46歳)。泰夫人に対して弟子の山中古洞の評価はすこぶる高い。

結ぶ縁しは宿命と云ふが泰子夫人を得てからの芳年こそ、次第に幸運が恵んだと云へる。一言にしてこれをあらわすと、芳年が初めて知った世話女房の有難さだ。

誰にせよ愛欲の満足はその永続性によりて保証されます。さらに言い換ゆれば無産者の家庭は、銭遣いの細かさが内助の秘法でせう。芳年はかくて夢想だにせぬ賢夫人を得た。

時運の熟したものに相違ないが、お琴さんや、お楽さんの経験では背負ひ切れぬ大任だと、誰もがうなづかせる事でせう。

-『浮世絵誌』第25号より

芳年の晩年の作「月百姿」や「新形三十六怪撰」はまさに泰夫人の結婚後に制作された傑作である。泰夫人は最後の妻として芳年の最期を看取り、自身は明治四十三年(1910)11月7日に亡くなった。法名は「大明院釋泰教大姉」。

コラム:泰夫人をめぐる意外なつながり

坂巻泰の先夫は、羽生善兵衛という馬喰町三丁目で宿屋「近江屋」を営んでいた人物だった。葭町(日本橋人形町)に移転後に宿屋を廃業し、東京府の役人となっている。

羽生善兵衛は泰夫人とのあいだに二男一女をもうけた。次男は芳年没後に月岡姓を継いだ月岡耕漁(こうぎょ)で、浮世絵師・能版画家として知られている。末娘の小林きんは、芳年に関する逸話を数多く雑誌で語っており貴重な史料となっている。では長男はどんな人物だったのか。ここで意外なことがわかった。

長男の名は羽生久安といい、福井商業学校、長崎県公立実業学校の校長を歴任している教育者だった。また甲子園常連校である報徳学園の初代校長にもなっている(二代目校長は二宮尊徳の孫となる二宮尊親)。昭和に入ってからも釜山商業実践学校の学校長として勤務しており、商学の普及につとめていたようだ。

まとめ

月岡芳年は師匠の歌川国芳同様、遅咲きの絵師であった。その芽が出るまで、こうして何人もの女性が陰で支えていたことがわかった。芳年の画業が注目されるなか、そのままでは消えていったであろう女性たちの存在は、弟子の山中古洞や新井芳宗、義娘の小林きんの証言によってかろうじてその名が刻まれた。

稀代の絵師に振る舞わされたかのようにも見える彼女たちは、実際のところどう感じていたのだろうか。今回取り上げられなかった芳年と関係の深い女性「幻太夫」についてはまた次の機会に・・・。

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参考資料

『錦絵』第35号「注目を惹きつつある月岡芳年先生」山中古洞
『錦絵』第35号「亡父芳年の思ひ出」小林きん
『浮世絵志』第15号「芳年と幻太夫(中)」大曲駒村
『浮世絵志』第17号「「芳年と幻太夫」を読みて」
『浮世絵志』第18号「芳年伝備考(第三稿)」山中古洞
『浮世絵志』第24号「芳年伝備考(第七稿)」山中古洞
『浮世絵志』第25号「芳年伝備考(第八稿)」山中古洞
『書画骨董雑誌』第337号「大蘇芳年のことゞも」原風庵主人
『二宮尊徳の生涯と報徳の思想』黒田博
官報(1908年05月14日、1918年11月02日)